長きにわたってサッカー日本代表の10番を背負った、中村俊輔(44歳)が現役を引退した。彼を高校時代から撮り続けてきたカメラマン、ヤナガワゴーッ!氏がその記憶を呼び戻す。
■カメラ越しの姿は基本、守備の人
「なんでそんなにスタミナあるの?」と何度か聞いたことがあるが、答えはいつも「俺は全然スタミナないよ!」だった。普段の受け答えは素っ気ないが、ピッチで見せるプレーは「饒舌(じょうぜつ)」を絵に描いたような男である。
俊輔はひとたびピッチに現れると、その一挙手一投足にレンズを向けずにはいられない選手だった。いや、向け続けてしまうといったほうがいいかもしれない。とにかくボールを追いかけ回すのだ。
ルーズボールを奪い、敵陣に切り込み、目の覚めるような弾丸クロスを上げる。味方がボールを奪われれば、ゴールに突進する相手選手を自陣深くまで追いかけ、結果、仕事をさせない。
時には大鉈(おおなた)を振り下ろすようなスライディングタックルもやってみせる。FKなど華やかなプレーがクローズアップされるのは当然だが、ファインダー越しに見る俊輔は基本、守備の人だといっていいかもしれない。
ただし、追いかけるといっても、相手に腹を立てたラモス瑠偉(るい)の猪突猛進型のそれとはまったく違うものだ。ひと言で言うと頭脳プレー。マークした相手の動きを細かく予測し、さらにその先の展開まで読んで攻撃の芽を摘む。
かつて俊輔と同じく日本代表で10番を背負った名波浩は、自分のプレーをリプレイするときはラストパスだけでなく3手、4手前の自分の動きも見てほしいと言っていた。目線、フェイント、緩急。正確無比のラストパスは、巧妙な駆け引きの末に生まれる。それは守備を含めた俊輔のプレーにも共通するものだ。
そして、散々走り回っていていきなりFKの場面が来ても、呼吸を乱すこともなく冷静にボールのヘソ(バルブ)を探しながら、ゴールネットまでの何通りもの球筋をイメージする。さながらバイアスロンの選手のようだ。
俊輔が初めてメディアに大々的に取り上げられたのは、桐光学園高校3年時(1996-97年)の全国高校選手権。マッシュルームカットの細くてやたらとうまい選手という扱われ方だった。
実際、最近はプロ並みの太い体つきをした高校生が増えたが、当時はまだ中学生の面影を残した細い選手もたくさんいて、その中でも俊輔のきゃしゃなシルエットは群を抜いていた。ボクサーにたとえるなら、ファイタータイプではなくボクサータイプ。ヒラリヒラリとタックルをかわし、面白いようにボールを前線に運び、チームを準優勝に導いた。
その桐光学園のサッカー部では、常に平常心でプレーするため、毎日の練習時に個々の選手の心拍数を記録していたという。攻撃に守備にと90分間走り続ける俊輔のスタミナはそうした地道なトレーニングの積み重ねによって培われたのだろう。時代の先取りである。
かのフィリップ・トルシエ元日本代表監督は、俊輔のプレーには激しさが足りないとして「ベイビー」と呼んでいたが、いったいどこを見ていたのだろうと今でも思う。
俊輔のプレーを最初に見たのは、その高校選手権の少し前、韓国・ソウルで行なわれたアジアユース選手権。まだあどけない顔をした若者は、カメラを向けるとササっと前髪をいじり、ほとんど目元が見えないくらいの状態にしてしまう。シャイなようで、どこかこれで撮ってくれと言わんばかりの強い意志も感じた。
最初はとっつきにくい性格なのかなと思ったが、実はとても人懐っこい男だということがわかり、撮影に行くのが楽しみになっていった。
あるとき、暑いのでハーフパンツにビーサン姿で試合の撮影をしていたら、ベンチにいた俊輔から「ヤナガワさん! 靴買う金もないの!?」とツッコまれたこともある。
■日韓W杯落選後の欧州での飛躍
日本代表メンバーから外れた2002年の日韓W杯、俊輔は横浜国際総合競技場(日産スタジアム)の歓声をすぐ隣の病院で聞いていたという。ケガの治療をしていたのだ。
その後、心機一転、横浜FマリノスからセリエAのレッジーナに移籍。追いかけるようにしてイタリアに行ってみると、俊輔はすっかりチームに溶け込み、街には行きつけの食堂もあり、毎日のように連れていってもらった。
「(今まで戦った中では)ACミランとラツィオがスゴい。特にミラン。ルイ・コスタはトップ下の選手なのに信じられないくらい引いてゲームメークしてる」といった具合でサッカー話は尽きなかった。なかなか勝てないチーム状況にも、「とにかくこっちに来てからはつらい。けど、面白い、かな」と前向き。久々に会った俊輔はお世辞ではなく、たくましくなっていた。
温暖な気候の南イタリアから一転、冷涼なスコットランドはグラスゴーの強豪セルティックに移籍しても俊輔の勢いは止まらず、リーグ2連覇、欧州チャンピオンズリーグ決勝トーナメント進出など、その名を世界に轟(とどろ)かせた。
実は移籍当初、スコットランドリーグの使用球は珍しいマイター製だったため、「今までのアディダスやナイキと全然違う。曲がらない」とプチスランプになっていた時期もある。それでも新たな蹴り方を模索し、すぐに順応してみせた。
プレー写真を見せる機会があると、すかさずキックのフォームを分析して、「やっぱ、足上がってませんね。写真だとよくわかります」「しっかり蹴れてない。また練習し直してゴールします」といった感じになるので、なるべく連続写真で見せるようになった。
年を重ね、故障がちになってからは足腰に負担をかけにくいフォームに改良したいと言っていたのだが、撮っている僕にもよくわからないくらい細かな違いだ。よく見ると、試合前、前半、後半と1試合で3回もスパイクを履き替えていたこともあった。
■リーガデビュー戦、明暗を分けたFK
そんなサッカー小僧が目指したのはラ・リーガ。09年、スペインのエスパニョールに移籍。アウェーでのアスレチック・ビルバオとの開幕戦、俊輔はスタメンで登場した。
開始早々、絶好の位置でFKのチャンスが到来。10番を背負うルイス・ガルシアがボールを置こうとしたら、横から俊輔が「蹴らせてくれ」とそれを奪い取った。チームメイトに緊張が走るのがゴール裏でカメラを構えているこちらにも伝わってくる。
ゴールを決めたらこっちに走ってくるかもと身構えたが、左足から放たれたボールはゴールの上へ。「ふかしちゃったのは(ボールに)当てる(足の)位置がズレたから」と振り返った。
たらればを言い出せば切りがないが、もしあのとき、あのFKが入っていたならば、その後の彼のキャリアは大きく変わっていたのかもしれない。
スペインで認められ、翌年の南アフリカW杯でベスト8以上という目標はどちらも果たせなかった。でも、その悔しさがあったからこそ、今の今まで現役を続けてこられたのではないだろうか。
復帰した横浜Fマリノス、ジュビロ磐田を経て、19年に横浜FCに移籍して以降は、「カズ(三浦知良)さんがいるから弱音は吐けないです」「カズさんにアシストすることに集中します」といったメッセージがたびたび届いた。
そして、引退発表後に送られてきたメッセージは「監督になったらまた撮ってくださいね!」だった。
悲しみが楽しみに変わった。
●中村俊輔(なかむら・しゅんすけ)
1978年生まれ、神奈川県横浜市出身。横浜Mジュニアユース、桐光学園高校を経て97年に横浜M(現・横浜FM)入り。日韓W杯メンバーから外れた2002年にレッジーナ(イタリア)に移籍。その後、セルティック(スコットランド)、エスパニョール(スペイン)を経て、10年に横浜FMに復帰。17年から磐田、19年から横浜FCに所属。日本代表98試合24得点。178㎝、71㎏