日本代表に史上最多のメダルをもたらした東京五輪。そのなかでひときわ異彩を放ったのが新種目の「スケートボード」だ。初出場の地元開催、しかも一発逆転を狙わねばならない重圧のなかで、見事に金メダルに輝いた日本のエース堀米雄斗(ほりごめ・ゆうと)。

今だからこそ明かせる決勝当日のこと、アメリカでの孤軍奮闘、そして次なる目標とは。人気スポーツキャスター・中川絵美里(なかがわ・えみり)が直撃した。

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■金メダル獲得の瞬間、最初に湧き出た感情

中川 まず、金メダルが決まった瞬間について、あらためてお聞きしたいです。

堀米 うれしさよりも安堵感(あんどかん)ですね。ほっとしました。それまで2年間、ずっと五輪を考えながら練習していたし、いいことばかりじゃなくて、つらいこともあったので。ひとつやり切った、節目だな、と。

中川 スケートボードが五輪に新風を吹き込み、大きな反響を呼びましたね。 

堀米 思った以上でしたね。友達から友達の友達まで皆喜んでくれて。やっぱり、五輪って大きなイベントなんだなと。

表彰式の後、自身を支えてくれた早川大輔コーチに金メダルをかけた

中川 早川大輔コーチと抱き合って喜ぶ姿も印象的でした。

堀米 今までずっとサポートしてくれたのが、早川さんでした。彼に金メダルをかけられたのは大きな思い出ですね。ほかにも支えてくれた多くの人たちから「おめでとう!」って声をかけてもらえたのは本当にうれしかったです。

中川 ちょうど今、自分は金メダリストなんだという実感が湧いているところですか?

堀米 そうですね。実は、金メダルを獲った直後の3日間は、あんまり寝られなかったんです。よっぽど興奮してたんですかね(笑)。ちょっと自覚がなくて。これ、ホントかな?夢なんじゃないの?って。

中川 堀米選手にそれだけの思いをさせるということは、やはり五輪は大舞台、しかも今回は初出場ですから、緊張の度合いも相当でしたよね?

堀米 どの大会でも緊張はそれなりにありましたけど、今回の五輪は別格でしたね。

無観客開催だったが「ほかの選手たちやボランティアの方々の応援で、会場の熱は感じていた」と堀米

中川 東京五輪は基本、無観客。熱気の渦ではなく、静けさのなかで行なわれて、否が応でもほかの選手の滑りがよけいに目に飛び込んできたんじゃないですか?

堀米 その点については特に感じなかったですね。自分が全然勝っていなくて、競争相手がどんどんトリック(技)を決めたりしたら多少は重圧を感じるかもしれませんが。でも基本的には、自分の中でいい滑りをしようって、そこに集中していたんですね。ライバルがいないわけですし。

中川 「ライバルがいない」とおっしゃいましたが、競争心よりも自己探究心のほうが上にくるわけですか?

堀米 はい。他人と競い合うというよりも、自分に勝てるかどうか。自分自身がライバル、というとらえ方をします。

中川 とはいえ、予選から重圧はすごかったと思います。とある記事で、お父さまが堀米選手の予選での不安げな表情を見てメールを送ったというお話が紹介されていました。お父さまは、スケートボードを志すきっかけをつくってくれた方ですよね。どんなアドバイスを?

堀米 確かにメールは来ました。でも、別に不安っていうわけではなかったんです。父からは、「五輪なんだから、スケボーが個人競技といえども、チームとして頑張りなよ」と。つまり、支えてくれるスタッフ、関係者の皆さんと一丸になって、日本代表として戦えと。

中川 では、自分ですべて背負い込むことなく、予選から伸び伸びと滑れたわけですね。

堀米 ですね。でも、決勝よりも、予選のほうが緊張してたかも。予選では、決勝に進むために手堅く決められるトリックで臨むんです。大技は、決勝のためにキープするというか。でも、そういう戦い方をして予選落ちしちゃうのは、一番最悪なパターンなんですよ。なので、ベストを出す前に脱落しちゃダメだって、緊張してました。

■自分で自分のことが許せなかった

「今まで経験したどのコースよりも大きかった」と語った、地元・江東区の有明アーバンスポーツパークで誰よりも華麗に舞う

中川 当日の競技についてですが、まず気になったのが、コースやセクション(構造物)でした。事前にはどの程度滑ることができたんですか?

堀米 滑った回数は4回ですね、4日間で。

中川 4日間でわずか4回なんですね。限られた回数のなかで、手応えは感じましたか?

堀米 初めて見たときは、パーク全体はもちろん、レールや階段とか、ひとつひとつのセクションが思ってた以上にデカかったんで、びっくりしましたね。ほかの日本のスケートパークや、アメリカのものよりも大きかったんで......。

中川 前例のないサイズ感で戸惑いがあったわけですか。

堀米 多少はありましたね。

決勝では、一発のトリックを競う「ベストトリック」5本中4本で9点台をマーク

中川 そもそも「ストリート」種目のルールは、45秒間自由にコースを滑走して技を決める「ラン」を2本、さらに、一発の技の完成度を競う「ベストトリック」を5本、計7本挑戦して、そのうち得点の高い4本の合計点で競うわけですが、決勝では堀米選手が「ラン」2本を終えた後の表情が曇っているように感じました。実際、どんな気持ちでしたか?

堀米 2本ともミスっちゃったので、これは本当にヤバいなと。自分で自分のことが許せなくて、いら立ちのあまりデッキ(板)も投げちゃって、つい感情的になってしまいましたね。2年間ずっと毎日練習してきたのに、しかも五輪の大舞台で、地元開催だっていうのに、大事なところでこれかよって。

中川 そのいら立ちや焦りから、どのように気持ちを切り替えられたんですか?

堀米 ベストトリックの5本は、自分の得意なところだったので、今までやってきたことを思い出しながら「まだまだいけるぞ」って自分に言い聞かせて、トリックを決めていきました。

中川 出す技や構成などは事前に決めるのですか?

堀米 そうですね、4日間の練習期間中に、だいたいこれをやろうって決めていきます。

中川 今回のように、手前のランがうまくいかないだとか、ほかの選手が高得点を出して、追い込まれた場合は、その場で急遽(きゅうきょ)変更とかもするんですか?

堀米 ......しますね。実は、今回のベストトリック3本目「ノーリーバックサイド270スイッチボードスライド」は、僕が今まで出したことのない技で。全然予定していなかったものだったんです。

滑走後、同じく日本代表の白井空良とハイタッチを交わす。競技の合間に他国の選手ともフレンドリーに談笑する様は、スケートボード競技独特の風景としてインパクトを残した

中川 そうだったんですか!?

堀米 はい。やっぱり五輪の舞台になると、皆ハイレベルで。僕もそれまでいいスコアをマークできてなかったので、これはもう新しい技を出さないと勝てないだろうと思って。

中川 大きな"賭け"だったんですね。

堀米 はい。4日間の練習期間で一度もやってなかったですし、ベストトリックが始まるほんの2、3分前に、2回程度合わせただけでした。もちろん、居住しているアメリカでは練習してましたけど、ほぼぶっつけ本番でしたね。

中川 お話を聞いて、思わず鳥肌が立ってしまいました(笑)。ではあの3本目の成功で、波に乗ったわけですね。

堀米 そうですね、あの3本目が決められてなかったら、金メダルはなかったです。ランは2本ともダメ、ベストトリック1本目は成功、でも2本目はミス。あとがない状況でしたから。

中川 不安や恐怖心はなかったですか?

堀米 正直、ありました。3本目もダメかもなって。一瞬、違うトリックにしようかとも考えて。いろんな思いがぐるぐると駆け巡りましたね。しかも、前日練習の際にケガもしてしまって。痛み止めを服用して取り繕ってたんですけど、精神的にもかなり限界でした。

中川 よくぞ、そこで持ちこたえることができましたね。

堀米 スパっと、切り替えましたね。中途半端なトリックをやってもダメだろうと。あと大きかったのは、早川コーチがずばり問題点を指摘してくれて。その上で「絶対に次は、雄斗なら乗れるよ」と、背中を押してくれたんですよ。それで覚悟を決められました。 

中川 続く4本目はこの日一番の高得点となった9.50点を、5本目も9.30点と、ハイスコアを叩き出しました。

堀米 本当にラッキーでしたね。成功したトリックはすべて、4日間の練習では一度も乗れてなかったんです。アメリカで日頃から練習しておいてよかったです。

中川 運と、練習で積み上げてきたものが一気に本番で開花したわけですね。

堀米 そうですね......でも、練習中に技がバンバン成功しちゃって、それをジャッジ(審判員)に見られていたら、インパクトが弱まって点数に結びつかないこともあるんです。予選での駆け引き以前に、練習の段階で戦いはすでに始まっているんですよ。

■"聖地"米国に渡ってびっくりしたこと

中川 拠点としているアメリカの話がたびたび出てきたのでお聞きしますが、渡米したことはやはりご自身にとって大きな成長になりましたか?

堀米 はい。もともと、中学生の頃にYouTubeでアメリカのトップコンテストの動画を見て、いつか自分も出てみたいな、と。アメリカでプロとして成功すれば、庭にパークを設けた大邸宅に住めるし、いろんな夢を叶えられるって、強く意識しました。

でも実際に行ってみると、当たり前ですが初めはずっと独りぼっち。家事はすべて自分でこなさないとダメだし、アメリカの場合はマイカーがないと話にならない。そして何よりも言葉です。これができないと何も情報が入らない。しばらくは孤独でした。

中川 それで挫折する人は多いと思います。堀米選手もホームシックにもなったんじゃないかと。どうやって乗り越えられましたか?

堀米 最初は、確かに実家のご飯が食べたいって思ってましたね。でも、少しずつ言葉ができるようになると、友達ができて。そこからですね。あとはやっぱり、スケートボードをする環境。自分はスケボーで成功するためにやってきたわけで。日本とは全然違って、しっかり打ち込める環境があることは何ものにも代え難かったです。

中川 その違いとは?

堀米 まず、アメリカはスケートパークの数が圧倒的に多いです。造りも完璧で練習しやすいですしね。認知度やスケボーに対する理解も日本とは比較にならないです。例えばストリートで滑っていて警官に話しかけられても、なかには「ちょっと貸して」って、オーリー(デッキと一緒にジャンプする)を披露してくれる人もいます。

中川 日本ではありえないですね!

堀米 はい。なので、ストリート種目をやっている立場からすれば、すごく集中できます。あと、プロスケーターの生業は五輪や「ストリート・リーグ」といった大きなコンテストと並んで、自分のトリックをしっかり撮って作品にする「ビデオパート」というのもあります。僕がずっと憧れているシェーン・オニールやポール・ロドリゲスといった人たちは両方面で活躍しているので、僕もそこを目指しているところです。

中川 ちなみに今、堀米選手は一日あたりどのくらいの練習を重ねているんでしょうか?

堀米 一日で4~5時間ぐらいですかね。朝に2~2時間半程度、夜も同様です。僕らの場合、ほかのスポーツと違って特にシーズンオフとかはないので、常にずっと滑っている感じです。でも、ダラダラと長時間滑るわけでないですよ。集中してできる長さというのはあるので。ケガにもつながりますし。

中川 ケガとも隣り合わせのスポーツですよね。多いときには1年で4回骨折したこともあるとか。恐怖心や、やめたいという気持ちが生じたことはありませんか?

堀米 骨折したときはその技がトラウマになったことはありますが、スケボーをやめたいと思ったことは一度もありません。滑るのも技を考えるのも、自分が好きで楽しいという気持ちが根底にあるので。

中川 新技を生み出すのは、どのようにしているんですか? 堀米選手は技を考える「想像力」がすごいとの声を聞くのですが。

堀米 父が見せてくれた90年代のスケーターのビデオパートをもとにアレンジしたり、急に思い浮かんだりすることもあるのでトライしてみたり。オリジナルの技を出さないと勝てないっていう風潮になってきているので、どのスケーターも熱心なんですよ。

中川 技術を高めるために、滑り以外のトレーニングはされますか? 筋トレとか。

堀米 筋トレする人もいますけど、僕は特にしないですね。やろうかなって思った時期もありましたが、変に鍛えすぎると筋肉で体が重くなって、動きが鈍くなっちゃうんです。スケボーって、けっこう繊細なんですよ。ほんのちょっとの体重の増減で技ができなくなってしまう。だから僕は、60kgを超えないようにしてます。

中川 とはいえ、アメリカでの生活となると、食事面や栄養管理なども大変ですよね。

堀米 ひとり暮らしですからね、キムチとか簡単なおかずでさくっとご飯を食べる感じです。日本食が充実したスーパーや和食レストランが近所にないので、ちょっと不便かも。でも五輪直前は、関係者の方が食事もお弁当も作ってくださって本当に助かりました。

■目指す理想像は、イチローさんと......

「よかったら、かけてみますか?」と、堀米の厚意で実現したフランクな2ショット

中川 東京五輪はコロナ禍での開催ということもあり、異例ずくめでした。このあたりはいかがだったでしょうか?

堀米 むしろ1年延期になったことで金メダルが獲れたと思ってます。16年にスケートボードが新種目に決まったとき、正直、五輪の存在が遠すぎてピンとこなかったんです。でも18年に「ストリート・リーグ」で優勝したあたりから意識するようになってきて。

しかも、僕の地元の江東区で開催されると決まり、がぜん勝ちたい思いは強くなりました。1年ずれたことで、もっと入念に準備できるじゃないかと。その間、自分のビデオパートも初めて作れたんで、モチベーションは上がりました。

中川 コロナ禍で配慮しながらも、結果的には五輪は堀米選手に金メダルをもたらし、意義のある大会になったと。

堀米 はい。もちろん、金メダルを獲れたのはうれしいんですけど、東京五輪を通じて日本中にスケートボードが一気に広まったのが本当にうれしくて。今後、日本のスケートボード・シーンは一変するはずです。一時のブームで終わらせないように伝えていきたいです。

中川 あらためて、スケートボードの魅力はどこにあると思いますか?

堀米 自由ということですね。あと、終わりがない。自分の好きなときに、好きなように滑れます。もちろん、公共のルールやコンテストでの規定というのはありますが、基本的に縛りはないですからね。技のレパートリーも無限です。

中川 堀米選手の滑りも、自由で伸び伸びとされています。

堀米 僕が理想とするのは、軽やかに滑っていろんなトリックを見せる、しかも誰も見たことのないような技を繰り出すというスタイルなので。

中川 自由な気風は競技にも反映されていますよね。ライバル同士、バチバチの潰(つぶ)し合いではなく、和気あいあいとしていたのが新鮮でした。

堀米 スケボーには、スケーター同士互いにリスペクトし合うカルチャーが根底にあります。それに大会の成績だけでなく、ビデオパートでの表現という部分もある。

今回、優勝を争ったナイジャ・ヒューストンは僕からすればライバルではなく、リスペクトすべき対象です。大会はもちろん、映像でもすごいパートを残している素晴らしい選手なんです。

世界ランク1位、アメリカのスーパースターであるナイジャ・ヒューストンと抱擁を交わし、健闘を称え合う

中川 互いを尊重し、個性を大事にするすてきなスポーツなんですね。伝道師的な役割を担うほかに今後はどんな目標を定めていますか?

堀米 もっと大きな家を買いたいです。

中川 今のロサンゼルスのご自宅も、4LDKで1億円の豪邸と話題になっていますが、それよりもっと大きな?

堀米 友達のプロスケーターの家に遊びに行くと、お城みたいな家をみんな持ってるので、上には上がいるなあと。次は内装にもこだわった家が欲しい。それで、今の家は、自分がそうしてもらったように、仲間や日本のスケーターたちに自由に使ってもらえるようにしたいです。

中川 次世代のスケーターに還元したいという思いもあるんですね。

堀米 はい。それから、東京五輪で優勝する目標が叶えられたので、次のパリ五輪も狙っていこうと。最近はもっと欲が出てきて、今、自分が生活しているロサンゼルスの五輪でも金メダルを獲りたいと思っています。24年のパリ、28年のLA。五輪三連覇が今の目標です。

中川 頼もしいですね! そのような壮大な目標を掲げているのなら、理想の人物像も偉大なのではないかと思うのですが、どんなアスリートを目指していますか?

堀米 イチローさんやマイケル・ジョーダンです。前人未到の記録をつくっても、そこに甘んじることなくどんどん塗り替えていく。常に上を目指す姿勢がカッコいいです。僕も大会と映像と、記録も記憶も残せるスケーターを目指します。

◆10月4日(月)発売『週刊プレイボーイ42号』の不定期連載『中川絵美里のCheer UP』では、姉妹で金メダルに輝いたレスリング・川井梨紗子さんのインタビューを掲載!

(スタイリング/武久真理江[中川] ヘア&メイク/石岡悠希[中川] 衣装協力/AKIKO OGAWA)

●堀米雄斗(ほりごめ・ゆうと) 
1999年1月7日生まれ 東京都出身 身長170cm 
〇スケーターである父の影響で6歳から競技を始める。10代初めで国内トップクラスの選手に成長。高校卒業後、単身で本場・アメリカのロサンゼルスに渡り、18年には世界最高峰とされるプロツアー「ストリートリーグ」で日本人初の優勝を果たす。2020年東京五輪ではスケートボード男子ストリート部門で金メダルを獲得

●中川絵美里(なかがわ・えみり) 
1995年3月17日生まれ、静岡県出身。フリーキャスター。2017年より『Jリーグタイム』(NHK BS1)のキャスターを務めるほか、4月からはラジオ番組『THE TRAD』(TOKYO FM)の水、木曜を担当

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