スポーツキャスター・中川絵美里が、川井梨紗子(サントリーグループ・ジャパンビバレッジ レスリング部所属/レスリング女子57kg級日本代表)を直撃! スポーツキャスター・中川絵美里が、川井梨紗子(サントリーグループ・ジャパンビバレッジ レスリング部所属/レスリング女子57kg級日本代表)を直撃!

リオ、東京で五輪2連覇を達成。しかも、姉妹で金メダル獲得という偉業。現在、女子レスリングの"絶対女王"とたたえられる川井梨紗子(かわい・りさこ)。だが、再び栄光をつかむまでの5年は決して平坦ではなかった――。

今だから話せる辛苦の数々、そして支えてくれた人々との絆を人気スポーツキャスター・中川絵美里(なかがわ・えみり)が直撃した。

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■五輪反対派の言葉に選手として出した結論

中川 東京五輪で見事に五輪2連覇を達成。今、あらためて振り返っていかがですか?

川井 長かったですね。東京五輪へ行くまでの道のりというのが、本当に長かった。それが一番の感想です。

中川 前回の16年リオ五輪では、優勝が決まった瞬間、マットに突っ伏してこみ上げる思いを表していましたが、今回はどこかほっとしたようなすがすがしい表情を見せていたのが、すごく印象的でした。

川井 確かに、決勝が終わった瞬間はうれしさよりも安堵(あんど)のほうが先に来たんですよね。ああ、これでやっと終わったな、と思いました。

中川 それはプレッシャーからやっと解放されたという意味ですか?

川井 私は......プレッシャーというものを感じてしまったら負けだと、自分にはプレッシャーというものがないんだって、ずっと自分に言い聞かせていたんですね。重圧に負けて力を出し切れませんでしたっていう言い訳は絶対にしたくなかったんです。 

中川 すさまじい精神力ですね。

川井 リオに続いて、2連覇を目指せるのは(レスリングチームで)私だけ、こんな機会を与えてもらえるのは本当にありがたいことだと、噛みしめながら戦っていました。でも、終わった瞬間にまず安堵を感じたということは、きっと知らず知らずのうちにプレッシャーを相当抱えていたんでしょうね。

中川 しかも、今回の東京五輪はコロナ禍での開催ということもあり、リオとはまったく異なる状況でした。開催前の準備も含めて大変苦労されたのではないですか?

川井 もう、全然練習ができなかったですね。練習場所は、出身校の至学館大学なんですけど、去年4月からの最初の緊急事態宣言中は大学をはじめ、どこもクローズになってしまいまして。

加えて五輪自体も1年延期になってしまって、本当に、この先どうなっちゃうんだろうって。

東京五輪・レスリング女子フリースタイル57kg級で優勝、日の丸を背負って場内を一周。「こんないい日があっていいのかと」 東京五輪・レスリング女子フリースタイル57kg級で優勝、日の丸を背負って場内を一周。「こんないい日があっていいのかと」

中川 レスリングという競技の性質上、接触は避けられないわけですから、技術的なトレーニングは困難ですよね。さらには、メンタル面をどうやって維持しましたか?

川井 なんといっても身内の存在が大きかったですよね。レスリングの選手だった父からは「長い間自分の中で培ってきて、体に染みついたレスリングの技術が死ぬことはない。いざ始まったら大丈夫だ。体力面だけ維持しておきなさい」と、メッセージをもらいまして。

中川 頼もしい言葉ですね。

川井 そうですね。あとはやっぱり妹の友香子(ゆかこ)の存在。身近に、同じ目標をもって頑張っている人間がいる、しかも妹ですしね。独りじゃないんだって思うことができました。

中川 孤独感にさいなまれることはなかったわけですね。

川井 はい。技術的な練習ができなかったのは正直不安でしたけど、友香子と一緒にいろいろと工夫して、できる範囲でのトレーニングを続けていましたね。

中川 さらに、コロナ禍の影響は、五輪開催の是非を問うところまで及びました。選手の皆さんはなかなか声を上げづらい立場にいたと思うんですが、川井選手はいかがでしたか?

川井 五輪開催に向けて、いろんな意見があるのは重々承知していました。実際、私のところにもSNSを通じて、あるいは手紙で訴えがありました。「五輪を辞退して、選手側から五輪中止を呼びかけてください」と。

中川 そうだったんですね......。そうした意見をどう受け止めましたか?

川井 そういう意見が出てくるのも仕方ないな、と。いろんな意見があるという事実を理解して、すべてを背負った上で、私は出場しようと決意しました。

レスリングにおいては、階級ごとに代表はたったひとりしか選ばれないわけです。五輪に出たかった人たちがほかにたくさんいる。きれいごとを言っているみたいであまり好きではないですが、その人たちがいたということをわかった上で代表に選ばれたひとりは戦わなければいけない。私にとって日本代表になるというのは、本当に重いことだった。だから、代表選手としての責務をきちんと果たそうと誓って、準備を進めました。

■五輪を目指していたのは馨さんと私だけじゃない

中川 たったひとりという代表枠をかけて、リオ五輪以降の5年間、川井選手はずっと戦ってこられました。階級はリオでの63kg級(現・62kg級)から、もともとのフィールドであった58kg級(現・57kg級)に戻しました。でも、その階級には五輪4連覇を達成した"レジェンド"の伊調 馨(いちょう・かおり)選手がいました。

川井 馨さんは私の出身校の至学館で先輩に当たります。私の10コ上で、当然ながら練習でご一緒させていただくことはなく、お会いするのは全日本選抜・代表の合宿や試合だけでした。私が小学校の頃からテレビで馨さんの試合を見て育っているので、まさしく雲の上の存在です。

中川 その伊調選手とは、8ヵ月の間に3度も対戦。18年の全日本選手権や19年の全日本選抜選手権や世界選手権代表選考プレーオフなど、激闘を繰り広げてきました。一進一退の攻防戦、五輪とは違った注目度、重圧もものすごかったと思うのですが......。

川井 ......本当に苦しかったというか、本当にいろんなことがあって。あの時期に戻れと言われたとしても、絶対に戻りたくないのが本音ですね。

小学生から始めてレスリング歴は20年近いんですが、あの時期が人生で最も苦しかったです。何がどう苦しかったのかと問われても答えようがないんですけどね。私の中でしかわからない苦しさがありました。ちょっと、説明が難しいです。

中川 伊調選手との戦いは、果てしないプレッシャーの連続だったわけですね。

川井 ええ。でも当時、馨さんと私の一騎打ちみたいな感じで盛んに報道されていましたけど、私としてはすごく抵抗感があったんですよ。もちろん、馨さんは偉大な選手です。でも先ほども言ったとおり、私たち以外にも、五輪出場を目指して頑張っている選手はたくさんいるんです。

中川 おふたりばかりがクローズアップされるのはいかがなものか、と。

川井 そうです。私からすれば、勝てるかわからない強豪は国内にもたくさんいる。そんなライバルたちにもまれて戦い続ける緊張感というのはすさまじくて。不安で仕方なかったです。

中川 そこまで苦しい時期に、それでも諦めずに前に進めた原動力はなんでしたか?

川井 家族、そしてレスリングをする上で支えてくださる方々からの温かい言葉でしたね。父と同じくレスリングの選手だった母からは「五輪というものを目指せる環境がうらやましい。五輪に向かって挑戦できること自体、恵まれているんだよ」と。母の現役時代は五輪への挑戦権がそもそもなかったので。

それに、会社(ジャパンビバレッジ)のコーチからは「勝っても負けても、そこで人生が終わるわけじゃない。だから思い切りぶつかれ」とか、「梨紗子をそばで支えられることがうれしいんだよ」とか。 

中川 さらに、五輪の選手名鑑のQ&A欄で心に残った応援の言葉として「決断するのは自分自身だけど、まだやるべきこと、まだ見たい、見れる景色があるはずです」を紹介されていましたが、これはどなたからかけられたんですか?

川井 倖田來未(こうだ・くみ)さんですね。私がずっと大ファンで、ご縁をいただいてから、ずっとお世話になっているんですけど。

国内予選で私が負けた後、來未さんのライブに行ったんです。公演終了後、少しお話しさせていただいて、何げなく「もう(レスリングを)やめようと思ってるんです」って言ったんですよね。そしたら、帰宅後に來未さんから長文のLINEをいただいて、そこにあった言葉なんです。レスリングと歌、全然フィールドは違いますけど、すごく勇気づけられましたね。

■決勝での試合中、妹を見つけて

自身の決勝前日には、妹の友香子(左)が五輪初出場にもかかわらず、62kg級を制覇。「姉妹そろっての金メダルが悲願でした」 自身の決勝前日には、妹の友香子(左)が五輪初出場にもかかわらず、62kg級を制覇。「姉妹そろっての金メダルが悲願でした」

中川 そして、いよいよ迎えた東京五輪。無観客という異例のケースでしたが。

川井 いつもの試合会場の雰囲気ではなかったですけど、会場にいるスタッフの皆さんのホスピタリティ、それとSNSを通じていただいた応援メッセージなどで、リオ五輪のときよりも心強く感じたんですよね。これが自国開催なんだと。

中川 まさに"アットホーム"を実感したわけですね。五輪では1回戦から決勝まで計4試合を戦ったわけですが、非常に安定した戦いぶりのように思えました。

川井 実は、私をいつもそばで見てくれているコーチはじめ関係者からは、1回戦と2回戦がかなり動きが悪くて、心配されていたんです。

中川 そうだったんですか?

川井 はい、私自身も「今日はなんか良くないなぁ」と思いながら戦っていて。それでもなんとか勝ち抜いて、準決勝までにしばらく時間が空いたものですから、そこでコーチと徹底的に話し合って。いつもだったらここができているのにどうしてだろう、と。私の場合、言葉をちゃんと呑み込めないと前に進めないんですね。

だから、納得いくまで、ひたすらコーチに食い下がりました。レスリングの試合時間は計6分。どう組み立てていくのか、非常に重要ですからね。

中川 戦術的議論を徹底的に交わして、咀嚼(そしゃく)した上で戦ったわけですね。その後、準決勝は、リオであの吉田沙保里選手を破ったマルーリス選手(アメリカ)と対峙しました。

川井 点数的には、計2対1と最も接戦だったんですけど、コーチと十分に対話して立て直しを図り、修正して勝利できた試合だったので、私の中ではベストマッチですね。

中川 そして、決勝はクラチキナ選手(ベラルーシ)との対決でした。ここまで進むと体力的にも限界に近いですよね。それでも、もう一歩前に進むことができたパワーというのはどこから湧いたのですか?

川井 第1ピリオドが終わると、30秒のハーフタイムを取るためにセコンドに戻るんですけど、決勝では戻る途中で視線をふと先にやったら、そこに友香子がいたんです。

正直、第1ピリオドを終えた瞬間は疲れがピークに達していて、残りの第2ピリオドの3分間、体力が持つか不安だったんです。でも、友香子を見た途端スイッチが入ったんです。「あと3分間だけじゃないか。耐えよう、頑張ろう」と。

中川 川井選手のSNSで、友香子選手が獲(と)った金メダルを手にした写真がアップされていましたよね。私、すごく感動しまして。やっぱりふたりでずっと戦ってきたという思いが強かったわけですね。

川井 私の決勝当日の朝の撮影画像ですね。前の晩、友香子の決勝だったんですが、私、全然会えていなくて。そしたら、朝になって隣の部屋から友香子がやって来て、無言で金メダルを差し出してくれたんです。その瞬間、涙があふれてきて。プレッシャーを感じたとかではなく、ただ思ったのは、「今夜、もうひとつ、絶対にこの金メダルを増やすんだ」と。

中川 やはり、友香子選手の金メダル獲得というのはすごく励みになったんですね。

川井 はい。背中を押してもらえました。友香子は、五輪とは縁がないのかなって思うぐらい、ケガもあったり、うまく結果が出せなかったりして、決してここまで平坦な道のりではなかったんです。

でもたくさんの挫折を乗り越えて、世界の頂点まで上り詰めた。東京五輪での戦いぶりは実に堂々としていました。きっと調子に乗るから、友香子本人には絶対こんなことは言わないですけど(笑)、 私の妹はすごくカッコいいです。

中川 余談ですが、友香子選手との選手村の生活はいかがでしたか?

川井 私たちのレスリングは、大会終盤の日程で組まれていて。種目ごとに規制があったと思うんですけど、レスリングの場合は決勝が終わった後に入村だったんです。なので、実質、3泊しかしてなかったんです。無事に終わったことだし楽しもうと思って、友香子とはネイルサロンに行きましたね。

中川 え? ネイルサロンもあったんですか?

川井 そうです。プロの方が派遣されてきたんですかね。すごく上手で。美容室も、お土産ショップもありましたね。面白かったのは、日本のお菓子が海外の選手に絶大な人気で。どの選手も抱えるようにして持って帰ってました(笑)。

■夫がこの5年間で初めて言ったのは

中川 この5年間、支えになったといえば、このたびご結婚されたお相手の金城希龍(きんじょう・きりゅう)さんも、やはり大きな存在ですか?

川井 そうですね。彼とはリオ五輪が終わった少し後からお付き合いが始まったんですけど、私のこの5年間、一番苦しい時期を支えてくれました。彼自身も選手として東京五輪を目指していたので、励まし合って、切磋琢磨(せっさたくま)して。

結果的に彼は代表への夢は叶(かな)わず現役生活にピリオドを打ちましたけど、私が金メダルを獲るまで、ずっとサポートしてくれました。今までは家族のために、って頑張ってきたけど、東京五輪では彼のためにも、っていう気持ちが芽生えましたね。

中川 東京五輪後には、金城さんからはどんな言葉をかけられましたか?

川井 驚いたのは、東京五輪の決勝が終わった後、最初にかけてもらった言葉が「長かったね」。私が思ったことと、まったく同じで。以心伝心なのかなって。

それと、私がリオ五輪で獲った金メダルは(彼は)一度も首から下げたことはなかったんです。やっぱり、彼も選手としてのプライドがある分、人が獲ったメダルは触りたくないと。でも今回東京五輪の金メダルは、彼が自分から「かけてもいい?」と。この5年の重みを共有してくれたんです。

中川 すてきな関係ですね。金城さんとはこの先どんな家庭を築いていきたいですか?

川井 彼は今、高校で指導に当たっていて、レスリング部を強くしたいと日々奮闘しています。なので、今度は彼の夢を叶えるために、私なりに応援していきたいと思っています。

中川 川井選手のご家庭も、ご実家と同様にレスリング一家になるかもしれませんね。

川井 子供ができたら、なんだかんだでレスリングをさせるのかもしれませんね(笑)。

中川 リオ、そして東京。川井選手にとっての、特に東京五輪とはどういう大会だったのか、あらためてお聞かせください。

川井 まずは、コロナ禍という状況にもかかわらず大会を開催してくださったことに心から感謝したいです。マットの上に立たせていただいたのも本当にありがたかったです。開催されるかどうか先行き不透明な状況でも支えてくれたコーチ陣、関係者、家族に、優勝という形で恩返しできてよかったです。

リオ五輪よりもはるかに辛苦や困難があったけど、私自身ずいぶん助けられました。だから東京五輪は、より感謝の気持ちが強い大会でした。

中川 リオでは期待の若手として出場されましたが、今回の東京ではチームの主将でした。そういう点でも重責を感じましたか。

川井 そうですね。リオでは沙保里さんと馨さんという絶対的な存在がいて、後ろからくっついていくだけでしたけど、今回はふたりを知る私と、(土性/どしょう)沙羅(さら)が引っ張るという形でした。
今回初出場だった若手たちは私たちふたりから経験を引き継いで、パリ五輪に出場する次の若手へバトンを渡していくわけです。

何度も言いますが、代表に入れるのは各階級たったひとりです。その重みをしっかり受け止めて、女子レスリングの伝統と強さを守っていくべきだと考えます。

中川 最後に、川井選手はここから先、ご自身のビジョンをどのように考えていますか?

川井 今回、五輪連覇を達成することができましたけど、やはりそう簡単なことではなくて。さらっと、次のパリ五輪で3連覇を狙いますとは言えないです。そもそも、パリを目指すということ自体、今の段階では軽々しく言えないですね。

ただ、試合が終わった後に、「やっぱりレスリングって楽しいな、やめられないな」と思う自分も確かにいます。だから、日々練習を続けているなかで、もし、新たな目標を見いだせるのならば、そこに向かって頑張っていきたいです。

(スタイリング/武久真理江 ヘア&メイク/石岡悠希 衣装協力/COMPTOIR DES COTONNIERS YUKI)

●川井梨紗子(かわい・りさこ) 
1994年11月21日生まれ 石川県出身 身長160cm 
〇父が元・学生王者、母が世界選手権出場経験者というレスリング一家に生まれ育つ。名門・至学館の高校から大学時代にも数々のタイトルを総なめ。16年のリオ五輪63kg級では圧倒的な強さを誇り、優勝。以降、17~19年の世界選手権では、階級は違えどすべて頂点に立つ。東京五輪では57kg級で金メダルを獲得した。

●中川絵美里(なかがわ・えみり) 
1995年3月17日生まれ、静岡県出身。フリーキャスター。2017年より『Jリーグタイム』(NHK BS1)のキャスターを務めるほか、ラジオ番組『THE TRAD』(TOKYO FM)の水、木曜のアシスタントを担当。

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