14年ぶりに古巣の西武に復帰した松坂大輔(39歳)。新型コロナウイルスの影響で開幕の時期は不透明だが、プロ22年目のシーズンに向けて調整を進めている。
令和に入ってなお、大きな注目を集める"平成の怪物"について、2歳年下の弟・恭平(きょうへい)氏に話を聞いた。恭平氏も幼い頃から野球を続け、東京六大学や独立リーグでもプレーし、現在は米スポーツブランド「アンダーアーマー」の日本総代理店である「株式会社ドーム」に勤務している。野球界のスターになっていく兄・大輔は、弟からどう見えていたのか。
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――恭平さんは、今年2月に始めた配信サイト「note(ノート)」で大輔さんとのエピソードを数多く配信していますね。
松坂恭 実は同日に、YouTubeの配信も始めたんです。オンライン上で丁寧な接客をしたいと思ってのことですが、そちらを多くの方に見ていただくためにnoteを活用しようと考えて。その際に、「兄との話をしたほうが注目されるだろう」と思ったんです。
――これまでは、ほかのメディアでも大輔さんの話はあまりオープンにしていなかったと思うのですが。
松坂恭 入社当初から、社長に「松坂大輔の名前に頼るのはダメ。兄貴もいつか引退するし、松坂恭平として社会人の力をつけないといけない」と言われてきて、自分でもそれを理解して仕事をしてきました。でも、休職も挟んで現在の会社も15年目になりますし、そろそろ兄をネタにしてもいいだろうと(笑)。
――では、さっそく幼少期の話から伺います。恭平さんが野球を始めたのは、やはり大輔さんの影響ですか?
松坂恭 そうですね。自分から「野球がやりたい」という感じではなく、兄が小学3年生から野球を始めたので、「自分も」という流れだったと思います。
小学生のときは東陽フェニックス(東京・江東区の少年野球チーム)で一緒にプレーしました。兄は投げるよりも打撃がすごく、大事な試合でいつもホームランを打っていたイメージがあります。野球を細かく教わったことはなくて、スライダーの握りを聞いたときも「ちょっと指をずらして投げるんだよ」くらいでした(笑)。
――大輔さんはどんな野球少年でしたか?
松坂恭 よく僕は「我が強く、負けず嫌い」と言われていましたが、絶対に兄のほうが負けず嫌いです。負けを認めない、負けを人のせいにするといったことはなく、その悔しさを糧(かて)にひたすら練習して結果を出すタイプでした。
――"さぼりのマツ"と呼ばれていた高校時代とは、だいぶイメージが違いますね。
松坂恭 それは中学時代から言われていましたが、練習しないイメージはまったくないです。兄は自分の体の状態を誰よりも理解していましたし、「これ以上やったらヤバイ」という感覚があるんでしょう。無理してケガをしないように、誰に何を言われようが、練習量をコントロールしていたんだと思います。
――兄弟仲はどうでしたか?
松坂恭 僕が中学1年の頃からしばらく仲が悪かったですね。当時の僕は野球を"やらされている感"が嫌いで、友達との遊びのほうが楽しくなり、ちゃんと練習しなくなったんです。それなのに兄の野球に口を出すから、ケンカに発展する。だいたいの原因は僕がつくっていました。
――その後、大輔さんは横浜高校の大エースとして甲子園の春夏連覇という偉業を成し遂げましたね。
松坂恭 兄が高校3年のときの夏の甲子園決勝は現地で見届けましたが、ノーヒットノーランは「ありえない」と思いましたよ(笑)。それでも、ふたつ年上の兄がやったことなので、僕もあと2年したらそこまでいけるんじゃないかと漠然と考えていました。
――甲子園のヒーローになった兄と比べられるのはいやではなかったんですか?
松坂恭 それは兄が西武に入ってから感じるようになりました。高卒ルーキーで16勝を挙げて最多勝ですから「すごいな」と思いましたけど、僕は「松坂の弟」と言われることが多くなっていった。だんだんと「松坂」という名字が僕のものではないように感じるようになっていきました。
――恭平さんも高校で野球部に所属していましたが、注目度は高かったでしょうね。
松坂恭 僕が通っていたのは都立高校でしたが、あまり重要じゃない試合にも観客が殺到することがありました。取材陣も多いんですが、聞かれるのは兄のことばかりで、無視するなど僕の態度は悪かったですね。兄とのギャップを素直に受け入れられず、「死んじゃえばいいのかな」と思うときもありました。
――その頃に心の支えとなったものは?
松坂恭 友達は気持ちを理解してくれましたし、両親が僕と兄を比べなかったのが救いでした。そうして耐えるうちに、高校3年のときには乗り越えられていましたね。
――恭平さんは法政大学に進学しますが、大輔さんと話をしましたか?
松坂恭 「また野球をまじめにやるんだ」と声をかけられました。僕の野球熱が高まっていくにつれて仲もよくなり、食事も一緒に行くようになりましたね。僕は大学時代にケガが多くて活躍できませんでしたが、兄はプロ野球選手が治療に通う病院をたくさん教えてくれたり、いろいろサポートしてくれました。
――ちなみに、恭平さんが現在の仕事に就いた後、「お兄さんと契約を結んできて」などと言われたことはありますか?
松坂恭 会社からそういうミッションが来たことがあったんですけど、すっごい気まずかったですよ(笑)。ほかのメーカーさんとの契約がありましたから、結局は実現しませんでしたけど。
――エースとして西武を牽引(けんいん)した大輔さんは、メジャーリーグでも活躍し、WBCでは世界一にも輝きましたね。
松坂恭 もちろん実力や努力があってのことでしょうけど、運にも恵まれているというか、そういう星の下に生まれた人なのかなと思います。そもそも、甲子園の決勝でノーヒットノーランなんて、運も味方してくれなければできないですよ。
兄自身、そういったものを受け入れていると思います。ケガをしても「運命だから」とすぐに切り替えますし、負けが先行していた2001年のシーズン中には「俺はやることを変えてないから仕方ない。長い野球人生、いろいろあるだろ」と言っていました。
――2014年にソフトバンクに移籍して日本球界に復帰してから、肘と肩のケガで長く投げられなかったときも平然としていたんですか?
松坂恭 治療で東京に来たとき、「さすがに精神的に弱っているのかな」と感じました。その時期から、やたらと優しくなったんです(笑)。
だいぶリハビリが進んでからキャッチボールをやった際には、「だんだん肩が動くようになってきたんだよね」と話していたのを覚えています。ニュースなどでは「(以前のフォームより)肘が下がっている」などと言われることもありましたが、どれだけ投げられるようになったかを一番理解していたのは、やはり兄だったと思います。
――そして18年に中日に移籍し、同年4月には日本で4241日ぶりとなる勝利を挙げました。当時のことを覚えていますか?
松坂恭 すぐにLINEで「祝1勝! おめでとう!」と連絡を入れました。昔と違って球速が140キロ程度しか出せない状況で勝ったのはすごいですね。「最速150キロを超える剛速球ピッチャーだった人がここまで自分を変えられるか」と感慨深かったです。
僕の祝福に対して、兄はスタンプを返してきました(笑)。日本とアメリカで170勝も挙げてきているので、もちろん大事な1勝ではあるけど、一喜一憂みたいなものはなかったんだと思います。
――大輔さんとは普段からやりとりをしているんですか?
松坂恭 最近は少ないですね。両親経由で「今日、(大輔が)東京にいるらしいよ」と伝えられるパターンが多いです(笑)。
野球に関しては、18年には兄が打席に立つことが多かったんですけど、その最初の打席を見たときに「全然タイミング合ってないね。思いっきり差し込まれているじゃん」と送ったこともありました。そのときは珍しく、「久しぶりの打席すぎて、まったくタイミングを取れなかった」と素直な反応でした(笑)。
――昨シーズン、大輔さんは1軍での登板が2試合のみでした。今シーズンにどんな期待をしていますか?
松坂恭 今年はまた頑張ってほしいです。兄が先発でバリバリ投げていた頃は、その登板を家族で見るのがルーティンになっていました。またマウンドで躍動する姿を両親も楽しみにしています。
兄が高校生のとき、実家で兄の机の引き出しを勝手に開けてしまったことがあるんですが、「全国制覇」と書かれた下敷きを見つけました。そのように、常に頂点を獲りにいく目標を立てて、それに邁進(まいしん)してきた兄ですから期待しています。
僕もたくさんの力をもらってきたので、野球やスポーツを通じてもっと社会に貢献できるよう頑張りたいと思います。
●松坂恭平(まつざか・きょうへい)
1982年11月23日生まれ、東京都出身。兄・大輔の影響で小学1年生で野球を始め、法政大学、プロ野球独立リーグ・四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツでもプレー。現在は「株式会社ドーム」で商品企画部部長/ユーチュー部プロデューサーを務めている