今年1月の合宿で、巨人のエース・菅野(右)にフォームについて説明する、アスリートコンサルタントの鴻江(左) 今年1月の合宿で、巨人のエース・菅野(右)にフォームについて説明する、アスリートコンサルタントの鴻江(左)

始動するのは腕からだ。先に両手を顔の右側のほうに持っていき、それから投球動作へと移っていく。

巨人の菅野智之が今シーズンから取り入れている新フォームだ。当初はあまりの変貌ぶりに物議を醸したが、否定的な意見は彼が登板を重ねるたびに消え去っていった。

8月25日のヤクルト戦では開幕9連勝を達成。巨人では1966年に13連勝した堀内恒夫以来4人目で、その年の開幕投手に限れば38年春のスタルヒンの11連勝以来、82年ぶりふたり目という快挙だ。

「去年のように成績を落とし(11勝6敗、防御率3.89)、ケガに苦しんだシーズンは、自分の野球人生を振り返ってみてもなかった。だから、新しいことに挑戦するいいタイミングなのかな、と」

昨年まではハワイで自主トレを行なった後、都内で調整してキャンプインしていた。しかし、今年1月、菅野が帰国してすぐ向かったのは九州・福岡だった。アスリートコンサルタントの鴻江寿治(こうのえ・ひさお)が主宰する、自主トレ合宿に参加するためだった。

鴻江は「フォームづくり」の達人として野球界をはじめ最近ではゴルフ界でも広く認知されている。人間の体を「うで体(からだ)(猫背タイプ)」と「あし体(反り腰タイプ)」に分類した「鴻江理論」に基づき、それぞれの体の特徴に合わせた動作や調整法を唱える。

かつては小笠原道大も師事し、現役選手でも松坂大輔(西武)や吉見一起(中日)、中島宏之(巨人)、栗山巧(西武)、今永昇太(DeNA)らが合宿に参加したことがある。特に、ソフトバンクのエースである千賀滉大(こうだい)が育成時代から毎オフ欠かさず参加していることは有名で、ソフトボール界のレジェンドである上野由岐子も合宿の常連だ。

菅野と鴻江は昨年知り合った。思うような投球ができずにもがいていた菅野を、鴻江はどのように見ていたのか。

「どの選手を見るときも、その人の取り組みやフォームは否定しません。それが悪いのではなくて、もっといいものがあるのではないかと思いながら見るようにしています」

球場やテレビでフォームチェック。過去の動画も確認する。菅野の東海大学時代までさかのぼった。打撃の動画も見た。

「本職でない打撃やその後の走塁は、練習で培ったもの以上に、自分の本能に近いところで動こうとしますから」

ほかにも、何げない雑談風景など、無意識の状態でどんな姿勢を好むかも参考にした。菅野の体はどちらに分類されるのか。鴻江の出した答えは「うで体」だった。

うで体の場合、左の骨盤が開いて(後傾して)いるため、右利きならば投げる方向に体が回りやすいので、軸脚にしっかりタメをつくって投げるのが理想となる。しかし、昨年の菅野は足が先行するフォームになっていてタメをつくれず、左腰の開きが早くなっているように鴻江には映った。

鴻江が主宰する合宿には、多くのプロ野球選手が参加。ソフトバンクのエース・千賀(左)も育成時代から師事し、球界を代表する投手へと成長を遂げた 鴻江が主宰する合宿には、多くのプロ野球選手が参加。ソフトバンクのエース・千賀(左)も育成時代から師事し、球界を代表する投手へと成長を遂げた

昨年のある日、菅野から「合宿にはたくさん選手が来るんですよね?」と話題が出た。「そうですよ。菅野くんも参加しますか?」と鴻江はやんわりと誘った。

鴻江は菅野がハワイで自主トレをみっちり行なっていることを知っていた。そして、菅野が「長い野球人生のなかで、フォームを変えないこと」を美学にしていることが頭の中にあった。

それでも、映像などを見ながら話をするよりも、目の前で実際に投げてもらいながら言葉を交わさなければ思いは伝わらないと考えていた。そんな鴻江の熱意は菅野に届いた。当初組んでいた予定を変更してまで、鴻江の合宿に参加することにしたのだ。

1月17日、千賀やソフトボールの上野が集う球場に菅野が現れた。時刻は夕方4時を過ぎていた。私服のまま、まずは挨拶(あいさつ)に出向こうとしたが、グラウンドを見て驚いた。マウンドで投球練習を行なっている投手がいた。しかも捕手は座っている。

福岡といえども真冬の屋外球場だ。日暮れも迫っていた。素早く着替えを済ませて動ける格好になると、すぐさまアップを開始。「本当に投げるんですか?」と合宿スタッフに尋ねるが、鴻江も千賀も上野もみんなまじめ顔だ。

空色が濃くなり始めるなか、菅野はマウンドに立った。捕手を座らせて、力を込めて投げた。数球投げたところで、鴻江が声をかける。それが、腕から始動する新フォーム誕生の瞬間だった。

「菅野投手は現在30歳。体の硬さが出始める年代でもあるので、オーソドックスに体の正面で両手を合わせて始動するスタイルでは、体のひねりが十分に使えずタメもできなかったのだろうと考えました」

もうひとつのポイントは、グラブを持つ左手の使い方だ。

「グラブのポケットを捕手に見せ、左手の小指で体重移動する体を引っ張ってやるんです。空手チョップをするように」

それまでは背筋側に力が逃げていたが、体の前側の丹田を中心とした軸で体を回転させられるようになった。さらに、捕手方向へのラインづくりが完成したため、ボールに力が伝わって制球も安定した。

鴻江と同様に、菅野の背中を押してくれたのは、次のような上野の言葉だった。

「結果が出なくなったということは、今のままでは通用しない自分がいて、次のステップに移るチャンスだと思う。自分の体の考え方や変化についていけなかった人が脱落していくんじゃないかな」

決心を固めた菅野はその晩、シャドーピッチングを繰り返した。己を知り、進むべき道を見つけた人間は、自分の能力の中で驚くほど成長する。菅野は今季後半も、歴史を塗り替える存在へと前進していく。