読売ジャイアンツ1軍外野守備走塁コーチ・亀井善行氏(左)にスポーツキャスター・中川絵美里が直撃!
読売ジャイアンツ1軍外野守備走塁コーチ・亀井善行氏(左)にスポーツキャスター・中川絵美里が直撃!

幾度となく、どん底に落ちた。それでも、這い上がってきた。野球ができる喜びを、ひたすら求めて。

亀井善行、ジャイアンツひと筋17年。2021年11月12日をもって、現役を引退。今だから言える壮絶な野球人生、ここから先の"盟主"復活へのシナリオについて、人気スポーツキャスター・中川絵美里(なかがわ・えみり)が余すところなく聞いた。

■"スター軍団"の中の1軍デビュー

中川 選手人生にピリオドを打ってから、すぐにコーチになられました。環境の変化も目まぐるしいと思うんですけど、今の心境はいかがですか?

亀井 まだ、コーチとしての実感がなくて。現役を終えたばかりですしね。17年間の現役生活に区切りをつけられてホッとしてはいるんですが、指導する側としていろいろ勉強をしなきゃいけないし、覚えることも多いので、もうバタバタです。

中川 まさに、その17年間の選手人生をたどりたいのですが、まずは、2005年の1軍デビュー当時について、です。そのときのスタメンを見ると、クリーンナップがタフィー・ローズさん、小久保裕紀(ひろき)さん、阿部慎之助さんで、6番が清原和博さん、そして7番が亀井さん。そうそうたるメンバーですよね。

亀井 とんでもないチームに来てしまったなと。こんなところに自分がいていいのかと思うぐらいでしたね。ハンパじゃない緊張感があったし、自分と周りの先輩選手を比較してみても、力の差が歴然としていました。

中川 そのような状況で、自分の持ち味をどう出すべきか、選手としてどのように頭角を現す存在になろうと思い描いていましたか?

亀井 自信を持っていたのは守備だったから、それでなんとかしなきゃいけないっていう思いはありました。でも、いざ入ってみたら、それどころじゃなくて(苦笑)。その頃の僕ら新人は雑用もいろいろとこなさなきゃいけなかったし、正直、野球どころじゃなかった。まだまだ未熟というのもあったし、3年ぐらいは自分の野球ができなかったです。

中川 亀井さんたち新人選手にとって、環境的にハードだったということですか?

亀井 ええ。今の時代じゃ考えられないんですが、地方の市民球場とかだと若手がベンチ裏のロッカーを使えなかった。古い球場だから、そこまで整備されていないんですよ。

なので、トンボとかの用具が雑然と置いてある倉庫で慌ただしく用意して。ろくに着替えもできないわ、ご飯も食べられないわで(笑)。それが2、3年続いて、ようやく抜け出せたのが08年頃でした。

中川 そんななかでも着実に出場機会を増やしていって、09年にはWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本代表にも選出。ジャイアンツでは5番に定着し、守ってはゴールデングラブ賞受賞と大活躍でした。

亀井 1軍メンバーとして手応えをつかみだしたのは08年頃でした。その年の後半にはクリーンナップも何度か打たせてもらったし、WBCでもいい経験をさせてもらって。

その勢いで09年は成績もそれなりに残せたけど、自分を確立できてはいなかったんですよね。やっぱり難しいんですよ、自分を知ることって。それが十分にできなかった。そこにケガも重なってしまって......。次の年に響きましたね。

チーム屈指の外野守備を支えたグラブは、2007年からずっと使い続けてきたもの。「グラブだけじゃなくて、ベルトもずっと同じものを使っていた」(亀井) チーム屈指の外野守備を支えたグラブは、2007年からずっと使い続けてきたもの。「グラブだけじゃなくて、ベルトもずっと同じものを使っていた」(亀井)

■10~12年あたりは"地獄"だった

中川 翌10年は、一転してケガと不振に見舞われました。さらに、追い打ちをかけるように同じ外野手で即戦力の長野(ちょうの)久義選手が加入してきましたよね。焦りは相当あったんじゃないかと思うのですが、いかがでしたか?

亀井 だいぶね(苦笑)。よし、これから立て直しだっていうときに長野が入ってきて。僕は大学のときから彼のことを知ってたんですよ。スゴいバッターだなって思っていました。

しかも、2度も他球団からのドラフト指名を蹴って、悲願達成でジャイアンツに入ってきたわけでしょ? 守備うまい、肩強い、足速い、パワーある。いったいなんだったら俺は彼に勝てるんだ、と。なんとか10年の開幕スタメンは僕が選ばれましたけど、焦りはスゴかった。とにかく、結果を出さなきゃマズいと思っていました。

中川 その年の秋のキャンプ、亀井さんは原辰徳監督から内野手へのコンバートを言い渡されます。それまでの経歴、WBCでも当時のイチロー選手に称賛された立場からすれば、かなりプライドが傷ついたのではないかと......正直なところ、いかがでしたか?

亀井 いや、プライドとかそんなのはなくて。とにかく、生き残ることしか考えてなかったです。ポジションを取られて、控えに回った。じゃあ、ここからまたどう這(は)い上がっていったらいいのか......。ずっと考えるんだけど、そこにまたケガが重なって。考えるところまでにもたどり着けない。マイナスからのスタートです。

その間に、長野は成績を着実に残していく。こちらとしては焦りを通り越して、どうやって生きていこうかと。まずは自分の役割を見つめ直して。当時はまだ、代打の一番手とかでもなかったから、もらった一打席でしっかり成績を残すぐらいしかできなかった。と同時に、サードをやったり、ファーストもやったりして。必死でしたね。

中川 チャンスを与えてもらえるだけ、まだマシだと。

亀井 ええ。そんな外野手のプライドなんかにこだわってたら、生き残ることなんてできなかったですよ。とにかく、試合のメンバーに入らなきゃいけない。別のポジションだからといって、まったくいやだとは思わなかったです。メシ食うためにはそれしかない。やるしかない。練習しかない。

中川 当時はさまざまなポジションを任され、打順も著しく変更、ケガに加えて、チームには期待のかかる助っ人外国人選手やFA組の選手が続々と入ってきて。亀井さんの状況はいつも非常に苦しかったと思います。どうやって、耐えられたんですか?

亀井 今にして思えば、諦めなかった、っていうことですかね。家族もいるし。内野をやれと言われたら、やる。バットを持てば、もちろんヒットを狙いに行く。ギリギリのところで諦めなかったからこそ、何度も這い上がれたのかもしれないです。

中川 噂で聞いた話では、亀井さんが不振の時期、早朝や夜更けにも一心不乱にバッティング練習を続けて、それを見た周りの選手たちが、これ以上練習させないようにバットを隠したそうで。それでもまた亀井さんはしっかり見つけてきて、再びバットを振り続けたと。本当ですか?

亀井 それは覚えてないな。でも、泣きながらバットを振ったのは覚えてます。そんな時期もあった。なんかね、終われないんです、自分に納得できないから。試合後、23時半とかだったかな。終われない。やればやるほど、ドツボにはまって。

次の日も打たなきゃって考えだすと寝られない、野球のことしか頭にない。だから翌朝、また練習場に来て、打って。試合始まりました、終わりました、それでまた練習場で打つというのが続いた時期はありました。

中川 心身ともにボロボロだけど、でも、やらねばという思いがあったわけですね。

亀井 もはや、ボロボロだという自覚すらなかったです、その当時は。今になって思えば、あの頃はぶっ壊れていました。地獄でしたね。ちょうど、10~12年頃だったかな。

中川 そこまで追い詰められていたんですね......。

亀井 人間不信にもなっていましたしね。自分以外の周りの人間が全員敵に見えたというか。だから、人と接するのが怖かった時期もありました。

中川 それでも諦めずに這い上がってこられたのは、選手としてここでは終わらせられない、家族を養うために、という気持ちがつなぎ止めていた感じですか?

亀井 俺は諦めないんだ!とかじゃなくて、ここで己の野球人生を勝手に終わらせちゃいけないって、そう思っていたんですよね。だって、野球しか知らないから。俺から野球取ったら、何が残るの? この先、なんの仕事をするんだ?って。だから野球しかない。本能のままにやっていたんだと思います。

キャリア最終年となった2021年、プロ野球史上初となる開幕戦での代打サヨナラ本塁打を放つ。原辰徳監督からも「困ったときの亀ちゃん」と全幅の信頼を置かれ、その勝負強さといぶし銀の存在感で広くプロ野球ファンから愛された キャリア最終年となった2021年、プロ野球史上初となる開幕戦での代打サヨナラ本塁打を放つ。原辰徳監督からも「困ったときの亀ちゃん」と全幅の信頼を置かれ、その勝負強さといぶし銀の存在感で広くプロ野球ファンから愛された

■「別の場所で」とは一度も思わなかった

中川 どん底から這い上がるといっても、額面どおりにはいかないですよね。ましてやジャイアンツであれば、ドラフト1位での鳴り物入りの選手やFA組が、優先的に起用されるわけで。序列をひっくり返すのも困難です。正直、「ジャイアンツじゃなかったら、俺も違っていたはず」と思うことはありましたか?

亀井 正直......なくはなかったです。けど、そもそも自分はいつクビになってもおかしくない成績がずっと続いていたわけで。それでも球団は残してくれた。このチームで、自分はちゃんと仕事をしなきゃいけないって思ったし、ろくに成績も残してないのに、「他球団に行ったら、もうちょっと違うはず」という考えは、自分の中ではちょっと違うなと。 

中川 普通、思いませんかね? 他球団に行って環境を変えれば、復活できるって。

亀井 いや、ジャイアンツで結果を残せないなら、ほかに行っても残せないです。その年で終わってしまう。

中川 安易な考えだと、長続きしないわけですね。

亀井 そう。そこで練習して、黙々とやる姿を、周りはちゃんと見ています、絶対に。ブレずにコツコツやる人間が、結局報われるんですよ。

中川 亀井さんのキャリアを物語るような言葉ですね。

亀井 今だから言えるけど。

中川 ジャイアンツで必死にもがいていくなかで、生き残るためにあらためて見いだすことのできた自分の武器はなんでしたか?

亀井 現役最後の年はもう完全に何してもダメだったんだけど、それまでは、やっぱり守備ですかね。あと、盗塁はできないけど、走塁の技術であったり。例えば、隙を突く走塁とか。それと勝負どころでの、得点圏での代打。選手キャリアの終わり頃には代打の一番手をさせてもらって。

中川 亀井さんは記憶に残る一打が多いですよね。事実、サヨナラ本塁打数が球団史上2位タイを記録しています。その勝負強さはどうやって培われたんですか?

亀井 どうだろう。結果なんてわからないんだから、受け身にならないことですよね。代打だったら、そう簡単には打てない。打てなくて当たり前。だから、開き直る。そうすることで、ポンと考えが浮かんでくる。例えば、ストライクゾーンをもうちょっと広げてくる球を、全部一球で仕留めてみようとか。そういうルーティンを身につければ、怖いものなしです。

中川 逆に代打は、そういったルーティンを持ってないと怖いですよね。チームの期待を一身に背負って打席に向かうわけですし。

亀井 そう。ベンチで、「代打行くぞ」って言われるたびに、一瞬、ドキッとするわけです。緊張感が走る。それが一試合のなかで何度もあるんですよ。でも、ルーティンを持つようになってからは、打席に立つ恐怖心もなくなって。いつでも来いっていう気持ちになりましたね。

昨シーズンで選手を引退し、コーチとして新たなスタートを切る。インタビュー中には「まだ(コーチとしての)言葉とか伝えられるような教訓とかはないけど」と照れたように話した 昨シーズンで選手を引退し、コーチとして新たなスタートを切る。インタビュー中には「まだ(コーチとしての)言葉とか伝えられるような教訓とかはないけど」と照れたように話した

中川 だから、あれだけ代打で打席に立つたびに堂々とされていたわけですね。亀井さんの中では、むしろ現役の最後のほうが、手応えをつかんでいたわけですか?

亀井 ええ。本当に信頼されてきたと感じたのは、30代後半になってからですね。

中川 振り返ってみると、10年代後半当時のチーム内の変化も著しかったですよね。長野選手も、同級生でエースだった内海哲也選手も移籍されて。一方で、村田修一選手への戦力外通告、矢野謙次選手のトレードなど。亀井さんにとっても、決して人ごとではなかったと思うんです。

亀井 正直、次はいよいよ俺かなって思うことはありました。同世代の選手たちが次々と他球団に移っていくのを見て。

中川 覚悟しながら、見ていたというわけですね。

亀井 はい。特にFAには恐怖を感じていましたね。ジャイアンツはFAで移籍してくる選手が多いじゃないですか。そこのプロテクトリストに入っていなければ(他球団に)自分が移籍する可能性もあるわけですから。

中川 それでも、ジャイアンツに長く居続けられたのは、やはりチームに貢献したいという気持ちがずっとブレなかったからですか? 数字にも表れています。規定打席にのったのは、09年、18年、19年。キャリアの終盤で輝きを取り戻しています。

亀井 実は、17年に引退しようとしていたんです。でも、チームの人間に止められて。よし、次のシーズンがダメだったら引退しようと。そういう覚悟ができたら、いやな緊張感から解き放たれて、何も怖くなくなったんですよ。そこからは確かにすごく調子が良くなって。野球が楽しくなりましたね。

中川 去年のケガさえなければ、まだまだ現役を続行するつもりでしたか?

亀井 全然やってましたね。でもケガしたことで、観念しました。あれだけどん底にいたのに、最後は引退セレモニーまでやってもらえて。やっぱり、ジャイアンツのためにっていう思いは常にあったし、ジャイアンツで続けられて、本当によかったと思ってます。

■復権のカギを握るふたりの若手

中川 21年は、ジャイアンツはリーグ3位止まりで、日本一からは9年間遠ざかっています。コーチの立場から見て、今のチームに足りないものはなんですか?

亀井 まず、相手にとって脅威になっていないと思います。たぶん、うちのピッチャーも打線も怖くないって思われているんでしょう。 

中川 それは、低く見られてしまっているということですかね?

中川絵美里 中川絵美里

亀井 そうですね。昔だったらジャイアンツが相手だと、どの球団もピリピリしていたように感じました。今はそれが薄れているのかなと......。だからといって、悲観的になっているわけじゃないです。僕が期待している松原(聖弥)と吉川(尚輝)がしっかり成長すれば、勝機は格段に増えます。なんせ、ホームランを打てる、足は速い、守備がうまい、三拍子そろっているわけですからね。

中川 特に、松原選手と吉川選手にかける期待は大きいわけですね?

亀井 ええ。あと、ジャイアンツでは、盗塁王が11年の藤村大介以来出ていないんですよ。このふたりで盗塁王争いしてくれたら、本当に面白い。とにかく、来シーズンは彼らが相手をかき回してくれたら、(坂本)勇人(はやと)や丸(佳浩)、(岡本)和真たちがラクになります。チームに4人主力選手がいれば、強豪になれる。

それが5人になったら、間違いないですよ。あと、ピッチャーでいえば、(菅野)智之が調子を戻して、戸郷(翔征[しょうせい])が成長してくれば、文句なしですね。

中川 亀井さんは、選手としてつい最近までチームにいたわけじゃないですか。このチーム状況のなかで、選手たちにはどんなことを伝えていきたいと思ってますか?

亀井 まだ自分の中に選手感覚が残ってるのは事実です。彼らと一緒にやってきたし、近い存在ではあるから、変な壁はつくらなくていいのかなと思っています。コミュニケーションは取りやすいはずです。

しかも、コーチ陣では村田さん、阿部さん、實松(さねまつ/一成)さん、山口(鉄也)投手コーチなど、あの世代が1軍に上がったので、全体的に話しやすい環境にあります。今のコたちは、ホメたら伸びるコが多いから、ちゃんと接してあげれば伸びると思うんですよ。間違っても、突き放すようなことはしちゃダメですね。

中川 ずばり、亀井さんとしては、ジャイアンツをどのようなチームにしていきたいですか?

亀井 昔、僕が若い頃のジャイアンツは、本当にスター軍団だったでしょ? その頃、僕もいたけど、やっぱりこれがジャイアンツだなって思ったし、それが年々薄れていっているのはあるかなと。

今で言ったら、勇人や智之、岡本とかいるけど、彼らの次世代も含めて、もっと出てこないといけないし、もう一度スター軍団をつくらないといけない。FA組の選手だけじゃなくて、生え抜きの若い選手たちがボーンと出てくれば、人気も再び上がると思うんですよ。そうしてファンが満足できる、喜んでもらえるチームにしないといけないですね。

中川 となれば、目指すのは生え抜きが主軸となる、常勝軍団の再建というわけですね。

亀井 そうです。生え抜きにこだわるのは、僕がそうだったから。別にFAが悪いとかじゃないんです。でも、やっぱり生え抜き主体でチームをつくってみたいなっていう気持ちはあります。つくりたいって言うと、今までがアカンっていうことになってしまうから、まずは現実的な目標で、生え抜きの選手をスターに育て上げたいです。

●亀井善行(かめい・よしゆき)
1982年7月28日生まれ、奈良県出身。2004年ドラフト4位で巨人に入団。09年開幕前にはWBC日本代表に選出。同年、ゴールデングラブ賞を受賞。以降、度重なるケガや不振にあえぐも、20年、球団史上最年長での1000本安打をマーク、翌21年には史上初となる開幕戦での代打サヨナラ本塁打を放った。21年10月に引退を発表、1軍コーチとして入閣を果たした

●中川絵美里(なかがわ・えみり)
1995年3月17日生まれ、静岡県出身。フリーキャスター。昨年まで『Jリーグタイム』(NHK BS1)のキャスターを務めたほか、TOKYO FM『THE TRAD』の毎週水、木曜のアシスタント、同『DIG GIG TOKYO!』(毎週木曜27:30~)のパーソナリティを担当

スタイリング/武久真理江(中川) ヘア&メイク/石岡悠希(中川) 
写真提供/読売ジャイアンツ 衣装協力/AKIKO OGAWA REGAL nanagu

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