国立競技場で行なわれたV川崎と横浜Mの開幕戦は、今でも強く印象に残っていると語るセルジオ越後氏

平成から令和へ。いよいよ元号が変わるということで、このコラムでも2回にわたって「平成の日本サッカー」を振り返りたい。

一番のトピックは、なんといっても1993年のJリーグ誕生だ。あれですべてが変わった。日本サッカーの新たな時代が始まった。W杯に出るにはプロ化しかない。その一心でJリーグを立ち上げ、突き進み、一大ブームを巻き起こした。スポーツ界に革命を起こしたと言っても過言じゃない。

それまで日本はW杯に出場したことがなかった。直近の90年イタリアW杯はアジア1次予選(89年)で敗退。W杯予選なのに西が丘サッカー場で試合を行なうほど。今では信じられないよね。また、僕自身のことを言えば、当時は「さわやかサッカー教室」という普及活動を行なっていて、メディアの仕事はほとんどしていなかった。

それが"ドーハの悲劇"(93年)もあったけど、98年フランス大会以降、W杯6大会連続出場を果たすまでになった。2002年にはW杯開催国となった。感慨深いものがあるよ。

でも、最初に「プロ化する」と聞いたときは「無理だろう」と思った。なぜなら、当時の日本のサッカーは、プロ化なんて想像もできないほどマイナーだったからだ。テレビ中継があるのは天皇杯の準決勝、決勝くらい。高校サッカーこそ少し盛り上がっていたけど、日本リーグの試合はいつも閑古鳥が鳴いていた。サポーターなんていないし、数少ないお客さんも応援の仕方がわからないから黙ってじっと見ている。客席にいても、選手やベンチの声がよく聞こえてきた。

シャワーやロッカーなど、まともな練習場のあるチームも少なかった。国立競技場もピッチの質がヒドく、年に一度のトヨタ杯開催時には緑のペンキで色をつけていたほど。当然、選手の意識も低く、平気でジャンクフードを口にしていた。

当時、ブラジルから里帰りしたカズ(三浦知良)に「日本にもプロができるから帰ってこない?」と聞いたら、「本当ですか!?」と笑っていたけど、彼も半信半疑だったんじゃないかな。

Jリーグ開幕以前の91年には日本リーグ2部の住友金属(現・鹿島)にジーコが加わった。ブラジルでは大きく報じられていたけど、日本のメディアはピンとこなかったのか、大きな騒ぎにはならなかった。ブラジルの草サッカーみたいな環境でジーコが続けられるのかなと心配したけど、初年度から結果(22試合出場21得点)を出したのはさすがだったね。その後の活躍は言うまでもない。

そして、92年のアジア杯(広島)優勝もあり、徐々にサッカー熱が高まるなか、いよいよ93年にJリーグがスタート。迎えた5月15日、国立競技場で行なわれたV川崎(現・東京V)と横浜M(現・横浜Fマ)の開幕戦は、今でも強く印象に残っている。

僕は記者席ではなくバックスタンドの真ん中あたりにいたけど、とにかく演出が派手で驚いた。まるでW杯やオリンピックの開会式を見ているようだった。選手たちのプレーも熱が入っていて、試合も面白い。5万人以上詰めかけたお客さんもみんな興奮していた。

スタンドには大量のフラッグがはためき、チアホーンの音で耳が痛くなるほど。日本のサッカーの試合でダフ屋を見たのも初めて。僕はもうここは日本じゃないと思った。Jリーグはきっとうまくいくだろうと感じた一日だったね。

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