「あの大会が一番楽しかったし、(チームに)一体感があった」と99年ワールドユース選手権を振り返る小野伸二 「あの大会が一番楽しかったし、(チームに)一体感があった」と99年ワールドユース選手権を振り返る小野伸二

かつて、日本の代表チームが世界の頂点へあと一歩まで迫ったことがある。1999年、フィリップ・トルシエ監督率いるU-20日本代表がワールドユース選手権(現U-20W杯)で準優勝――20年前、「黄金世代」と称された面々が刻んだ伝説である。今、その舞台裏を振り返り、アジア杯に挑む森保ジャパンへのエールとしたい。

本日より5日連続で主力選手たちのインタビューを配信。第1回目は小野伸二選手に聞いた。

■あの大会が今までで一番楽しかった

「もう20年になるんですね。早いなぁ」

小野伸二は、そう言ってほほえんだ。

1999年、ナイジェリアで開催されたワールドユース選手権(現U-20W杯)に出場したU-20日本代表。A代表との兼任でフィリップ・トルシエ監督が指揮官を務めた同チームは、世界の強豪を相手に勝ち続け、決勝進出を果たした。決勝ではスペインに敗れるも、FIFA(国際サッカー連盟)主催の大会で日本チーム最上位となる準優勝という結果を残した。

この功績を含めて、同代表を形成する世代の面々は「黄金世代」と呼ばれるようになった。そして実際、彼らの多くがその後に日本代表入りし、日本サッカー界のなかで常に重要な役割を担ってきた。

その中心にいたのが、小野だった。前年、日本が初めて出場した98年フランスW杯も経験した"天才"は、「世界一を獲る」という目標を持ってこの大会に挑んだ──。

──最初は敗戦(カメルーンに1-2)からのスタートでした。

「どんな大会でも初戦が大事なんだけど、硬くなったりして、うまくいかないことが多いんです。でも、このときは思ったよりもいい試合ができた。しかも、得点シーンが自分が思い描いていたものと、まったく同じだった。

僕から(右サイドの)トモちゃん(酒井友之)に出して、トモちゃんから(中央の)タカ(高原直泰)に出して、タカが決める。それが、現実に先制点になって、『これ、夢みたいじゃん』って思ったんですよ。

結局、1-2で負けてしまったけど、内容では自分たちのほうが勝っていた。だから、『やられたなぁ』という(落ち込んだ)気持ちはまったくなくて、むしろ(次は)『イケる!』って思っていました」

──実際にそこから勝ち続けます。チームがひとつになれた要因を教えてください。

「もちろん勝利も大事ですけど、僕は試合と練習以外の時間がすごく大事だなと思っていました。その間に、いかにチームとしてひとつになるか。その部分では、みんな意識的にやってくれたと思います。

ひとつの部屋に集まって、一緒にテレビを見たり、『UNO』をやったり、部屋に(ひとりで)引きこもっている選手がいなかった。それが大会期間を通してできていたのが、大きかったですね」

──サブ組のサポートは素晴らしかったですよね。

「なかなかできることじゃないですよ。彼らはモチベーションを下げることなく、チームを盛り上げてくれた。(大会中に頭を)丸刈りにしたり、明るく振る舞ったりして、献身的に(チームを)サポートしてくれたので、試合に出ている選手は大きな責任を背負ってやっていたと思います。その後、いろいろな大会を経験したけど、あの大会が一番楽しかったし、(チームに)一体感があったと思いますね」

弱冠18歳で日本代表入りを果たし、前年のフランスW杯にも出場した小野伸二。ワールドユースに挑んだ20歳以下の代表チームでは主将を任され、中心選手として活躍した。そのプレーぶりは世界でも絶賛された 弱冠18歳で日本代表入りを果たし、前年のフランスW杯にも出場した小野伸二。ワールドユースに挑んだ20歳以下の代表チームでは主将を任され、中心選手として活躍した。そのプレーぶりは世界でも絶賛された

■歴代代表監督の中でトルシエがトップ

──トルシエ監督についての印象はいかがですか。

「最初はみんなブーブー文句を言っていたけど、要求がはっきりしていて、非常に厳しいから、逆に僕らはまとまれた、というのはあると思います。みんな若かったので、やっぱり厳しさが必要なんですよ。

おかげで、練習はピリピリしたムードでやれたし、試合直前のスタメン発表まで誰が試合に出るのかわからない雰囲気もつくってくれたので、常に緊張感を保つことができました。

サッカー以外の部分でも(現地の)孤児院に連れていってくれたりして、僕たちがどれほど裕福な環境でサッカーをやれているのか、というのを学ばせてもらった」

──トルシエ監督の存在は大きかったわけですね。

「かなり大きいです。僕にとっては、歴代代表監督の中でトップですね。日本人って怒られることがイヤだけど、フィリップはその怒り方がうまい。愛情を持って自分たちに言ってくれていたし、当時の日本にはすごく合っていた監督だったと思います」

初戦のカメルーン戦に敗れた後、日本はアメリカ、イングランドを下してグループリーグを突破。以降、決勝トーナメント1回戦ではポルトガルを、準々決勝ではメキシコを、準決勝でウルグアイを撃破し、決勝へ駒を進めた。ただ、そのスペインとの決勝戦、小野は累積警告によって、出場がかなわなかった。

──決勝進出できた一番の要因はなんでしょうか。

「ひとりひとりが自分の力をしっかり出し切っていたから。それにプラス、"運"が良かったですね。日本人の感覚だと、ブラジルやアルゼンチンが相手になると『やられるかも』ってネガティブに考えがちじゃないですか。それでアルゼンチンも、ブラジルも勝ち上がってこなければいいなと思っていたら、(両チームとも)本当に(対戦前に)負けた。

自分が考えていたことが、そのまま現実になりましたから。カメルーン戦からずっとイメージどおりで、本当に優勝できるんじゃないかって思っていました」

──しかし、あと一歩で世界一には届きませんでした。

「スペインはうまいし、堂々とプレーしていた。それまでの国とは『違うな』って思った。(同じピッチで)戦った選手はその経験ができてよかったと思います。でも、やっぱり僕は優勝して終わりたかった。準優勝という満足感よりも、優勝できなかった悔しさのほうが大きかったです。このチームなら優勝できると信じていたので、残念だった」

──あらためて「黄金世代」と呼ばれてきたことについて、どう思っていますか。

「そう呼ばれることに、特別な意識はないです。ただ、79年生まれで、サッカーをしていない人から、『オレ、黄金世代です』と言われることがあるんです。『同級生』という言葉じゃなくて、『黄金世代』で通じてしまう。そういうのって、面白いなって思いますね」

──「黄金世代」の選手たちが、これだけ活躍できたのはどうしてだと思いますか。

「みんな、サッカーに貪欲だし、"楽しむ"という気持ちが強かった。でも、一番大きいのは、お互いにライバル心がすごくあったこと。実際に僕は、同世代をすごく意識していました。タカ、イナ(稲本潤一)、モト(本山雅志)、ミツオ(小笠原満男)、コウジ(中田浩二)ら、高校時代から戦ってきた選手は仲間だけど、同時に彼らには負けたくない。

僕はこの世代のなかで、ずっと『トップになりたい』と思ってやっていた。みんなのおかげで、いい刺激を受けて成長できた」

──間もなく40歳。今もまだ、成長しているのでしょうか。

「そうですね。現役では、ヤット(遠藤保仁)が常にスタメンでプレーしているので、すごくうらやましいし、刺激になる。あとどのくらいサッカーができるかわからないですけど、お互いに刺激し合いながら、『まだやれるんだ』というところを見せていきたい。若い世代にも、技術とか、イメージとかでは負ける気がしないので」

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●小野伸二(おの・しんじ)
1979年9月27日生まれ、静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属のMF。日本サッカー界屈指の「天才」プレーヤー。1995年Uー17世界選手権、1999年ワールドユース、2004年アテネ五輪に出場。W杯出場は3回(1998年、2002年、2006年)。清水市商高→浦和レッズ→フェイエノールト(オランダ)→浦和→ボーフム(ドイツ)→清水エスパルス→ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ(オーストラリア)

■『週刊プレイボーイ』3・4合併号(1月4日発売)『ザ・黄金世代 日本サッカー「伝説の瞬間」』より