抜群のセンスと天才的なひらめき。国内外のレスラーに多大な影響を与えた武藤敬司(むとう・けいじ)が来年春までに引退することを発表した。時代を動かし続けた"プロレスリング・マスター"の数々の偉業や伝説をプレイバック!
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「かつて『プロレスとはゴールのないマラソン』と言った自分ですが、ゴールすることに決めました。来年の春までには引退します!」
6月12日、〝プロレスリング・マスター〟武藤敬司が来年春までの引退をファンの前で正式に発表した。長年ヒザの故障に苦しめられ、2018年に両ヒザの人工関節置換手術を受けた後も現役を続けてきた武藤だったが、今度は股関節のケガが悪化。ついにリングを降りる決断を下したのだ。
1984年にデビューしてから38年。キャリアのほとんどをメインイベンターとして第一線で闘ってきた武藤がプロレス界に残した功績はあまりにも大きい。ここであらためて武藤の「天才伝説」を振り返ることで、ラストランへのエールとしたい!!
■最強の男を目指して高校時代に山ごもり
少年時代から抜群の運動神経の持ち主で、小学校から習い始めた柔道では全日本ジュニア体重別選手権3位に入賞。全日本強化選手にも選ばれたことで知られる武藤。
実は高校時代にはマンガ『空手バカ一代』の影響もあり、さらなる強さを求めて極真空手の総帥・大山倍達(おおやま・ますたつ)よろしく山ごもりも敢行している。その過酷な〝荒行〟を武藤はこう振り返っている。
「俺は2回山ごもりしてるんだよ。ただ、近所の山だからさ、大山倍達みてえにずっとこもってるんじゃなくて、夕方、風呂だけは家に帰って入ってね。柔道の先生に『山にこもりたいんですけど』って言ったらテント買ってくれたんで、夜はそこに泊まったんだ。
でも、山は大変だよ。朝起きて、メシ炊いて、メシ食って。ちょっとしたら、今度は晩メシの支度を始めなきゃいけなくて。一日がメシのことだけで終わるんだから(笑)。結論を言うと、山にこもっても格闘技は強くならねえな!」
さすが天才・武藤。山ごもりをしながら、昨今のソロキャンプブームを40年先取りしていたのだ。
■長州軍団離脱の日、道場から姿を消す
188cmの長身と端正なルックス、さらに柔道のバックグラウンドを兼ね備えていた武藤は、新日本プロレス入門時から将来のエース候補として期待される逸材だった。
そのため、厳しい練習についてこられない人間は容赦なく追い出されていた昭和の新日本道場において、武藤は入門わずか3日で〝鬼軍曹〟山本小鉄に「キツいから俺辞めます」とあっさり退団を申し出るも「そんなこと言うな。もう少し頑張ってみろ」と、引き留められたエピソードがある。
そんな武藤はデビューを約2週間後に控えたある日、同期の橋本真也と共に忽然(こつぜん)と道場から姿を消した。
その日は、長州 力ら維新軍が集団で新日本離脱会見を行なった日。誰もが武藤も長州らと行動を共にしたものと思い込んでいたが、その日の夜、武藤は橋本と共に体から石鹸(せっけん)のにおいをぷんぷんさせながらスッキリとした顔で道場に帰還。
なんてことはない、武藤らが行動を共にしたのは長州ではなく先輩のドン荒川であり、ソープランドをおごってもらっていただけだったのだ。やはり大物である。
■ムーンサルトプレスの原点は小学生時代
武藤敬司の必殺技といえば、なんといってもムーンサルトプレスだ。今では多くのレスラーが使う技だが、遠心力を生かした破壊力と弧を描いて跳ぶ美しさは他の追随を許さない。この技が誕生する原点は、武藤の小学生時代にまでさかのぼる。
「俺が小学生の頃、クラスでバック転、バック宙がはやったんだよ。それができるやつがカッコいい、みたいな感じでね。それで俺も一生懸命練習したらできるようになって、大人になってもずっとできた。
それでプロレスラーとしてデビューしたとき、昔はデカい選手ばかりで跳んだりはねたりする人は少なかったから、『バック宙で跳んだら観客が驚くんじゃないかな?』って、あるときふと思ったんだよ。
それでぶっつけ本番でやってみたら、案の定、お客がすごく沸いた。それ以来、『俺の売りになるな』と思って毎日のように使うようになったね」
武藤の中には必殺技に対する確固たる定義が存在する。
「プロレスのお客さんというのは、好きなレスラーが必殺技で勝つところを見に来ている。だから体調が悪かろうが、どんな相手であろうが、確実にかけられるものじゃなきゃいけない。だから俺は抱え上げるような技をフィニッシュに使わないんだよ。すごくデカい相手にはかけられないからね。
その点、ムーンサルトプレスは相手がデカかろうが小さかろうが、自分が跳べさえすればできる。そういう意味でも、必殺技にふさわしいと言えるよね」
今では封印された必殺技であるムーンサルトプレスだが、その美しさはファンの記憶に深く刻まれている。
■熊本旅館破壊事件で前田日明と殴り合い
新人時代から非凡な才能を見せていた武藤は、デビューからわずか1年でアメリカ遠征に出発。「ホワイト・ニンジャ」を名乗りフロリダやアラバマでチャンピオンになるなど大活躍し、約1年後の86年10月、〝スペースローンウルフ〟の異名で華々しく凱旋(がいせん)帰国。デビュー2年でメインイベンターの仲間入りを果たした。
しかし、当時の新日本は前田日明率いるUWF軍団による格闘プロレスが猛威を振るっていた時代。武藤がアメリカから持ち帰った華やかなプロレスはなかなかファンに受け入れられず苦戦が続いたが、そんななかでも武藤の芯の強さが発揮されたのが、有名な「熊本旅館破壊事件」だ。
当時、新日本とUWFの関係があまりにもギスギスしていたために、巡業先の熊本の旅館で無礼講の懇親会を行なったところ、酔っぱらったレスラーたちが暴れ回り、旅館をボロボロに破壊してしまったことで知られるこの事件。
新日マットで我を貫き、さまざまなレスラーと衝突、新日本とUWFの関係悪化の張本人でもあった前田に対し、武藤は「あんたのプロレスはつまらない!」「あんなのはプロレスじゃない」と言い放ち、前田にボコボコに殴られながらも引かなかった。
結局、最後は「ジャンケンで勝ったほうが殴る」という謎のゲームを延々繰り広げて、両者共に顔を大きく腫れ上がらせ、翌日の大会を武藤は欠場した。
これに驚いたのが前日、武藤と対戦した外国人レスラーのコンガ・ザ・バーバリアン。前夜の旅館の一件などまったく知らない彼は、腫れ上がった武藤の顔を見て「昨日、俺そんなにやっちゃった? ゴメン、ゴメン」と謝罪に来たという。心優しきバーバリアン。犯人はキミじゃない。
■ムタが大ブレイク。日米3団体が争奪戦
スペースローンウルフとして日本で苦闘の日々を送った武藤は、88年1月から再び出直しの海外遠征に出発。
プエルトリコで半年ほど実績をつくった後、グレート・ムタとしてアメリカのメジャー団体WCWで大ブレイク。時のNWA世界王者リック・フレアーと何度も対戦し、毎週アメリカのテレビのプライムタイムに登場するようになる。
野茂英雄がMLBで活躍する5年以上前に、武藤敬司はプロレス界の〝メジャーリーガー〟となっていたのだ。
この活躍ぶりが日本でもプロレス雑誌などで報じられると、ファンの間で武藤待望論が沸き上がる。当時、〝冬の時代〟を迎えていた新日本の救世主として期待が高まったのだ。
しかし、武藤を日本に呼び戻そうとしていたのは新日本だけではなかった。90年にプロレス団体(SWS)旗揚げを予定していたメガネスーパーが、水面下で武藤と接触。数千万円の年俸、自分の意のままに団体を運営する権限、そして住宅の提供という破格の条件で武藤の引き抜きを画策したのだ。
さらに、世界最大のプロレス団体WWE(当時WWF)もムタ獲得に興味を持っていたとされる。WCWを退団しフリーエージェントとなった武藤をめぐり、新日本、SWS、WWEの日米3大団体が争奪戦を繰り広げるという、前代未聞の状況になっていたのである。
武藤本人はアメリカに残ってWWEへの入団を希望していたが、当時は日本で全日本、新日本、WWEの3団体合同興行「日米レスリング・サミット」(90年4月13日、東京ドーム)開催が予定されていたタイミングだった。
そのため、新日本の坂口征二社長(当時)に「ドームでビンス・マクマホン(WWE会長)を紹介してやる」と言われた武藤は一時帰国。そこで坂口にメガネスーパーへの断りの連絡を入れられ、さらにビンスは紹介してもらえず、結局、武藤は新日本に残留。そのまま凱旋帰国が決定した。
坂口の策略にハマったような感じだが、これによって武藤、橋本、蝶野正洋の闘魂三銃士が勢ぞろいし、新日本は90年代の黄金時代を迎える。結果オーライだったのである。
■伝説の10・9ドーム
日本プロレス史上最大の団体対抗戦であり、平成プロレス最大のビッグマッチといえば、95年10月9日に東京ドームで行なわれた「新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面対抗戦」だ。
武藤はそのメインイベントで、Uインターの大将・髙田延彦と対戦。ドラゴンスクリューからの足4の字固めで勝利し、名実共に日本プロレス界のトップに立った。一方、対抗戦に敗れたことでUインターの興行人気は凋落(ちょうらく)し、この翌年12月に解散。
そこまで残酷に明暗を分けたのは、フィニッシュが足4の字固めだったことが大きいだろう。これがもし、ムーンサルトプレスからの3カウント勝利だったとしたら、ここまでのインパクトはなかった。「髙田が武藤のプロレスに歩み寄った」というイメージとなり、実力で負けた印象は薄れていたはずだ。
ギブアアップは完全なる屈服を意味する。〝本物の関節技〟を売りにした格闘技スタイルのUWFが、足4の字固めという古典的なプロレス流関節技で敗れたことで、その理念が葬られたのだ。武藤の恐るべきプロレスセンスが、この一戦を伝説にまで高めたのである。
■マット界の危機を救った「プロレスLOVE」
90年代末から2000年代前半にかけて、日本のプロレスは過去最大のピンチを迎えていた。総合格闘技人気に押され、新日本はオーナー・アントニオ猪木による強引な格闘技路線を迷走。
レスラー、ファン、関係者すべてがプロレスに自信を失っていたその時期に、高らかに「プロレスLOVE」を宣言し、格闘技とは違うプロレス本来の素晴らしさをアピールしたのが武藤敬司だった。このとき、武藤が立ち上がらなければ、その後の新日本のV字回復もプロレス人気の再燃もなかっただろう。
そして「プロレスLOVE」を叫び始めた時期に武藤が開発した新必殺技がシャイニング・ウィザード。ダウンした相手が片ヒザをマットについて立ち上がろうとした際、そのヒザを踏み台にして顔面にヒザ蹴りを入れるというオリジナリティあふれるこの技は、武藤の新たな代名詞となった。
シャイニング・ウィザード誕生以降、ヒザ蹴りをフィニッシュにする選手が次々と現れた。中邑真輔のキンシャサも飯伏幸太のカミゴェも丸藤正道の虎王(こおう)も皆、武藤の影響を少なからず受けていることは間違いない。
今もまだプロレス界に多大な影響を与え続けている武藤敬司。来年春のラストマッチまで、さらなる天才伝説を築いてくれるに違いない!
●武藤敬司(むとう・けいじ)
1962年生まれ、山梨県出身。84年、新日本プロレスでデビュー。橋本真也、蝶野正洋との闘魂三銃士で90年代以降のプロレス界を牽引。全日本プロレス、WRESTLE-1を経て2021年、58歳にしてプロレスリング・ノアのGHCヘビー級王座を獲得したプロレスリング・マスター。6月12日、来年の春までに引退することを発表した