「ドラマ・イン・サイタマ」と世界から称された伝説の死闘から2年7ヵ月、井上尚弥(いのうえ・なおや)が再びノニト・ドネアと拳を交える。6月7日、舞台は前回と同じ、さいたまスーパーアリーナ。だが今回は、「ドラマにはならない」と"モンスター"は断言。ドネアからWBC王座を奪取すれば、日本人初の「3団体王座統一」が現実のものとなる。
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■あの試合を苦戦とは言いたくない
WBAスーパー・IBF世界バンタム級チャンピオン、井上尚弥の体には多くのセンサーがついている。
インタビューは5月16日、WBC王者ノニト・ドネア(フィリピン)との3団体王座統一戦の約3週間前。大橋ジムで練習前の井上がバンデージを巻いている間に話を聞いた。拳(こぶし)をじっと見つめ、筆者の問いに耳を傾ける。
――試合が近づいてきました。
「これまでとはモチベーションが違いますね。自分に危機感があるか、ないかで全然違ってきます。しっかりと仕上げて挑まないといけない試合だと思っています」
――前回の対戦(2019年11月7日)では会場の盛り上がりがすごかったです。
「雰囲気的には近いものになるんじゃないですか。あの試合は(WBSS=ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズの)決勝でしたし、今回は日本人初の3団体統一がかかっていますし」
――今回、勝ち方を意識しますか?
「勝ち方、うーん、そうですね......。あれ、一回止めてもらいましょうか」
そう言って、背中越しでパンチングボールを叩き始めたボクサーに目を向けた。「バン、バン、バン」とリズミカルな音がこだまする。取材しづらいと気遣ってくれたのだろう。
バンデージの巻き具合に注意を払いながら、筆者の声を聞き、丁寧に答え、なおかつ背中でほかのボクサーの動きを感じ取る。視野が広い。何個センサーがついているのだろう、それが強さの要因ではないか。そう思わずにはいられなかった。
「ドラマ・イン・サイタマ」。さいたまスーパーアリーナで行なわれた、前回の井上vsドネア戦は海外でそう称された。
パンチが交差し、一瞬たりとも目が離せないスリリングな展開。先の読めない12ラウンドの〝長編ドラマ〟は超満員の観客を魅了した。
だが、〝主演〟の井上には引っかかるものがあるようだ。
「自分の中ではいい試合でしたよ。やれることはやり尽くしたし、勝ちを手にした。それで周りが『苦戦』と言うなら、それはその人が思った苦戦なんでしょうけど。自分ではあの試合を苦戦とは言いたくないですね」
バンタム級最強を決めるWBSSトーナメント。初戦でファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)をワンツーで70秒KOし、準決勝ではエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)を2ラウンドTKOで沈めた。そして決勝でドネアを迎えた。
「(準決勝まで)自分も勢いに乗った試合をしていたんで、誰もが前半、中盤までにKOすると。みんなそういう試合展開を予想した上での、ああいう内容だったので、そう言う人もいますけど......」
世界5階級制覇王者との激闘を苦戦と言われてしまうのは、圧勝続きだった〝モンスター〟ならでは。一部の厳しい意見を受け入れつつも、その評価に納得していない。試合後1週間、ビデオを見続け、導き出した答えだった。
「あれを苦戦と言ってしまったら、自分自身に申し訳ない。あの中で『よくやった』という気持ちです」
2ラウンド。ドネアの左フックを右目上に浴び、プロ・アマ通じて初めてカットした。右目は「ドネアがふたりに見えた」状態に陥り、徐々に視界を失う。非常事態。その状況を相手に悟られず、左目だけで闘い続け、11ラウンドには左ボディでダウンを奪った。
アクシデントによりドラマの〝シナリオ〟を、KO狙いから判定勝利へと切り替えた対応力。ピンチでも慌てることのない冷静さ。強打を耐え抜くタフさも証明した。その都度、最善の手を打ち、12ラウンドを闘い抜いた。
ジャッジは8ポイント差、5ポイント差、1ポイント差で3人とも井上。勝敗は明らかだった。自らに厳しい王者が「自分自身をホメたいな、という内容なんで」と言った。
今年3月30日の試合発表会見。井上は「13ラウンド目からの闘いと覚悟を決めて挑みます」と語った。「13ラウンド」とは、前回から続く闘い、という意味だ。しかし本音を言えば、少しニュアンスは違ってくる。
――一回肌を合わせている相手です。
「闘いやすいと思いますよ」
――相手の動きがある程度、わかっている。
「そうですね。染みついているし、ドネアがまたさらに考えてやってくることも限られている。あとはもう心理戦。向こうもキャリアがあるんで、(前回は)ああだった、こうだった、というのが絶対にある。自分はそこを突かせないように考えてやっているんで」
――13ラウンド目からの闘いと言っていましたが、前回2ラウンド以降にするはずだった闘いを見せたいのでは。
「はい。そこはもう期待していてください!」
力強くそう言うと、きっぱりした口調で続けた。
「作戦変更しなくてはならない状況になってしまったんで。あのドネア戦で見せたかったものはまだまだある」
■尊敬しているからこそ自らの拳で引導を渡す
取材が終わり、ジムワークに入ると、集中力が研ぎ澄まされていく。さらなるセンサーが稼働したかのようだった。
ドネアと同じフィリピン出身、WBO世界スーパーフライ級10位のKJ・カタラジャと4ラウンドのスパーリング。序盤からプレッシャーをかけ、重い左でガードをこじ開ける。すかさず右。パンチを打ったら、素早くガードをする。防御にも抜かりはない。
左で相手のあごを跳ね上げると、右、左と止まらない。ボディ、顔面と打ち分け、ヘッドギアをしているにもかかわらず、相手がふらついた。セコンドの父・真吾トレーナーが「もう危ないか。止めたほうがいいか」と問いかけるほど。
一寸の隙もない、圧巻の内容。相手はリングを下りると、ため息交じりに「ベリーストロング」と脱帽した。
その後もサンドバッグ、シャドーボクシングと高い集中力のままこなしていく。
同じ日にリングに上がる、WBOアジアパシフィック王者で弟の拓真が、いとこで元日本スーパーライト級王者の井上浩樹からボディにパンチをもらい、腹筋を鍛えていた。
井上も加わり、腹筋の左右、上下に10発ずつ。歯をくいしばる。終わると、井上が「なんか重いパンチで腹立つよな」とぼやき、拓真が笑う。ピンと張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
「拓真と同じ日に同じ気持ちでいけるのはいいこと。そこはメリットだと思います」
兄弟で同じリングに上がるのはあのドネア戦以来、2年7ヵ月ぶり。当時、WBC暫定王者だった拓真は正規王者ノルディーヌ・ウバーリ(フランス)に判定で敗れた。そのウバーリにドネアは4回TKOで勝ち、WBCのベルトを巻いている。
前回の対戦で、井上にひとつ心残りがあるとすれば、それは闘い方ではない。
「あの試合でドネアの評価がまた上がったとなると、自分的には納得いかないな、と。世代交代、引退の花道というか、これで終わり、というところを目指していたので」
尊敬しているからこそ、自らの拳で引導を渡したかった。
だが、ドネアは引き立て役でも脇役でもなかった。〝準主演〟としてスポットライトを浴びるシーンがあり、それもまた観る者の心を揺さぶった。
――試合後、「もうドネアとはない」と話していましたが。
「(再戦を決めた理由の)ひとつはドネアがチャンピオンに返り咲いたこと。これがただの挑戦者だったら、やる必要はないと思っていました。ドネアが力を維持したまま王者に返り咲いて、すごい興味が出てきたし、4団体統一も視野に入れていた。かつ、WBCのバンタムには特別な思いがあるんで」
――1990年代に辰吉丈一郎が巻き、その後、長谷川穂積、山中慎介が2桁防衛を果たした、日本ボクサーの系譜を象徴するベルトですね。
「自分だけじゃなくて、あの緑のベルトは日本のボクシングファン、みんなが一番記憶にあるんじゃないですか」
――再戦ではどんな試合を見せてくれますか。
「白熱するという意味では前回以上はないけど、ああいう試合にするつもりはないんで。一方的に終わらせる、何もさせないで終わらせる。判定にはならないんじゃないですか」
最後は自らに言い聞かせるように言った。
「誰もが想像していないような結末。あっと言わせるような、想像の上を行くような試合をしたいと思います」
もうドラマにはさせない。名勝負ではなく、ワンサイドの試合。そして衝撃的なKO劇。前回とはまったく違う勝ち方で、再び世界を驚かせようとしている。
●井上尚弥(いのうえ・なおや)
1993年生まれ、神奈川県出身。「日本ボクシング史上最高傑作」と称される、WBAスーパー・IBF世界バンタム級チャンピオン。2014年4月にライトフライ級で世界王座初戴冠。同年12月に2階級制覇、18年5月に3階級制覇達成。19年11月、WBSSバンタム級トーナメントで優勝。20年、21年には米ラスベガスで王座防衛。22戦22勝(19KO)無敗