"神童"那須川天心(なすかわ・てんしん)が来年3月の試合を最後にキックボクシングから引退し、ボクシングに転向することを発表した。だが、ボクシングとキックは似て非なるもの。那須川は、新たな戦場でも天性を発揮できるのか?
元世界王者で井上尚弥が所属する大橋ジムの大橋秀行会長、自身も世界戦を3度経験し、那須川のボクシング指導者でもある葛西裕一さん、そして、ボクシング日本ヘビー級、東洋太平洋同級の王座を獲得したK-1ファイターの京太郎さんの3人が解説する。
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■ボクシングで成功するための「3つの条件」
同じようで違う。近いようで遠い。似て非なるもの。例えば、サッカーとフットサル。スピード感、繊細な足技、視野の広さと、求められるものは異なる。トップレベルになればなるほど、わずかな差が顕著になる。
あるいは野球とソフトボール。スピードガンの球速は野球のほうが上だ。しかし、女子ソフトボール選手が投じるボールをプロ野球選手が空振りするシーンをテレビ番組などで目にする。
"神童"と呼ばれるRISE世界フェザー級王者の那須川天心が来年3月の試合を最後にキックボクシングから退(しりぞ)き、プロボクシングに転向する。「常に挑戦していたい。どれだけ強い選手がいるんだろうとわくわくする」と決意を示している。
ボクシングとキックボクシングもまた、似て非なるもの。日本人選手で両方の世界王者になった者はいない。幾多の先人たちが挑み、たどり着けなかった。キックからボクシングへ。逆もまたしかり。
近年、そこに最も近づいたのがK-1ファイターの京太郎だ。2009年に日本人初のK-1ヘビー級王者となり、11年にボクシングへ転向。日本ヘビー級、東洋太平洋同級の王座を獲得した。21勝13KO2敗の戦績を残し、今年3月、再びK-1の舞台へ。
今振り返れば、「K-1の癖が抜けるまで3年くらいかかった」という。
「K-1とボクシングはまったく違いました。陸上の800mとハーフマラソンくらい違う。ラウンド数はもちろん、距離感、スピード、パンチの打ち方と質。K-1はジャブではなく、ワンツーやストレートから入る。重心も蹴りに対応するので高い。ボクシングのほうが低いです」
選手はリング上でデリケートな生き物だ。わずかな違いを敏感に感じ取る。経験者ならではの分析だった。
キックボクサーがボクシングで成功するには、「3つの条件」があると京太郎はみる。
「まずキックの階級で断トツの強さじゃないと通用しないです。そして、サウスポーであること。ボクシングではオーソドックス(右構え)が多いので、その時点で有利になる。あとは大手ジムに入ること。チャンスをもらえますから。なので、(3つの条件を備えた)武居選手、天心選手は通用する可能性が高い」
武居由樹(大橋ジム)はK-1スーパーバンタム級元王者で、昨年末にボクシングに転向。今年3月、デビュー戦を1回TKOで飾っている。
那須川も大手ジム所属になることは間違いないだろう。
さらに京太郎が強調するのは那須川のパンチ技術と器用さ。キックの選手とはひと味違う、際立つ特徴がある。
「キック界で唯一、"ボクサーのパンチ"を打っている。キックではごつごつした、打ってなぎ倒すパンチが多い。天心選手は抜けるような綺麗なパンチを打てて、すごく器用。世界チャンピオンになれると思いますよ」
那須川がボクシングを始めたのは中学3年から。以降、現在まで指導するのが帝拳ジムの元チーフトレーナーで、今は東京・用賀のジム「グローブス」代表を務める葛西裕一さん。元日本王者、東洋太平洋王者で世界に3度挑んだ名ボクサーだ。
トレーナーとして西岡利晃、下田昭文、五十嵐俊幸、三浦隆司を世界王座へ導いた。那須川と同じ、いずれもサウスポーの選手だった。
以前は帝拳ジムで週1~3回、現在も那須川所属のTEPPEN GYMで月2回指導する。交流は7年以上。誰よりも那須川のボクシングを知り尽くしている。
――最初の印象は?
「空手独特の低い構えですね。初日から言ったとおりにすぐやっちゃう。のみ込みが早い。本当にこういう選手がいるんだな、天才だなと」
――キックとボクシング、違いがありますよね。
「ボクサーからすると(キックボクサーの動きは)スローに見えます。ベタ足の癖を直せない人もいて、ボクサーの足(フットワーク)に負けちゃう。でも、天心は別ですよ。(違いを)苦にしていないと思う。間合いを読んで自分のものにする。詰め方も上手だし、目もいい」
教えていくうちに、空手の動きにボクシングの柔らかさが加わった。葛西さんの感覚ではキックボクサーというより、空手とボクシングを融合させたスタイルだという。
――どのような指導を?
「帝拳のメソッドしか教えていないです。空手をやっていたから左ストレートは素晴らしいし、当て勘もある。あとは右の使い方。西岡にも教えた軽いジャブ、フェイント、あえてガードを叩くとか、眉間を触るジャブ、出所が違うジャブのようなアッパー。間とか呼吸を含めて、右は中学のときから教えています」
――かなり高いレベルのことを教えていますね。長所は?
「やはり右がいい。それから下田みたいに柔らかいコンビネーション、西岡みたいに踏み込んだ左、カウンターも打てる、オールラウンダーです。それに教えたことを必ず試合でやる。すぐに自分のものにするので、トレーナー冥利(みょうり)に尽きるんです」
以前、相手のボディを見ながらスイング気味に放つフック「ボラード」を教えると、すぐに次の試合で実践した。その吸収力と度胸に葛西さんは驚きを隠さなかった。
――これからの課題は?
「中学の頃から練習量が多くて時間も長い。スタミナは問題ないと思う。あとは10ラウンドの使い方、ボクシング特有のペース配分かな」
――現在の実力は?
「技術的には日本王者、世界ランカーレベル。階級はスーパーバンタムでいけると思う。天心だから期待を持てる。倒すタイミングは目を見張ります。『今!』と思った瞬間、閃光(せんこう)のように行くから。同じサウスポーでいえば(ムエタイ、ボクシング合わせて5冠王者の)サーマート・パヤクァルン(タイ)くらいになれる。目指すならパーネル・ウィテカー(アメリカ)。相手に一切打たせずに決める。ああなったらうれしいです」
ロサンゼルス五輪の金メダリストで世界4階級を制した殿堂入りボクサーの名を目標に掲げた。もちろん願望はあるだろう。だが、葛西さんは決して自分が指導する選手を手放しでホメるタイプではない。ここまで評価しているとは、正直驚いた。
■デビュー戦で世界ランカーとやって
元世界王者で大橋ジムの大橋秀行会長は、前述したように現在、元K-1の武居を育てている。「那須川君の練習は見たことないけど」と前置きして言った。
「スピードとカウンターが素晴らしい。口でうまく言えないんだけど、センス、雰囲気というのかな。子供の頃の(井上)尚弥を見たときに感じたものというのかな」
世界3階級制覇王者で"モンスター"と呼ばれる井上のように、光り輝く原石を那須川の中にも見たという。競技の枠を超え、リングで闘う者が身にまとうオーラ。そこに感じ入るものがあった。
時代の流れを痛感する。約30年前、大橋会長の現役時代、ジムにキックボクサーが訪れたが、「(力の差で)お話にならなかった」と懐かしんだ。キックとボクシングは別物だった。それが今、キックのトップ選手の中にはスパーリングでA級ボクサーと互角以上に渡り合う者もいる。
「キックの選手のレベルがものすごく上がった。言い方が悪くなっちゃうけど、キック、キックしていないんです。もうね、昔とは違いますよ」
ここから大橋会長はプロモーター目線になり、那須川とムエタイのトップ選手を重ねていく。タイの国技・ムエタイでは敵がいなくなると、さらなる強者を求め、ボクシングへ乗り込む。
「ムエタイから来て、すぐ世界チャンピオンになっちゃう選手がいるじゃないですか。辰吉(丈一郎)と対戦した相手とか、センサクとか」
辰吉と2度闘ったウィラポン・ナコンルアンプロモーションはムエタイで3階級を制し、プロボクシング4戦目で世界のベルトを巻いた。センサク・ムアンスリンはボクシング史上最速のデビュー3戦目で世界王座を獲得した。
「素直な印象で、センサクの記録を抜くのは那須川天心しかいないなと。デビュー戦で日本王者の世界ランカーとやって、2戦目でセンサクを抜くのもありだと思う」
京太郎、葛西さん、そして大橋会長。取材前の想像をはるかに超え、"ボクサー・那須川天心"の評価はすこぶる高い。まだ22歳。伸びしろしかない。
似て非なるもの。期待されるのはふたつを極めるだけでなく、ボクシング史に名を刻む世界チャンピオン。現実になるのか、それとも夢物語か。今言えることは、夢を語ることができる逸材だということだろう。
●大橋秀行(おおはし・ひでゆき)
井上尚弥所属、大橋ジム会長。元世界王者。大橋ジム所属選手には現WBA世界バンタム級スーパー王者、IBF世界同級王者の井上尚弥らがいる。(©️アフロ)
●葛西裕一(かさい・ゆういち)
那須川のボクシング指導者。元東洋太平洋王者。トレーナーとして西岡利晃ら4人の世界王者を育てる。現在、ボクシングフィットネスジム「グローブス」代表。
●京太郎(きょうたろう)
ボクシング元ヘビー級王者のK-1ファイター。元K-1ヘビー級王者。2011年にボクシングに転向し、日本ヘビー級、東洋太平洋同級王者に。今年3月、K-1に復帰した。(©️K-1)