僕の教室では、とにかくサッカーの面白さを知ってほしかったと語るセルジオ越後氏

今回は僕の現役引退後、全国各地を回った「さわやかサッカー教室」についての話をしよう。

日本リーグの藤和不動産(J1湘南の前身)でプレーした後、僕は永大産業という会社のサッカー部のコーチを2年務めた。ところが、1977年に業績不振により廃部が決定。1年間は会社が面倒を見てくれることになったけど、その後はブラジルに帰るしかなく、僕自身もそうなるものだと思っていた。

そんなときに、サンケイスポーツの編集局長だった賀川 浩さん(95歳、現サッカーライター。2015年にFIFA会長賞を受賞)が声をかけてくれた。当時は79年ワールドユース(現U-20W杯)の日本開催が決まり、それをきっかけに日本サッカー協会が普及活動に力を入れ始めていたタイミング。賀川さんがそこに僕を推薦、というよりも強引にねじ込んでくれたんだ。

そうして78年に少年少女を対象とした「さわやかサッカー教室」がスタート。北は北海道の稚内、南は沖縄の宮古島まで全国を回り、02年までに延べ1000回以上開催し、約50万人以上が参加したそうだ。ありがたいことに、今でも街中で「僕、参加したんですよ」「修了証をまだ持っています」などと声をかけてくれる人は多い。

僕の教室では、とにかくサッカーの面白さを知ってほしかったから、小さくてもコートをたくさん造り、皆が試合に参加できる形にした。そこに僕や仲間のブラジル人が加わるんだ。

日本とブラジルの違いを感じることもたくさんあって、例えば、野球のスパイクを履いてくる子がたくさんいたのには驚かされた。また、「見学に来ました」という消極的な子もけっこういて、「見ているだけじゃうまくならないから一緒にやろう」と誘うこともしばしば。

ポジションを聞いて「補欠です」と答える子には「ブラジルには補欠はいないよ。今日は皆が試合に出るからね」と言ったら必死でボールを追いかけていたよ。

反響は最初から大きかった。行く先々で取材を受け、スポンサーになっていただいた日本コカ・コーラの社長さんには「これは長く続けないといけない。だからセルジオ君、健康には気をつけて」と言われ、励みになったね。

多いときには子供、保護者、サッカー関係者で何百人も集まった。「どうやって教えるんだ。教えるなら30人が限度だろ」という日本代表OBもいたけど、僕は自分が小さい頃に経験したサッカーの楽しさを伝えようとしただけ。それは"教える"ものじゃないんだ。

技を見せれば子供はマネをする。「もう一回やって」と言われたら、今度は違う技を見せる。で、子供がまたマネをする。そのうち指導者の大人もマネをし始める。皆が一流選手を目指す必要はないし、サッカーってこんなこともできるんだ、面白いなと思ってくれれば十分。そう考えていた。

全国各地それぞれの場所に思い出はあるけど、いい意味で驚いたのは静岡県の清水だ。清水では大人もサッカーができるように学校の校庭にナイター設備があった。見学に来たお母さんたちもリフティングができた。清水FCという少年サッカーの選抜チームもあった。「日本にもブラジルがあった」とうれしい気持ちになったものだ。

活動を長く続けられたのは多くの助けがあってこそ。僕にとっては大きな財産。日本に来て、本当に素晴らしい経験をさせてもらったと思っている。

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