「燃える闘魂」逝く...。週刊プレイボーイ誌上にて人生相談のコラム「風車の如く」を連載するなど、週プレが追いかけ続けたスーパースター、アントニオ猪木さんが10月1日に亡くなった。
週プレNEWSでは追悼の意を表して、2016年5月28日に配信した猪木さんのインタビュー記事の<前編>を再配信する。翌2016年5月29日に配信した<後編>と併せてお読みいただきたい。
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1976年6月26日、日本武道館でアントニオ猪木はボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリと闘っていた。
当時のアリはベトナム戦争への徴兵忌避、ジョージ・フォアマンを破った"キンシャサの奇跡"を経てアメリカの国民的英雄となっていた。なぜ、極東のプロレスラーが世界的スーパースターをリングに上げることができたのか? 骨太ノンフィクション作家、田崎健太が迫るーー。
――40年前の話を思い出してほしいのですが、日本レスリング協会会長だった八田一朗さんにモハメド・アリが「俺に挑戦するアジア人はいないのか」と発言し、それを猪木さんが伝え聞いたのがきっかけだったとか?
猪木 (首をかしげて)どうかわかんない。いろんな人が出てきて「あの興行は私がやりました」って言うんだけれど、お金のことも含めてやったのは私だから。アリ戦に関わったことに喜びを感じてくれている人もいるので、それはそれでいいかなと思うんだけど。
元はですね、アリが「ボクシングこそ格闘技の世界一だ」とか「一番強い」とか言っている記事をうちの秘書が持ってきたのが最初です。それで何も考えずに、おう、それだったらやってやろうじゃないかって噛(か)みついた。その時は売名行為とかなんとか叩かれたと思いますけどね。
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1975年6月、ヘビー級チャンピオンだったアリはマレーシア・クアラルンプールでのタイトルマッチ前、日本に立ち寄った。空港で猪木の意を受けた新日本プロレス渉外部の人間がアリに"挑戦状"を手渡している。これを受けて、アメリカの興行会社ナショナル・リンカーン・プロダクションのロナルド・ホームズから猪木側に連絡が入ったという。
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猪木 なんとかホームズという興行師が「本気でやる気があるのか」と言ってきた。それで「本気でやる気だぞ」と返した。俺が単身ロスに行って、ホームズと片言の英語で話した時に出てきた条件はお金。「いくら?」と聞いたら、「1千万ドル」。当時のレートならば30数億円か。元気がよかったから、金でできるならばやっちゃおうじゃねぇかという。
――30数億円ってすごいお金ですよね。
猪木 日本も元気がよかったからね。1兆円ぐらい動かしちゃう不動産屋さんが何人も出てくるちょっと前の時代ですかね。日本が一番元気だった、そういう時代背景もあって、なんとかできるんじゃないかって気になっちゃう(笑)。
■アリ側が試合直前に、もう帰ると言い出した
――アリは72年4月に日本で試合を行なっています。その時、アリを招聘(しょうへい)した興行師の康芳夫(こう・よしお)さんによると、アリ側は契約に細かくて、辞書のような契約書があったとか。猪木さんの時も大変だったんじゃないですか?
猪木 (鷹揚[おうよう]にうなずいて)あー、俺はそこ見ていないですね。計算したことないんで。やるか、やらないかの話。あとはスタッフがいろいろとやったと思うんでね。
――でも当時、猪木さんは新日本プロレスの社長。興行に責任を持つ経営者でした。
猪木 経営者には間違いないんだけれど、夢を追うほうが先だからね(笑)。大事なことはすべて計算して...みたいなことが経営学の基本とされているけど、世の中その通りにいったことがないじゃないですか。一番大事なのは感性というか、直感力。
――ボクシングとの異種格闘技戦ということで、どのようなルールで試合を行なうかが重要でした。
猪木 後から聞いた話ですけれど、試合の前にこっちもいいところを見せなきゃいけないみたいなのがあって、(公開練習で)跳び蹴りをしてみせた。それを見たアリ側が「冗談じゃない、あんなのは闘えないよ」って話になった。もう帰るとか言いだしたみたいでね。
帰られちゃったらそれこそ俺らは笑いものになっちゃうし、どんなことがあってもリングに上げないといけない。逐一、(当時、新日本の営業本部長だった)新間寿(しんま・ひさし)が報告に来ていたけど、「いいから全部(アリ側の要求を)のめ、大丈夫だ」ってね。それが(試合前日)最後だったかな。その後、私は帰って寝たと思いますけど(笑)。
――当時の猪木さんはどんなルールになっても勝てるという自信があったと。
猪木 うぬぼれ、強かったからね(笑)。俺こそ世界一だと思っていた。
■アントニオ猪木 1943年生まれ、神奈川県出身。本名、猪木寛至。ブラジル移住時代、力道山に見いだされ、60年に日本プロレスでデビュー。72年、新日本プロレスを旗揚げし、モハメド・アリ、ウイリエム・ルスカら世界の強豪たちと異種格闘技戦を行なった。89年、スポーツ平和党から参院選に出馬し初当選。2007年、イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)旗揚げ。13年、日本維新の会から参院選に出馬し当選、国政に復帰。現在、日本を元気にする会の最高顧問
■田崎健太 1968年生まれ、京都府出身。ノンフィクション作家。著書に『真説・長州力 1951―2015』(集英社インターナショナル)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。現在、『KAMINOGE』(東邦出版)にて「真説・佐山サトル」を連載中
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アントニオ猪木さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。