あらためて100年間は長いし、その間の日本サッカーの発展ぶりを実感したと語るセルジオ越後氏

去る9月10日、日本サッカー協会が創立100周年の記念式典を開催し、僕も出席した。コロナの影響で盛大にというわけにはいかなかったけど、懐かしい顔も多く、同窓会みたいだった。こういう状況下でも式典を開き、招待してくれた協会には感謝しかない。

当日は、写真や映像をスクリーンに映しながら日本サッカーの歴史を振り返るとともに、釜本(邦茂)さん、ジーコ、ラモス(瑠偉)、カズ(三浦知良)、岡ちゃん(岡田武史)、澤(穂希)さんらが登壇し、スピーチを行なった。昔のモノクロの写真を見ると、あらためて100年間は長いし、その間の日本サッカーの発展ぶりを実感した。

僕が興味深く見たのは、日本サッカー界初の外国人コーチとしてドイツ人のデットマール・クラマーさんを招聘(しょうへい)したときのエピソード。1964年の東京五輪に向けての強化策を考えるなかで、協会内部では「外国のチームに勝つには、外国人コーチを呼ばないと勝てない」という声が上がったという。

そして、反対意見もあるなか、協会はクラマーさんを招聘した。それは当時の日本サッカー界にとっては革命的なことで、68年メキシコ五輪の銅メダルにつながった。

思えば、Jリーグができたときも似た感じだった。「プロリーグなんて無理だ」という反対意見も多くあるなかで、「代表チームを強くするために」とプロ化に踏み切った。

(初代チェアマンの)川淵(三郎)さんは「走りながら考える」と言っていたけど、無理をした部分、突貫工事的な部分もあったと思う。それでもリーグは成功し、それが2002年W杯の招致、98年のW杯初出場につながった。

やはり、大きな目標を達成するには何かを変える、思い切った決断が必要だということ。クラマーさんの招聘とJリーグ発足、このふたつは日本サッカーの歴史におけるターニングポイントといっていい。

僕個人の話をさせてもらうと、来年で来日50年になる。当初は、生まれたときからプロリーグのあったブラジルとのギャップに驚いてばかりだった。

選手も指導者も意識が低く、お客さんも数えるほどしかいない。ピッチは雨が降ると田んぼみたいにグチャグチャになる。スポーツショップに行ってもサッカー用具なんか売ってない。日本は立派な国なのに、どうしてサッカーはこんなに遅れているのだろうと。

それが、プロ化によって選手はレベルアップし、今では当たり前のようにW杯に連続出場している。ハード面も少しずつ整ってきた。子供からお年寄りまで安心して見に行けるJリーグは世界で一番安全なリーグかもしれない。こんな未来が来るとはとても想像できなかった。もう戻りたくないね。

とはいえ、今後に向けて気になることもある。それは以前よりもJリーグ、そしてサッカー自体のメディア露出が少なくなっていること。

地上波ではJリーグ中継どころかサッカー情報番組もほぼなくなり、スポーツニュースでは日本代表の試合しか取り上げられない。このままだとJリーグはライトなファンを取り込めなくなるのではという不安があるね。また、日本代表にしても、W杯最終予選のアウェー戦の地上波中継がなくなってしまった。

100年間で大きく成長したけど、まだまだ課題はたくさんある。現状に満足することなく成長していかなければいけないね。

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