4月16日に集英社新書から『MotoGP最速ライダーの肖像』(著/西村 章)が発売されたのを記念して、同書にも登場する元MotoGPライダー、玉田誠氏と中野真矢氏による対談をお届けします(司会進行は西村氏)。

前編】の今回は、お二人の現役時代の思い出――グランプリ、好きなサーキット、そしてお互いの印象――などを語ってもらった。

写真左から、中野氏・西村氏・玉田氏 写真左から、中野氏・西村氏・玉田氏

***

西村 おふたりは元MotoGPライダーで、ともにブリヂストンユーザーの時期があったのですが、このような対談形式で話をしている印象はあまりないんですけれども、実際のところはどうなんですか。

玉田 イベントでは一緒になったことはありますけど、対談は初じゃないかな。

中野 初めてですね。こうやってあらたまって話すことはなかったので、何かちょっと照れますね。

玉田 確かに。こういうマジメな対談は初めてです。

玉田誠氏 玉田誠氏
西村 マジメな内容的になるかどうかは、ちょっと分からないですけれども(笑)。

おふたりの現役期間は、中野さんは1990年代後半に250ccクラスで活躍の後、最高峰の500ccに上がり、時代がMotoGPになった。一方、玉田さんは2003年にMotoGPに来るという流れになりました。あの時代の最高峰クラスは日本人ライダーが非常にたくさん活躍していました。当時のグランプリって、ふたりの目から見てどういう印象でしたか?

玉田 日本ではモータースポーツはメジャーではないけれども、ヨーロッパへ行ってみると、こんなに違うのかということをすごく感じました。人の多さや関係者の多さ。街中にも大きな看板があって、MotoGPライダーというだけでステータスが全然違いますもんね。

中野 それまではもちろん、日本しか知らなかったので、ヨーロッパへ行ってみると、人や生活、食事、言葉......、何から何まで違っていて、しかもそれぞれの国で文化が異なるので、そういうところにはすごく驚きました。

中野真矢氏 中野真矢氏

西村 最初にヨーロッパで走り始めた頃に、「グランプリに来たんだな」と実感した会場やレースってありました?

玉田 いや......、そう言われてみればないかもしれないです。そういうことを感じる余裕がないというか、走ることだけで精いっぱいの状態でしたね。

中野 僕は最初に入ったチームがフランスだったので、ポールリカールサーキットやル・マンに練習に行ったりしたんですが、そのときに「すごく伝統のあるコースを走ってるんだな......」と感じたし、あと、僕は『バリバリ伝説』が大好きだったから、現実とマンガが頭の中でゴチャゴチャになるような、そんな感じでした。

西村 当時はレギュレーションの面でも、2ストロークから4ストロークになっていく過渡期でしたが、興行面でも今のようにスポーツビジネスとしてシステマチックになる前の、ワイルドな雰囲気をまだ色濃く残していた時代だったと思います。お客さんもそうだし、パドックの中の雰囲気も。

玉田 僕は最新バイクのことはわかりませんが、今は電子制御の割合がすごく増えていますよね。でも、僕らが走っていた時代は制御が出始めた時期で、「使っても速く走れないから、自分でコントロールしたほうがいい。だから要りません」っていう、そういう時代でした。だから、僕らは全部自分でやることでライダーとしてのスキルが上達していった。外から見るとわからないかもしれないけど、そこの違いが一番大きいのかなと感じます。

中野 〈グランプリサーカス〉という言葉があって、最初は何のことか分からなかったんですが、実際に行ってみると、パドックではホントにみんながテントを立ててケータリングしてコックさんがいて、という、ものすごく大規模な移動サーカスのようだな、と感じました。最近は日本グランプリなどでかつて自分を担当してくれたメカニックたちと会う機会もあるんですが、腕のいい人たちは今もしっかりと残っているので、パドックの雰囲気はあまり変わっていない気もしますね。

西村 当時も今も連綿とレースが続いているサーキットもあるし、やらなくなってしまった会場もありますが、どこが印象に残っていますか? いい意味でも悪い意味でも。

玉田 悪い意味でいえば、僕はアッセン(オランダ)の旧コースが嫌いでしたね。

西村 爆破したい、とかよく言っていましたもんね。

玉田 「陥没してなくなってしまえ」くらいに思ってました。好きなサーキットはいくつもあるんですが、「なんでやらなくなったんだろう」って思ったのはトルコ。結構いいコースだなと思っていたのに、なくなったのは残念ですね。

中野 あそこは施設もすごく良かったですよね。

西村 コースレイアウトもよく考えられていて、安全性の面でも非常によくできたサーキットですね。3回ぐらいやったのかな、確か。

玉田 あと、嫌いといえば、ドニントンパーク(イギリス)。

西村 それはなぜですか。

玉田 なんでなんだろう。とにかく、合わなかったんですよ。自分の走りがイメージできない。だから、変な転倒もしちゃう。そのふたつくらいかな。あとはまあまあ、普通に走れるサーキットばかりで......。

中野 いやいや、だって玉田さん、ブラジルがあるじゃないですか。

玉田 うん、ブラジルは好きだった。

中野 むちゃくちゃ速かったですもんね。

玉田 だってオレ、ブラジルはサーキットも好きだし、あそこに住んでる女性も好きだし。

中野 情熱的でオープンな感じですよね。

玉田 そうそう。

2004年のリオGPで玉田氏はMotoGP初優勝。ここでは圧倒的な速さを見せつけた。(写真/竹内秀信) 2004年のリオGPで玉田氏はMotoGP初優勝。ここでは圧倒的な速さを見せつけた。(写真/竹内秀信)

中野 ブラジルはとにかく遠いんで、楽しめる人はいいんですけど、僕はもう行くだけで大変でした。玉田さん、楽しんでましたもんね、ホント。

玉田 いろんな意味でね。

中野 めっちゃ速かったですよ。

玉田 あそこは初年度のレース前に岡田(忠之)さんとコースを歩いていて、そのときに「あ、オレ、たぶんこのコース好きだな」って分かったぐらい、走る前から相性の良さそうな雰囲気がありました。

西村 時差ぼけの調整も大変だったんじゃないですか。

中野 玉田さん、どうでした?

玉田 僕は実は全然大丈夫だった。レースが終わって日本に帰ってきた時が少し辛い程度で、行く分には、いつどこの国に行っても全然平気。むしろちょうどいい、くらいの感じでしたね、なぜか。

中野 玉田さん、メンタル強いですもんね。やっぱりこれぐらいじゃないと、GPライダーはやっていけない。

西村 GPライダーは、みんなメンタル強いでしょう?

中野 今の子たちにも、それぐらいの強いメンタルがないとやっていけないよ、って言いたいところはありますね。

玉田 同感。僕はバイクじゃなくてまず人間でどうにかしたいって考えるタイプなので、それでもどうしようもない時に、これだけ人間でやってもダメなら、じゃあバイクで何か少しやってみようか、と初めてそこでバイクのセッティングに入る。まず人間が120パーセントの力を出せるぐらい頑張って、もうこれ以上タイムを出せませんっていうくらい、まず人間が頑張れよ、って言いたいんですよ。

中野 ホントそうですよね。僕らの時代は今よりもはるかに情報が少ない時代でした。今はSNS等を通じていろんな情報が入ってきて、誰がどういう部品を使ってるとか、すぐ気にしてしまう。でも、僕や玉田さんの時代って、とにかく「世界へ行って自分が活躍してやる」という夢しか追いかけていなかったから、細かいことはあまり気にしなかった。

今、僕は自分のチームで中学生や小学生を指導しているんですが、ライダーのスキルで言えばすごく高い。MotoGPの影響なのか、コーナーにスライドして入っていくようななことも平気でできちゃう。でも、あまりにもたくさんの情報に惑わされてしまうせいか、100パーセントの力を出しきれていない。それがもったいないな、と感じます。

西村 ちょっと話を戻して、お互いの現役時代は、それぞれに対してどんな印象を持ってました? パドックの中で、MotoGPクラスにあれだけたくさんいた日本人がふたりだけになった時期がありましたよね。

中野 玉田さんはセッティングが決まって、条件がバシッて揃ったら、誰も手を付けられない速さがありました。そういうときは、「今週はもうヤバい」と思って諦めましたもん。

玉田 僕も同じ印象ですよ。だって、最初にいっしょにレースをしたのは4耐(鈴鹿4時間耐久ロードレース。鈴鹿8耐のサポートレース)なんですよ。94年だっけ?

中野 そうそう、94年です。

玉田 真矢君が優勝して、2位は確か(武田)雄一だったかな。僕は兄貴と出ていて、兄貴が転んだかなにかで、チェッカーフラッグは受けたけれども下のほうだったので、かなり悔しかった覚えがある。全日本でも、当然、真矢君はいつもトップ争いをしていて、俺はなかなか速くならない、「チクショウ、チクショウ」って思ってて。で、すぐにWGPに行っちゃったでしょ。「あ、もう世界に行っちゃった......」みたいな。で、250ccでいきなり活躍するでしょ。僕は当然「あ、チクショウ」と思うでしょ。そしたら大ちゃん(加藤大治郞)も世界にいくでしょ。「あ、また行った、チクショウ」ってなるでしょ。当時は自分だけがどんどんおいてけぼりにされている印象でしたね。それを救ってくれたのが、4ストロークです。スーパーバイクに乗って初めて「あ、なんか来たぞ、これ」みたいな。

中野 ダブルウィン(2001年世界スーパーバイク選手権日本大会)やりましたもんね。
 
加藤大治郎選手(前)とはライバルとして激しい戦いを繰り広げた中野氏。(写真/竹内秀信) 加藤大治郎選手(前)とはライバルとして激しい戦いを繰り広げた中野氏。(写真/竹内秀信)

玉田 そうそう。で、MotoGPで一緒に走ることになった。ただ、申し訳ないけど、僕の乗っているバイクのほうが良かった。だから、同じバイクだったら話は別だけど、自分のほうがいいバイクなんだから、初年度だろうがなんだろうが問答無用で勝たなきゃ、と思ってた。それは、みんなに対して思ってました。最低でも日本人の中ではトップにいなきゃ、と。そうじゃないと、すぐサヨナラといわれてしまう世界なので。

中野 僕もそれは感じましたね。僕は全日本でチャンピオンを獲って、ありがたいことにすぐチャンスをもらってグランプリへ行けた。1年目にランキング4位で、傍からは順調に見えたかもしれないんですが、僕はヤマハだったので、ホンダのライダーの前に行かないかぎり、注目してもらえない。海外に行って頑張ってる、なんて言ってみたところで、勝たなければ誰からも相手にされないし、6位なんかじゃ誰も見向きもしてくれない。寂しいもんですよ。「このままだと忘れ去られるな......」という危機感を、1年目ですごく感じました。

西村 中野さんと玉田さんは非常に数奇な重なり合いがありますね。ひとつは加藤大治郎選手を間に挟んで、最大のライバルと最大の親友という対照的な関係性があって、MotoGPに行ってからは、玉田さんが抜けたチームに中野さんが入った。外から見る限りだと、当時はお互いに微妙な何かがあったのかなとも思ったのですが、当事者同士としてはどうだったのですか。

玉田 確かにそれは、ファンの人からも友だちからも、何度も聞かれました。でも、あの2006年は全然結果を出せなくて低迷したところから抜け出すことができない1年だったんです。だから、来シーズンの契約更改がなかったのは当然だし、その後釜に真矢君が入ることにも何とも思わなかった。自分自身、次の年はダンロップでヤマハのチームということもすでに決まっていたから、どうこう思うことは全くなかったです。

中野 僕にとって玉田さんは一緒にMotoGPを走る日本人であり、当然負けたくない相手でもあり、すごく刺激をもらっていました。でも、玉田さんが契約を更改されず、そのかわりに僕がそこへ移籍する、となった時に落ち着かないものを感じていたんですが、そんな時に玉田さんが「気にすんなよ」って声をかけてきてくれた。そのひと言ですごく吹っ切れて、玉田さんの大きさを感じましたね。スポーツマンシップとしての潔さ、というか。逆に、僕がその立場ならそういうことできるかな、と思うくらい。こんなことを言うのは照れてしまいますけど。だから、僕は玉田さんを信頼してるんです。

玉田 キミ、今、相当いい話してるよ(笑)。

※この対談の【後編】は、5月12日(水)に配信します。

玉田誠(たまだ・まこと) 1976年、愛媛県生まれ。95年に全日本ロードレース選手権250ccクラスデビュー。99年にスーパーバイククラスへステップアップし、2001年にホンダファクトリーのチーム・キャビン・ホンダに加入。03年、ブリヂストン契約でMotoGP参戦を開始、初年度から表彰台に登壇する活躍を見せる。2年目シーズンの04第7戦リオGPで優勝、同年第12戦日本GPではポールトゥウィンを達成した。08年から2年間はスーパーバイク世界選手権(SBK)に参戦。その後、アジアロードレース選手権参戦などを経て、現在はアジア圏全域を視野に入れた後進の育成に取り組んでいる。

中野真矢(なかの・しんや) 1977年、千葉県生まれ。98年に全日本ロードレース選手権250クラスで9戦中8勝を挙げてチャンピオンを獲得。99年からロードレース世界選手権250ccクラスにフル参戦を開始し、ランキング4位。翌2000年は最終戦までチャンピオンを争うが、僅差で年間ランキング2位となる。01年より最高峰クラスにステップアップ、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得する。MotoGPを08年まで戦った後、09年にSBKへ転向し、この年限りで現役を引退。現在はモーターサイクルファッションブランドの56designを運営。次代を担う選手の育成にも力を入れている。

1,034円(税込)新書判/288ページ

F1と並ぶモーターレーシングの最高峰、MotoGP。むき出しの体で時速350kmのマシンを操り、命賭けの接近戦を繰り広げるライダーとはどういう人間なのか? チャンピオンに輝いた者、敗れ去った者、日本人ライダーなど全12人の男たちの、勝利に賭ける執念、コース外での駆け引き、チームとの絆、ケガ、トラブル…。レース中継では映らない彼らの素顔を、20年間、間近で取材し続けてきたジャーナリストが描き出す。

【著者略歴】西村 章(にしむら・あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞・第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。