6月20日(日本時間)、井上尚弥(いのうえ・なおや)は"聖地"ラスベガス第2戦を3ラウンドKO勝利で飾り、再び世界にその強さを見せつけた。だが試合直前、未経験のアクシデントに見舞われ、陣営はパニックに陥っていたという。「4団体統一」へ邁進する"モンスター"が、圧勝劇の舞台裏を明かす――。

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■「拳が割れそうなくらい痛かった」

同じ絵でも見え方が違う。例えば、「ルビンの壺」。近くから白地に注目すれば、壺が浮かび上がり、少し離れて背景の黒地を意識すると、左右から向かい合うふたりの横顔に見える。

ひとつの絵をどう見るかによって、印象がまったく異なってくる。井上尚弥のラスベガス2戦目は、そんな試合だった。挑戦者であるIBF1位のマイケル・ダスマリナス(フィリピン)を3度倒して、3回TKOの圧勝劇。テレビ画面に映る井上は冷静で余裕があり、フック、ボディと左のパンチを駆使し、満点に近い出来だった。

試合から約3週間後(7月13日)のインタビュー。ひととおり試合の感想を聞いた後、井上が問いかけてきた。

「1ラウンド目の出だしって、どの試合よりも落ち着いていた感がありませんでした?」

――はい、ありましたね。

「今回の試合、(ウオーミング)アップしてないんですよ」

――えっ?

「実は......」

そう言うと、井上は茶目っ気のある苦笑いを浮かべた。同じ「絵」でも当事者、つまり井上陣営の見え方はわれわれとはまったく違っていた。

この試合から米国のグラント社製グローブを使用した。事前に試合用バンデージを制作し、米国に送り、それをかたどって作った特注品。これまで使ってきた日本製と同じく、グローブの中は拳(こぶし)が少しきつく入るように設定した。

試合前日。計量後、グローブチェックの際に素手を入れると、しっくりきた。だが当日、アクシデントが襲う。

「バンデージを巻いて、入れようとしたら入らなかったんです」

――ええっ!

「きつすぎて、入らない! うわーと思って。本当に血の気が引きました。(グラント社製は)カチッと作られていて、(他社製に比べ)グローブの革が伸びないんです」

――かたどって作っているからギチギチだったと。

「そうです。きつめで注文しているので。右はなんとかうまく入ったんです。左はムリヤリ入れて拳を握ったら、拳が割れそうなくらいに痛くて。もうミットも打てない」

振り返れば、バンデージを巻いて一度も完成品のグローブに手を入れていなかった。大橋秀行会長は「完全にこっちのミス」と悔いた。もうすでに試合用バンデージは拳に巻かれ、米国のコミッションからチェックを受けている。巻き直すことはできない。

「ムリヤリ着けて、(ミットに)左を打ったら、衝撃で骨が折れそうなくらいに痛かった」

これまで試合前に経験したことのない危機。陣営はパニックに陥った。大橋会長の頭には、「調整も順調に来て、最高な状態。こんなミスで終わってしまうのか......」と悪夢がよぎった。

バンデージチェックは相手陣営立ち会いの下で行なわれる。ダスマリナス陣営は一部始終を間近で見ていた。

「もう入場(時間)ぎりぎり。結局、アップをしないで試合に行ったんですよ。でも、よく考えたら、スパーリングするときもあんまりアップしないので、これがいいのかなと」

――いやいやいや(笑)。

「いつもは心拍数を上げて、汗をバーッと出してリングに上がる。だけど、汗を出さずに練習どおりだから1ラウンド目は落ち着いていけたのかなと思っているんです」

――ラスベガスの大舞台で、グローブが入らない。左を打てば痛い。普通なら動転すると思うのですが。

「だから、入場のときに(表情が)ちょっとこわばっていたのはそれなんですよ。もうやばい!みたいな」

陣営は誰もが顔面蒼白(そうはく)。おそらく左は使えない。井上は不安げに見つめてくる大橋会長に言った。

「右で倒すんで大丈夫です」

しかし、試合が始まれば、相手のジャブに鋭利な左フックを合わせ、速くて重厚な左ジャブで相手のガードをこじ開け、強烈な左ボディで3度のダウンを奪った。

左を軸に戦った。試合直前にアクシデントがあり、不安を抱えてリングに上がったと誰が思うだろうか。

「たぶんそれは(誰にも)わからないでしょうね。試合が始まったら、アドレナリンが出るので痛みは感じなかったです」

新たな"モンスター"なる部分を垣間見た。大橋会長はしみじみ言う。

「いやあ、尚弥はすごい」

インタビュー後、筆者はビデオを見返した。ほどよい緊張感を漂わせていたように見えていた表情が、不安げに映る。

試合後、リング上で大橋会長と笑顔で話す姿は、喜びではなく、安堵感だと伝わってくる。同じ表情、同じ試合。だけど、インタビュー前とは違って見える。まるで「トリックアート」。錯覚であったことに気づく。それは井上のこれまでの勝ちっぷりや冷静さからくる先入観だった。そう思わせるのもまた、井上の強さだろう。

■「PFP2位」の重み

直近4試合中3試合が海外のリング。異国の地でも、まるでホームタウンのように普段どおりの力を発揮している。その順応性は大きな武器だ。

「いや、10日たっても時差ボケは抜けないですよ」

――試合10日前に現地に入っていても?

「前回は2週間前に行ったから試合2日前に抜けたんですけど、今回はほぼ狂ったままでしたね」

――体の重さを感じたり、序盤の動きに影響は?

「リングに上がったら変わらないですけど、控室ではみんな眠そうでした。予定の時間を過ぎても全然試合が始まらなくて。座っていたら、すごく眠くなっちゃって、ああ、やばいって」

――目をつぶって座っている姿がテレビに映りました。てっきり精神統一して、集中力を高めているのかと......。

「いや、寝そうでしたもん。あれはもう、自分の中で『ちょっと1分寝よう』。そんな感じでした(笑)」

なんという度胸。いつでも平常心でいられる。ここにもまた「トリックアート」が潜んでいた。

昨年11月のお披露目を経て、聖地で初の有観客試合。ラスベガスの街には試合告知の電光掲示が輝き、海外メディアの取材も数多く受けた。現地では日本と少し違う評価と期待を感じたという。

「パウンド・フォー・パウンド(PFP)2位っていう評価を落とせない。みんな2位として見てくるじゃないですか。だから、それなりの試合をしないといけない。まず、そこですよね」

PFPとは全ボクサー、17階級を通じた「最強ランキング」だ。勝敗だけでなく、対戦相手、試合内容によっても順位は変動する。米国の老舗専門誌『ザ・リング』のPFPが最も有名で、指標となっている。

軽量級が主流の日本と違い、全階級の猛者(もさ)が集うラスベガス。ヘビー級、ミドル級といった人気階級はあるが、ここには「強さ」を公平に測ろうとするボクシング文化がある。

井上は米国で試合をするにあたり、関係者から「PFPは大事なランキングだ」と伝えられた。それにより、注目度、観客数、プロモーションの力の入れ方も変わってくる。

「やっぱり意識しますよね。まあ、今は2位で心地いい。1位に行くとちょっと重すぎるというのはあります(笑)」

■混沌たる「4団体統一」への道

ラスベガス第2戦の約1ヵ月前、大橋ジムにて。「調整段階では楽ではなかった」という井上は近い将来、スーパーバンタム級に上げることも視野に入れている

WBAスーパー、IBF王者井上の今後。あと2本のベルト――WBOとWBCをどう収集するのか。

WBO王者は、昨年4月に井上との対戦が新型コロナの影響で延期になったジョンリエル・カシメロ(フィリピン)。8月15日、WBA正規王者のギジェルモ・リゴンドー(キューバ)戦が行なわれる。

WBC王者には2019年11月に井上と激闘を繰り広げたノニト・ドネア(フィリピン)が君臨。一度はカシメロ対ドネアの統一戦が決定したものの、ドーピング検査に消極姿勢のカシメロに対し、ドネアが試合をキャンセルした。「4団体統一」への道は混沌(こんとん)としている。

「年内にドネアとやって、カシメロ対リゴンドーの勝者と来年春に対戦するのが一番の理想かな」

――カシメロからはSNSなどで挑発され続けています。

「そうなんですよ。だから最後はカシメロとやって(バンタム級を)終えるのが一番いいですね。ボディで沈めて、苦しい顔を見て終わるのが一番。それがいっちばんやりたいことです」

「いっちばん」を強調して、いたずらっぽく笑った。

――4団体統一の目標は揺るぎないですか?

「やれるならやりたいです。でも、(統一戦がなかなか組まれないなどで)グダグダするなら、スーパーバンタムに上げてもいいかな。またランキングの選手(との防衛戦)を挟んでとか、それが2、3試合続くようならイヤですし」

――バンタム級は残り2、3試合に決めていると。

「そうですね。今回の試合でスーパーバンタムに上げる時期は割と遠くないんだなと感じてきています」

――それはなぜ?

「減量はすごくうまくいきましたよ。でも、調整段階では楽ではなかったし、対戦相手もバンタムではちょっとずつ減ってきているし」

――確かにドネアとはふた回り目、再戦になります。

「バンタム級はあと2試合。やっても来年までですね」

残り2試合はビッグファイトの王座統一戦。相手はドネアとカシメロか。それともリゴンドーになるのか。

他団体王者に対し、これまでのようなスゴみと、ボクシングの魅力が存分に伝わる勝ち方で、バンタム級4団体統一チャンピオンになってほしい。

いや、もうひとつ大きな期待をしようじゃないか。PFP1位。日本人が全ボクサーの頂点に立つ。その瞬間を見てみたい。

●井上尚弥(いのうえ・なおや) 
1993年生まれ、神奈川県出身。大橋ボクシングジム所属。WBAスーパー・IBF世界バンタム級チャンピオン。2019年11月、各団体の王者らが参戦したトーナメント「WBSS」決勝戦でノニト・ドネア(フィリピン)を破り優勝。昨年11月、米ラスベガスデビュー戦をKO勝利で飾る。現在、米ボクシング誌『ザ・リング』が格づけする「パウンド・フォー・パウンド」ランキング2位。21戦21勝(18KO)無敗。