サッカー解説者・宮澤ミシェル氏の連載コラム『フットボールグルマン』第77回。
現役時代、Jリーグ創設期にジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレー、日本代表に招集されるなど日本サッカーの発展をつぶさに見てきた生き証人がこれまで経験したこと、現地で取材してきたインパクト大のエピソードを踏まえ、独自視点でサッカーシーンを語る――。
今回のテーマは、移籍について。例年にも増して日本人選手の移籍のウワサが飛び交っていたJリーグの今オフ。そんな状況を見て宮澤ミシェルが、今よりもずっと難しかったJリーグプロ化当時の移籍事情を回想する。
*****
このオフは各チームの主力だった日本人選手の移籍が多いね。海外サッカーと比べると、Jリーグは事前にあまり移籍のウワサがメディアには出ない印象があるけれど、それでも今冬は日本代表クラスの移籍情報が飛び交ったよね。
メディアが「決定的」と書いていても、決まらないケースがあるのが移籍。だけど、火のないところに煙は立たないと言うでしょ。それと同じで、きっと交渉の材料としてリークしている人がいるんだろうね。だから、移籍が本決まりになるかは別にして、まったくない話ではないってことだろうね。
いまは移籍をしやすいルールだから、新たな働き場所を求めるのは当然のことだよね。環境を変えることで気持ち新たに挑めるし、燻っていた才能が開花するケースはある。
ロンドン五輪代表だった大津祐樹は、昨年まで所属していた柏レイソルでは出番に恵まれなかった。チーム側も彼をどう使えばいいのか持て余しているようなところもあった。それで今年から横浜F.マリノスに移籍したけど、ポステコグルー監督のもとで化けたね。
一般的に日本人は新しい環境に移ることを、「自分が未熟だから」と我慢しがちだけど、アスリートの場合は違う環境で腕を試すことも大事。現役でいられる時間は限られているんだから。場所が変われば、出会う人も変わる。それによって本人の気持ちが変わるし、出番のチャンスに対しての取り組みも変わるからね。
ボクは日本サッカー界が、実業団リーグからセミプロ化になった頃に大学を卒業してサッカーを続けた。そして、91年11月にJリーグが設立された。ボクからしたら、ようやくのプロ化だよ。すぐにでもプロで勝負したかった。
だけど、当時の所属だったフジタはJリーグに参加しないことを決めたんだ。ボクがフジタに残る理由はなかったから、当然のように移籍をしようと決めた。だけど、当時は移籍がいまよりもずっと難しかったんだ。Jリーグがスタートする前でルールも決まっていなかったから、所属先と移籍先の話し合いで金額を決めたんだよね。
ただ、移籍金の話し合いがこじれて、ボクは4キロも痩せちゃったんだよね。サッカー選手がオフの間だけで4キロも痩せたら致命傷。我ながらよく復活したと思うよ。
いま振り返っても当時は古巣からも移籍先からもヒドい仕打ちを受けた。最初は「移籍させない。勝手なことを言うな」と言っていた所属元も、ようやく移籍を受け入れてくれたんだけど、後になって追加で移籍先に金銭を要求したらしくてね。
そのことを移籍先の担当者から嫌味を言われたり、その頃のボクは故障を抱えていて、練習では別メニューをしているから「給料泥棒」とか、「チャリンコ漕ぎに来てるんじゃねーよ」とかって言われたりもしたな。
当時はそれを「仕方ない」と飲み込まないといけない時代だったけど、いまなら完全にパワハラだよな。いまの選手たちは移籍するのに、あんな思いをすることもないんだから、羨ましくも思うよ。
来年は1月5日からアジアカップが行われる関係で、年内の国内試合は12月9日の天皇杯決勝で打ち止めになった。でも、例年通りに来季のJクラブの合宿などは1月から始まる。
年末年始に契約が本決まりになって発表されるものが出てくるだろうね。移籍すればまだまだ輝きを放てる選手たちが、どんな選択をするのか。現役生活は後戻りできないものだから、悔いのない決断をしてもらいたいな。