元サッカー日本代表監督のイビツァ・オシム氏が逝去した。享年80歳。切れ味抜群の話術と確かな手腕で日本サッカーに多大な影響を与えた。その名将の波乱に富んだ半生と独自のサッカー観に迫ったベストセラー『オシムの言葉』(2005年)の著者・木村元彦(きむら・ゆきひこ)氏による特別寄稿――。

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■政治も民族も宗教も超越する存在なのか

イビツァ・オシムの存在を書き起こしたいとしっかりと意識したのは、1999年頃だった。

仲良き隣人同士が殺し合いをさせられたユーゴスラビア紛争(91~2001年)を対岸の火事とせず、いかに日本の読者に伝えるかを熟慮するなかで、サッカーの存在があった。日本人の多くはユーゴ建国の父であるチトー大統領の名は知らなくとも、当時、ストイコビッチやペトロビッチなどがJリーグでプレーをしており、サッカー選手には親和性がある。

加えてサッカーはユーゴにおいて日常に密着した文化であり、それは日本における野球や相撲の比ではない。そして、生活に近いゆえに戦争に向かうナショナリズムの高揚に利用される爪牙(そうが)とされていた。

サッカーを切り口にすることで、あの複雑な地域の複雑な問題を可視化して日本に伝えられるのではないか。その思いは、実際にユーゴ諸地域での紛争を取材していくうちに確信となっていった。

ユーゴスラビア連邦は崩壊し、いくつかの共和国に分かれることになったが、分離独立したばかりの国々の人々(=サポーター)はまだ民族主義の熱にうなされていた。「過去にさかのぼって、ユーゴ史上一番のサッカー選手は誰か?」と聞くと、セルビア人はストイコビッチ、クロアチア人はボバン、スロベニア人はカタネッチと自民族の選手の名を挙げ、彼こそが一番であると言い募り、他者を否定した。

ところが、「ユーゴ史上最高の監督は?」と問うと、驚くべきことにすべての民族が異口同音に「イビツァ・オシム」と答えたのだった。これには大きな衝撃を受けた。

90年イタリアW杯でベスト8に進出したユーゴ代表の最後の監督ということはもちろん知っていたが、イビツァ・オシムとは政治も民族も宗教も超越した存在なのか? いったいどういう人物なのか?

調べると、オーストリアのシュトゥルム・グラーツという地方クラブの監督を務め、何度もチャンピオンズリーグに出場させていた。取材のタイミングを窺(うかが)っていたところ、03年1月8日、ジェフ市原(現千葉)の監督就任の報が流れてきた。

当時の日本ではオシムはまったくの無名で、ひっそりという感じのベタ記事であったが、これには興奮した。さっそくジェフの広報に取材申請し、2月に姉崎の練習場で初めて会った。

初取材では、本音をシニカルな表現で包み、随所にメディアを警戒している様子が見て取れた。

「目標は優勝か、だと? 君はジュビロやアントラーズの戦力を見たことがないのか? 仕方がない。予算がないんだ、ジェフは」

と広報の前で堂々と言い放ち、

「(00年の欧州選手権で優勝した)フランスサッカーに学ぶ? フランスで学ぶのはフランス語だ。いいか、どこにいてもサッカーは学べる。ユーゴでも日本でも」

特にユーゴ時代の紛争についての質問には答えをはぐらかされた。それでも1時間にわたって吐露した言葉には様々な知見があった。

「(ユーゴ代表監督時代に)よくぞ全民族を束ねられたものだと尋ねられるが、私の答えはシンプルだ。良い選手を選ぶ。それだけだ。選手がどんな宗教だろうが、どんな名前だろうが関係ない」

私は原稿に彼の初印象を「偏屈とか気難しいとか、そんな単純な紋切り言葉では表せない。単なる毒舌とか傲慢(ごうまん)とも違う」と書いた。

答え合わせのようにこのやりとりの半年後に言われたのが、今でも「語録」として引用される以下の言葉である。

「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから」

■人もボールも走り続けるサッカー

ジェフのサッカーはオシムが就任していきなり劇的に変わった。ひとたびボールを持つと、意志を分有する選手たちは前線へ駆け上がってアタックに参加する。前シーズンを7位(年間順位)で終えたチームは、03年の1stステージ開幕から快進撃を見せる。

「走りすぎて死ぬことはない。サッカーも人生も」との言葉通り、ハードな練習に下支えられた、人もボールも走り続けるスペクタクルなサッカーで観る者を魅了した。

7月20日、1stステージ第13節のジュビロ磐田との一戦は、私にとって今でもJリーグの中でのベストマッチである。藤田、名波、服部、西、前田らを擁し、当時最強を誇ったジュビロを相手に熱戦を展開し、2-2で引き分けたのだ。

この頃のオシムは事あるごとにサッカーが商業主義に冒されるのを批判していた。チームが鹿島アントラーズ戦をホームの市原臨海競技場ではなく、観客収容人数の多い国立競技場で行なったことを、会見の場でも批判していた。

「営業的な観点から会場を交通費のかかる千葉県外に移す必要があるのか? 日本でも苦しい生活をしながら、地元で自分たちを応援してくれる人がいることを忘れてはいけない。ポジティブな考えは大事だが、世の中にはポジティブな声さえ上げられない人がいるのだ。プロはすべてを知って責任を感じないといけない」

大きなお金が動くようになってサッカーは堕落しかけている、地域を大切にしろと盛んに警鐘を鳴らした。

かつて下位に低迷していたジェフはオシムの薫陶の下で05年のナビスコ杯(現ルヴァン杯)を制し、初タイトルを獲得した。

■日本サッカー全体の底上げを視野に

06年7月、日本代表監督就任の一報は知人記者たちからの電話で知った。

ドイツW杯でジーコジャパンが惨敗を喫して帰国した成田での記者会見、日本サッカー協会の川淵会長(当時)が批判をかわすためなのか、「次期監督はオシム」と口を滑らしたことで、翌日の新聞の一面はドイツW杯の反省も総括もないままにオシム報道一色となった。

会長の失言により、いきなりジェフから有能な指導者を強奪するというこんな横紙破りの代表監督の決め方があってよいはずがない。コメントや原稿の依頼が殺到したが断った。無批判なままにコメントを出せば、オシムの代表監督就任の流れに加担することになるからだ。引き受ける上では、川淵発言と日本協会への批判を必ず併記させることを条件にした。

代表監督に就任した後もオシムは言葉と行動で発信をし続けた。

通常、代表選手の発表は直前合宿などの1週間前には行なわれていたが、オシムは招集当日に発表した。選手をギリギリまで見極めたいということと、選ばれた選手が負傷を避けようと無意識に試合で手を抜くことがないように、一方で、落選した選手を気落ちさせないように、そしてサッカーくじ「toto」に影響が出ないようにという配慮だった。

新潟で行なわれた合宿では、集合日の前日にJリーグの試合があったにもかかわらず、いきなり実戦形式のハードな練習を実施した。最初の海外遠征では、U-21日本代表から西川、伊野波、梅崎の若手3人と、国内組であるガンバ大阪の二川を初選出し、「君たちを見ている」ということを無言で伝えた。

前任のジーコは海外組にこだわってメンバーを固定していたため、それまで代表を諦めていた選手たちの目の色が変わり、Jリーグは活性化していった。代表チームのみならず、日本サッカー全体の底上げを視野に入れていたのだ。まさに「日本でも学べる」というメッセージだった。

07年9月、3大陸トーナメントで日本を優勝させた2ヵ月後に、オシムは脳梗塞で倒れた。左手の自由が利かなくなり、志半ばでサラエボに戻った。しかし、その後もオシムの戦いは続いた。

祖国のボスニアサッカー協会は対立していたムスリム、クロアチア、セルビアの3民族がそれぞれ協会を作り、3つに分裂していた。民族間の憎悪は温存される形になり、腐敗も頻繁に起こった。

「一国家、一協会の原則を守れ」というFIFA(国際サッカー連盟)の通達にもかかわらず、ひとつになることができず、ボスニアは一時、A代表からフットサルに至るあらゆるカテゴリーの国際大会から締め出されてしまった。

オシムはここに乗り出して民族間の対話を進め、サッカー協会を統一したのである。かつてサッカーを基準に公正に振る舞い、すべての民族から尊敬を集めた男の説得力は何より勝った。

不自由な身体にムチを打ち、献身的な働きかけを行なったおかげでボスニアサッカー界は民族間の憎悪を乗り越えてひとつになり、14年のブラジルW杯で悲願の初出場を決めたのである。

この頃、サラエボやグラーツで政治の話もしたが、その洞察と見識の深さには驚くことばかりだった。

「マンデラを尊敬する。30年近くも刑務所に入れられ、それでも彼は権力を握ったあとに報復を一切しなかった」

「我慢ならないのは、今、イスラム教徒に対する目先だけのルサンチマンがそこら中に溢(あふ)れていることだ」

「ゴルバチョフは、ロシアには民主主義の伝統がないのにソ連の解体を急ぎすぎた。いつかその影響が出るのではないか」

■サッカーには哲学がなければいけない

最後に会ったのは19年夏のグラーツだった。このときはサッカーの哲学について聞いた。何を今さらという顔をしながら、オシムは言った。

「哲学は人間にとって生きて行く上でむしろありふれたものだ。ましてやサッカーには哲学がなければならない」

そして、前年に開催されたロシアW杯での日本の敗戦について触れた。

「試合の中で起きた事件から、哲学はまた導き出されるのだ。日本はロシアW杯のベルギー戦で後半アディショナルタイムにカウンターで決勝点を奪われた。

あれは日本サッカーの哲学を考えるきっかけになったし、きっかけにしなくてはならない。まずはピッチ上で起きた事件から議論が出る。議論が百出して、沸騰する。それを集約することがサッカーの哲学になるのだ」

ベルギーには2点リードしながら追いつかれ、試合終了間際に最後のチャンスと思われたコーナーキックを本田が蹴るも相手GKにキャッチされ、そこから高速カウンター一発で沈められた。たった9.3秒で奈落の底に落とされたこのプレーから、オシムは日本人が内包する問題をさっと腑分けし、語ってみせた。

「日本人には視野を広げて自分で思考する教育が必要だ。指導者が事前に教えてくれないことを解決することが、日本の選手にとって最も困難なことなのだ。あのときは終了間際のビッグチャンスが一瞬でピンチに変わった。

しかし、不測の事態が起きたときにこそ、選手の真価は問われる。普段の教育のひとつの趣旨は、あのベルギー戦のような失点の再発をなくすためだ」

オシムは代表監督就任にあたり、「日本サッカーを日本化する」と語っていたが、それは強豪国をリスペクトし過ぎて視野狭窄(きょうさく)になる部分を指摘していた。

模倣してもオリジナルが残らなければ意味がない。鎖国が長かった歴史を踏まえ、答えを自分で探さずに指示どおり動くことを美徳として教えられる日本の教育の問題を看破し、問題の本質を言語化していた。

そして、それがまだ解決に至っていなかったことをベルギー戦のプレーから見て取ったのだ。今思えば、このとき最後に聞いたオシムの言葉は、まさに死生観だった。

――昨年、コソボサッカー協会のヴォークリ会長が亡くなりました。ユーゴ時代、ときに差別を受けていたアルバニア人である彼は「オシム監督にユーゴ代表に呼ばれたことは忘れられないことだ」と常に語っていました。前日まで元気に会長職にいた彼の急逝には驚いたのではないでしょうか。

「いや、死は人間の人生において避けて通れない宿命ではないか。むしろ人生の一部なのだから、それには驚くという感情はふさわしくない」

かつてチームを率い、自宅のあるオーストリアのグラーツでは追悼セレモニーが行なわれた かつてチームを率い、自宅のあるオーストリアのグラーツでは追悼セレモニーが行なわれた

訃報は5月1日に入った。

かつてチームを率い、自宅のあるグラーツのスタジアムで行なわれた追悼セレモニーでは、老若男女の市民がスタンドを埋め尽くした。

紛争に伴い政治難民となり、たった8年、地元クラブのサッカーの監督をしただけの人物がどれだけ多くの希望をもたらしていたのか。重い病を抱えながら、亡くなる直前まで周囲にはつらい様子を見せなかったという。人生で避けて通れない死に至るまで、オシムは走り続けた。

●イビツァ・オシム 
1941年、ボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)のサラエボ生まれ。選手時代はFWで64年東京五輪に出場。78年に現役を引退し、指導者の道へ。90年イタリアW杯でストイコビッチらを擁するユーゴスラビア代表(当時)を8強に導く。2003年にジェフ市原(現千葉)の監督に就任すると、「走るサッカー」でJリーグに旋風を巻き起こす。06年7月、日本代表監督に就任。07年11月に脳梗塞で倒れ、同12月に退任した 

●木村元彦(きむら・ゆきひこ) 
ジャーナリスト。アジアや東欧の民族問題を中心に取材、執筆活動を行なう