酔っぱらいに絡まれた女児を救い、一躍、時の人となった新日本プロレスのヒールレスラー、グレート-O(オー)-カーン。だが、「悪役ほどいい人が多い」のはプロレス界の定説だ。プロレスライターの斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)氏が、世界を震撼させた強面ヒールたちの、心に染みるエピソードを大紹介!
* * *
■スタン・ハンセンの「バッドガイ」論
――新日本プロレスのヒールレスラー、グレート-O-カーンが脚光を浴びています。
斎藤 駅のトイレの前で10歳の女の子が酒に酔った男に連れ去られそうになっていたところ、O-カーンが男を取り押さえ阻止。警察官が来るまでの間、女の子に「パンケーキあるけど食うか?」と語りかけて恐怖心をやわらげるなど、悪役レスラーらしからぬ心優しいアクションが称賛されていますね。
――「助けを求めた幼子の勇気に余(よ)は感服する」というコメントも素晴らしかったです。長いヒゲをたくわえ弁髪(べんぱつ)を結った強面(こわもて)のヒールですけど、もともと実力者なんですよね。
斎藤 レスリング全日本王者で、空手、柔術などさまざまな格闘技で実績を残しています。ひと昔前なら、新日本の総合格闘技要員としてPRIDEなどに出ていたでしょう。それだけの実績がありながら海外遠征後、O-カーンという完全にプロデュースされたキャラクターに変身したのが彼の面白いところです。
実力があってキャラが立っていて、しかもSNSの使い方もうまい。今回、一般的知名度が上がったことで大ブレイクするでしょう。
――今回のO-カーンだけでなく、プロレス界では昔から「ヒールほど善人が多い」ともいわれますよね。
斎藤 日本のファンに最も愛されたヒールレスラーのひとり、スタン・ハンセンはこう語っています。彼はプロレス界の隠語を使うのが好きではなく、ベビーフェースを「グッドガイ」、ヒールを「バッドガイ」と呼んでいましたが、「バッドガイのほうが実人生ではいい人間が多い」ということを何度もボクに話してくれました。
「バッドガイは本来の自分の延長線上にあり、自分の中の荒々しい部分をデフォルメしてリングでナチュラルに表現しているけれど、グッドガイは他人によく思われたい〝ええカッコしい〟が虚像を演じている場合が多い」と。
ハンセンはアントニオ猪木、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、三沢光晴ら日本人エースの前に立ちはだかる「ビッグ・バッド・ガイジン」であることに誇りを持っていましたが、素顔は実に紳士的で、インタビューには常に誠実に応じるナイスガイでした。
ハンセンの師匠格でありライバルでもあったテリー・ファンクも日本では大ベビーフェースでしたが、アメリカでは〝荒くれカウボーイ〟のヒールだった。日本のファンがテリーの人柄とその情熱を愛したことで、ベビーフェースになったという例ですね。
――テリーやハンセンは団体がベビーとして売り出すのではなく、ファンに愛されることでベビーフェース化したと。
斎藤 そういう例は多いんです。WWEのジ・アンダーテイカーやストーンコールド・スティーブ・オースチンも、ヒールのキャラのままファンに愛されたことでベビーフェース化しました。日本では長州力がそのタイプでした。
■「ビガロ物語」のラストシーン
――O-カーンのように、ヒールが人助けをしたエピソードはありますか?
斎藤 バンバン・ビガロが火災現場から子供を助け出し、自身も大やけどを負ったという話があります。2000年、フロリダでのことです。深夜、ビガロは帰宅途中に火事を目撃。燃えさかる民家に近づくと、中から子供の泣き声が聞こえた。
すると、ビガロはあの巨体で体当たりして壁を壊して家の中に入り、泣き声が聞こえる2階まで駆け上がり、見ず知らずの家の子供3人を抱きかかえて救出しました。外に出た次の瞬間、燃えさかる家が崩れ落ちたそうです。
――間一髪の救出劇ですね。
斎藤 ビガロの地元は米北東部のニュージャージー州アズベリーパークですが、2000年当時、なぜ南国フロリダに住んでいたかというと、実は奥さんに家を追い出されていたんです。
10代の頃から交際していた女性で、ビガロがお金を出してロースクールに通わせて弁護士になった優秀な方なのですが、ビガロがケガでプロレスをセミリタイア状態になってから夫婦仲に亀裂が入ってしまった。
――事実上、捨てられてしまったわけですね。
斎藤 家を失い、子供の親権も奪われ、失意のままハーレーダビッドソンにまたがって大西洋側をひたすら走り、流れ流れてたどり着いたのがフロリダだったんです。
傷心のまま、食うや食わずの生活を送っていたときに、危険を顧みず火の中に飛び込んで子供3人を助け、自分は全身の40%にわたる大やけどを負い、2ヵ月入院した。ビガロらしさを象徴する、「バッドガイこそグッドガイ」といういいお話ですね。
――ロードムービーのラストシーンのようですよ。
斎藤 ビガロはこの7年後に45歳の若さで亡くなってしまいましたから、この救出劇が「バンバン・ビガロ物語」のラストシーンにふさわしいかもしれない。
こういった自己犠牲のエピソードはつい最近もありました。ギャングスターのキャラクターで「クライム・タイム」なるタッグチームを結成し、WWEで活躍したシャド・ガスパードのケースです。
2020年5月、カリフォルニアのベニスビーチに家族で海水浴に来ていたとき、ガスパードは10歳の息子と共に高波にさらわれて沖に流されてしまった。すぐにライフガードが救助に向かったのですが、あまりに波が高すぎてなかなか近づくことができず、やがて3人とも荒波にのみ込まれてしまったんです。
そのとき、10mほど離れたところにいたガスパードが、「息子だけは助けてくれ!」と叫んだそうです。ライフガードはなんとか息子だけは助け出しましたが、ガスパードはこの言葉を最後に海に沈んで行方不明になってしまった。救助隊の捜索もむなしく、数日後、ビーチに漂着したガスパードの遺体が発見されました。
――子供の命を優先して、自分は亡くなってしまったと。
斎藤 訃報(ふほう)が出たときには、「あんなにいい人はいなかった」という友人の証言が伝えられました。そして今年3月、WWEは「ウォリアー・アワード」部門でのガスパードの殿堂入りを発表。
これは14年に54歳で急逝したWWEのスーパースター、アルティメット・ウォリアーの功績をたたえるとともに、不屈の精神と他者への思いやりを持った個人に贈られる賞で、セレモニーではガスパードの奥さんと助かった息子が壇上でスピーチをしました。
――表彰といえば、タイガー・ジェット・シンも昨年、カナダ・トロントの日本総領事館から表彰されましたね。
斎藤 シンが主宰するカナダの「タイガー・ジェット・シン財団」が、東日本大震災の被災者支援活動をはじめとする、日本との友好親善への貢献を評価されて表彰されました。日本では大悪役として名をはせたシンですが、実はトロントではベビーフェース。プロレス以外にもさまざまな事業を展開する地元の名士であり、インド人コミュニティの英雄です。
しかし、日本ではそういった顔を一切見せず、カナダでベビーフェースとして試合をしている写真や映像が日本に伝わることも絶対に許さなかった。
――日本では一貫して〝狂虎〟を演じていたわけですね。
斎藤 カメラが回っていないところでも、ボクたち記者と廊下ですれ違うと襲ってくるんです。それほどヒールであることに徹していました。
■心優しき〝快傑ホーク〟
――斎藤さんご自身と親交があったレスラーの中で「実は善人」なヒールといえば?
斎藤 真っ先に思い浮かぶのはロード・ウォリアーズのホークです。彼は六本木ロアビル前の交差点で、横断歩道で信号が変わり立ち往生してしまったおばあさんを見かけたとき、すぐさま飛び出していって周囲の車を止め、おばあさんの手を引いて渡らせていました。
ほかにも、酒場で酔っぱらいに絡まれている人を助けたり、ケンカやもめ事があれば体を張って仲間を守ったりと、そんなエピソードは数限りなくある。正義の味方〝快傑ホーク〟と呼ばれていたくらいです(笑)。そもそも彼は顔立ちが優しすぎて迫力に欠けるため、ペイントレスラーになったんです。
90年代に活動していたインディ団体、W★ING(ウイング)に来ていた怪奇派ヒールのレザーフェイスこと、マイク・カーシュナーもナイスガイでした。六本木で友人がケンカに巻き込まれて彼が止めに入ったとき、弾みで1発だけ相手を殴ってしまった。
それが原因で逮捕され数ヵ月間、収監されてしまったんですが、そのとき、何度も面会に訪れて彼を励ましたのがライバルだった〝ミスター・デンジャー〟松永光弘なんです。
――松永さんもまた、「素顔はいい人」のヒールですよね。
斎藤 松永さんにとって最高の好敵手だったのでしょう。W★INGが別人にマスクをかぶせてレザーフェイスとしてリングに上げたとき、松永さんは「マスクの中身にこだわる」としてその選手と試合をしようとしませんでした。
――仲間を助けようとして刑務所に入ってしまった人といえば、マサ斎藤さんもいます。
斎藤 マサさんは84年に同僚レスラーのケン・パテラが起こした事件に巻き込まれました。ウィスコンシン州ワカシャという小さな町で試合をした後、マクドナルドが閉店していたことに腹を立てたケンが、駐車場の車止めのブロックをぶっこ抜いて店の窓に投げ込んだため、警察が宿泊先のモーテルに来た。
その日、たまたまケンとルームシェアしていたマサさんが騒ぎに巻き込まれてしまったんです。取り押さえようとする警察に抵抗した際、ケガを負わせたということで逮捕。アメリカでは警察官への暴行は重罪扱いで、巻き込まれただけにもかかわらず主犯扱いされて、18ヵ月間も服役することになりました。
――ひどい話ですよね。
斎藤 そのとき、服役中のマサさんに手紙を書いたのがアントニオ猪木さんだった。それが一連の猪木vsマサ斎藤の闘いにつながり、87年には無観客・ノールール・ノーレフェリーの「巌流島の決闘」が生まれた。ふたりはリング上ではベビーとヒールの敵同士ですが、固い友情で結ばれていたのでしょう。
レザーフェイスが長期勾留されていたとき、保釈金を支払ったのは日本の友人でした。また、07年に急逝したビガロの亡きがらがアズベリーパークに戻ってきたときは、地元の仲間たちが100台のハーレーで出迎えたといいます。
こういったエピソードは、素顔の「バッドガイ」たちがいかに仲間に愛されていたかを物語っていますね。
●斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)
1962年生まれ、東京都出身。プロレスライター、コラムニスト、大学講師。在米中の81年から『プロレス』誌の海外特派員を務め、『週刊プロレス』の創刊時から記者として活動。最新刊は時事芸人・プチ鹿島氏との対談本『プロレス社会学のススメ コロナ時代を読み解くヒント』(ホーム社)で、プロレスを通して社会が学べる超名著!