「僕らが普段、『壁』だと感じるものの正体って、ほとんどが「気持ちの壁」ではないかと思うんです」と語る早川史哉氏

白血病と告げられ、「ホッとした」という。

2016年4月、アルビレックス新潟(当時J1)のDF早川史哉(はやかわ・ふみや/当時22歳)は医師から血液のがん、すなわち急性白血病だと診断された。

「数ヵ月前から、体に異変を感じていました。体は熱っぽいし、アップをしただけで息が上がるほどの尋常でない疲労感があって。原因はわからず、得体の知れない相手、見えない恐怖と闘う日々でした。だから病気とわかったときは絶望よりも安堵(あんど)の気持ちのほうが強かったんです」

10代の頃から世代を代表するプレーヤーとして活躍していた早川はこの年、プロデビューを果たしたばかり。2月の開幕戦ではスタメン出場も勝ち取ったが、直後に待っていたのは非情な告知だった。

「それでも気持ちの切り替えは早かったと思います。僕にとっては死の恐怖よりもサッカー選手に戻れるかどうかのほうが深刻な問題でした。サッカー選手にとっての引退は、ある意味、死と同じだと思うんです。なのでどんな病気であろうと立ち向かうという選択肢以外はありませんでした」

とはいえ当然、簡単な治療ではない。特に骨髄(こつずい)移植をする前の抗がん剤治療の過酷さは想像を絶するものだった。

「手の皮膚がちょっとはがれて痛かったり、かゆかったり。全身のいろいろなところに痛みが出るのでなかなか深い眠りにつけない。起き上がることもできずにうずくまりながら、うっすらとした意識の中で一日一日が過ぎ去ってくれるのをひたすら耐えていました。あの2週間がいちばんつらかったですね」

そんな日々、励みになったのは窓から差し込むわずかな光だったという。

「僕が入っていた無菌室からは建物の壁しか見えなかったんです。でも、斜めから少しだけ光が入ってきて、それを確認できるだけで心が少し安らぐ。光ってこんなに重要なものだったんだと強く感じました」

移植が成功した後、寛解し退院したのは17年6月のこと。髪は抜け、体重は入院前に比べ、10kg近く落ちていた。しかも「完治」という定義がない白血病は常に再発のリスクと隣り合わせだ。それでも早川はプロサッカー選手に戻るための人生をスタートさせた。

「退院後は一歩進めたかなと思えば、すぐに強い力で後ろに引き戻される日々の連続でした。3km走ることができて喜びを味わったかと思えば、直後に足が痛くなって再発に怯(おび)える......悪いときにはどうしても下を向いてしまうこともありました。

でもサッカーが好きだという思いやプロに本当に戻りたいんだという気持ち、そしてサポートしてくれる人たちの支えをずっと感じていられたからこそ、転げ落ちずにまた前を向くことができたんだと思います」

18年11月、アルビレックスとの契約凍結が解除されてプロ選手として復帰するも、どうしても越えられない壁があった。彼自身が「魔の15分」と称するピークタイムだ。

「紅白戦や練習試合に出場すると、決まって15分あたりで息が完全に上がってしまうんです。プレーの質や思考がガクッと下がり、ミスを連発してしまう。『15分が限界なのか?』『自分がいるとチームに迷惑をかけてしまうのでは』とトラウマに近い感情すら抱くようになってしまいました」

だが、それをある試合で克服した早川は、その原因がフィジカルにないことを確信する。

「それまでの僕は口では『試合に出たい』と言っておきながら、"魔の15分"という自分の限界を勝手に決めて、自分の可能性に自分で蓋(ふた)をしていたんです。だから、ちょっとでも息が上がったら脳が体にストップをかけていたんじゃないかと。これってサッカーに限らず、日常生活でも同じだと思うんです。

思考に限界をつくらなければ、できることってもっといっぱいあるんじゃないかなって。それで本のタイトルにも『日常』という言葉を入れたんです。僕らが普段、壁だと感じるものの正体って、ほとんどが『気持ちの壁』ではないか。そう思える経験をできたことは今後の人生にもすごく大きかったと思います」

2019年10月5日、ついに「その日」がやって来た。J2鹿児島ユナイテッドFC戦で早川はホームのビッグスワンの芝に立っていた。病気になってから、およそ3年半。ようやく公式戦のピッチに帰ってきたのだ。

その試合の最中に味わったひとつの強烈な痛みが幸福を連れてきた。ボールをクリアした直後、タックルに来た相手選手の足が右足甲を激しく打ったのだ。

「あれは自分が逃げなかったからこその痛み、チームのために戦えたからこその痛みなので、むしろうれしかったですね。あそこで足を引っ込めずに出せたことで、やっと自分がここに帰ってこられたんだなと思いました」

とはいえ、今もまだ完全に体力が戻ったわけではない。

「病気になる前が10としたら、正直、7ぐらいだと思います。昔はダッシュが得意だったんですが、今は常に『遅いな......』というもどかしさを感じながら走っているので、好きじゃなくなりました。でも、それだってひょっとしたら自分が勝手につくっている壁かもしれません」

大病から、わずか3年半で一流アスリートしか入ることを許されない「戦場」に帰還した彼に「あなたは超人ですか?」と聞くと、「しょせん、人ですよ」と帰ってきた。

「最初から3年半とわかっていたら、こんなには頑張れなかったと思うんです。わからないからこそ試行錯誤して、自分の可能性を信じて、気持ちをずっと保つことができた。一日でも早く復帰したいという強い思いの積み重ねが、たまたま3年半だったように思います」

早川は最近、人から「明るくなったね」と言われることが多くなったという。

「もともと暗くはなかったんですが、近寄り難い存在だったみたいです。これまで初対面の人に声をかけられることなんてまず、ありませんでしたから、すごくとがっていたんでしょうね(苦笑)。

でも、病気になって人と普通に話せることの幸せが身に染みたし、今では自分から話しかけるようになりました。あと『よく笑うようになったね』って言われます」

――家族に?

「彼女にいちばん言われます」

早川はそう言って、ニッコリと笑った。

●早川史哉(はやかわ・ふみや)
1994年生まれ、新潟県出身。26歳。高2で出場した2011年のFIFA U-17ワールドカップメキシコ大会では、日本代表のキャプテンとしてFWからDFまでをこなし3得点。筑波大学を経て、2016年アルビレックス新潟に入団。同年、リーグ戦3試合とカップ戦1試合に先発フル出場をしたが、4月24日の名古屋戦後に急性白血病と診断される。手術、闘病、リハビリを経て、2018年8月にトップチームの練習に合流。2019年10月5日、およそ3年半ぶりに公式戦のピッチ復帰を果たした

■『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』
(徳間書店 1500円+税)
2016年の春、プロサッカー選手としてJリーグデビューを果たした直後、急性白血病と診断されたアルビレックス新潟の早川史哉。移植手術、想像を絶する闘病、リハビリと血の滲(にじ)むようなトレーニングを経て、2019年10月、ついに公式戦のピッチでフル出場を遂げた。彼はなぜ、大病からわずか3年半で一流アスリートたちが鎬(しのぎ)を削る「戦場」に帰還できたのか? その苦しみや葛藤を赤裸々に語る

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