野村氏との『超一流 プロ野球大論』制作秘話を語る江本氏 野村氏との『超一流 プロ野球大論』制作秘話を語る江本氏

■亡くなる前日に届いた最後の校正刷り

2月に84歳で死去した野村克也(のむら・かつや)氏江本孟紀(えもと・たけのり)氏の初の共著『超一流 プロ野球大論』(徳間書店)が発売された。

本来であればこの時期、ふたりそろってプロモーションを行なうはずだったが、結果的にこの書籍は野村氏の"遺作"となってしまった。南海時代から約半世紀にわたって親交があった江本氏は今、何を思うのか。

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野村さんが亡くなった2月11日、僕は沖縄・北谷(ちゃたん)でキャンプ取材の真っただ中でした。この日の朝早く、マスコミ関係者から「亡くなったらしい」と連絡が来たんですが、まだ情報が定かじゃなくて。それからしばらくして9時半頃かな、江夏(豊)から電話があって、「ノムさんが亡くなった」と聞きました。

僕は1月21日に金田(正一)さんのお別れの会で会ったのが最後だったんですが、とても今日明日に死ぬ感じじゃなかったので、まさかと思いましたね。それで、その日の予定はすべてキャンセルして、北谷の海をぼーっと眺めていたらいろんなことが浮かんできて。

最後に会った日の車椅子での後ろ姿もそうだし、僕が南海に移籍した昭和47年、自主トレの初日に初めて会ったときのことも鮮明に思い出してね。僕は常にベッタリということではなかったけど、自分の人生にはいつも野村さんがいたんで、親の死とはまた少し違った妙な気分になりましたね。

すぐにこの本のことも頭に浮かんで。後から聞いたら、野村さんからの最終チェックが入った校正刷りが編集者に届いたのは亡くなる前日だったと。結果的にこんなタイミングで初めて共著を出すことができたわけですから、野球の神様が引き合わせてくれたんでしょう。

僕はその翌日に急遽(きゅうきょ)、東京に戻って、野村さんのご自宅に直行しました。すでに帰京していた(息子の)克則とも話したんですが、布団の中の野村さんはまるで昼寝をしているようで、ここ最近は見たことがないくらい安らかな表情だったんです。

日頃から「自分から野球を取ったら何も残らない」なんて言ってましたけど、あの表情を見たら"生涯野球人"でいるのもけっこう、しんどかったんじゃないのかなって。そんなふうに思えるくらい、いい表情でした。

■師匠ではなく「監督」「捕手」「4番打者」

今回の書籍では南海時代から数えて実に45年ぶりに"バッテリー"を組んだ両氏。「長嶋、星野、落合の"監督の素顔"」「野村&江本が選ぶ"歴代・平成ベストナイン"」「今こそ明かそう、あの真相」など、江本氏の舌鋒(ぜつぽう)鋭い野球論を野村氏が巧みに受け止める形で展開されていく。

絶妙のかけ合いを見せたかと思いきや、両者まったく譲らない部分もあり、そうした野球観の違いも読ませどころのひとつだ。

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「なんの因果か、最後に野村さんと共著を出せたのは自分の人生にとってもいい思い出」と語る江本氏 「なんの因果か、最後に野村さんと共著を出せたのは自分の人生にとってもいい思い出」と語る江本氏

今回の書籍の帯には「名伯楽とその愛弟子」って書かれていますけど、厳密に言えば僕は野村さんの「弟子」ではないんです。僕にとっての野村さんは「師匠」というよりも、自分が選手だったときの「監督」であり、自分とバッテリーを組む「捕手」であり、自分に勝ちをつけてくれる「4番打者」だった。野村さんが僕と同じ投手だったら、すんなり「師匠」と言えたのかもしれないですけどね。

野村さんと僕では、野球の見方が違う部分もたくさんありますし、僕も変に同調することはないんで、この対談本が成立したんじゃないかと思ってます(笑)。

亡くなってすぐにフジテレビの追悼番組に出演したんですけど、このとき一緒だった長嶋一茂が「ヤクルト時代、試合前のベンチで野村監督と(解説者の)江本さんが言い争いをしていたことをハッキリと覚えている」って言うんです。

話を聞いているうちに思い出したんだけど、あるとき、僕が新聞で野村さんの投手起用を酷評したことがあってね。その翌日、記事を読んだ野村さんが僕の姿を見るや否や「おい江本、こっちに来い」と言うので隣に座ると、ポケットから一枚の紙切れを取り出してきて。

そこにはベンチ入りしている投手の名前がずらっと書かれていて「こんなヤツらばかりで、いったい誰を使えばいいっていうんだ!」ってすごい剣幕なんです。それに対して僕も負けずに自分の意見を言うから、気がつけば大ゲンカになっていて。僕に文句を言うためだけにその紙切れを用意するんだから、すごい執念ですよ(笑)。

書籍の対談は昨年の夏から5回くらいやりました。毎回テーマを決めてそれぞれの意見をぶつけ合う。例えば巨人・原 辰徳監督について僕は「実は脇役もきちんと育てているじゃないですか」って言うんだけど、野村さんは「お坊ちゃん監督だ」と一貫して譲らない。あの人は自分のスタイル、考えを絶対に変えないから面白いんですけどね。

僕らの野球観や論評の違いを端的に言えば、キャッチャー出身の野村さんは「易しいことをどれだけ難しく言うか」、ピッチャー出身の僕は「難しいことをどれだけ易しく言うか」。

キャッチャーというのはサインを出す前にバッターを見て、ピッチャーを見て、相手ベンチをも見た上でいろいろと考えるから必然的に思考が複雑になる。ピッチャーはそんなの見ませんから。どこ見ると思います? バッターの目だけです。そこからして違うんです。読者にはそのあたりの違いも楽しんでいただけたらと思ってます。

■野村さんは僕が先に死ぬと思っていたはず

晩年はグラウンドレベルで十分な取材を行なえなかった野村氏。対談時は江本氏が語る"現場の空気感"を楽しそうに聞いていたという。名伯楽が本書で「野村教室の最高傑作」とたたえた江本氏とのかけ合いは、このふたりでしか成立しない至高のプロフェッショナル論となった。

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昨年、この本の企画が立ち上がったとき、僕は野村さんがOKしないんじゃないかなって思ったんです。元気な頃だったら絶対に「あんなヤツと一緒に本を出すのはイヤだ」って言っていたはずだから(笑)。でも、スムーズに許可が下りた。それはきっと野村さんの中に南海時代の郷愁があったからじゃないかなと思うんです。

世間的にはヤクルトの黄金時代を築いた「名将」のイメージが強いんでしょうが、南海時代の野村克也はONに匹敵するような「スーパースター」でしたからね。今や、あの時代のことを知る野球人は僕を含めてごくわずか。そういう意味でも特別な関係と言えるかもしれません。

最後の対談の後、本のカバー用に撮影をしたんだけど、このときカメラマンがわれわれに「腕を組んで」とポーズの注文を出してね。それぞれが腕を組む、という意味だったんだけど、野村さんは何を勘違いしたのか恋人同士のように僕に腕を絡めてきたんです(笑)。あのときの照れたような顔はチャーミングだったな。

野村さんが亡くなってからいろいろなことを思い出すんですが、あの人のことを考えているとだんだん腹が立ってきてね。その理由はなんだろうって考えたんだけど、たぶん、近親憎悪ですね(笑)。似た者同士なんですよ、野村さんも、僕も。思ったことはすぐに口にするし、褒めるのが苦手で、つい皮肉を言ってしまう。

そんな野村さんがこの本の冒頭で「江本は野村教室の最高傑作」と褒めてくれて。僕は生前、野村さんには一度も褒められたことがなかったんですが、最後の最後に気を使ってくれたんでしょう(笑)。僕はこれを野村さんからの遺言だと受け取っています。

僕はね、野村さんは真剣に100歳まで生きると思っていました。理由? あの人は嘘つきだから(笑)。ここ数年は誰かが亡くなるたびに「次はオレの番や」って言ってたけど、本心では絶対にそんなこと思ってない。

たぶんね、野村さんは僕のほうが先に死ぬと思っていたはずですよ。会うたびに「おまえ、体は大丈夫か?」って聞いてきて、僕は「大丈夫ですよ」って言うんだけど、必ず最後は「でも、顔色が悪いぞ」って(笑)。ひょっとしたら僕がそう長くないと思って、この本で褒めてくれたのかもしれません。

僕は野村さんに見いだされて通算113勝を挙げることができたんですから、僕と野村さんは黄金バッテリーだったということにしておきましょう。きっと天国ではサッチー(沙知代夫人)とふたりで僕のことを待ってるでしょう。会いたくないですね(笑)。

●江本孟紀(えもと・たけのり) 
1947年生まれ、高知県出身。72歳。高知商、法政大、熊谷組を経て70年に東映フライヤーズに入団。2年目の72年、南海ホークスに移籍。4年間、野村氏とバッテリーを組む。76年に阪神タイガースに移籍し、81年に「ベンチがアホやから野球ができへん」の言葉を残して引退。プロ通算11年で113勝126敗19セーブ。開幕投手6回、オールスター選出4回

■『超一流 プロ野球大論』
(徳間書店 1400円+税) 
名伯楽とその愛弟子が令和に残す最後のプロフッショナル論。12球団それぞれの前途や、長嶋、星野、落合ら名監督の素顔、400勝投手金田正一、サッチーまでを語り尽くす。ノムさん最後の直言メッセージ