『INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国』(12月28日、東京・両国国技館)に参戦する、新日本プロレスの柴田勝頼『INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国』(12月28日、東京・両国国技館)に参戦する、新日本プロレスの柴田勝頼

12月14日、マット界に衝撃が走った。10月に亡くなったアントニオ猪木の"遺言"として開催される『INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国(猪木祭り)』(12月28日、東京・両国国技館)に、新日本プロレスの柴田勝頼(しばた・かつより)が参戦することが発表されたのだ。

2000年代、当時のオーナー、猪木が推進する格闘技路線で混迷を極めていた新日本は、棚橋弘至、オカダ・カズチカら新たなスターの台頭により「V字回復」と呼ばれる復活を果たした。総合格闘技に覇権を奪われていた雌伏のときを経て、新日本が純然たるプロレスの魅力を世間に再認識させたのだ。それは、「脱・猪木」の象徴でもあった。

生前、猪木は「俺は格闘技とプロレスを分けたことはない」と口にしていた。その言葉通り、今回の『猪木祭り』も格闘技とプロレスが融合しており、その世界観は明らかに現在の新日本とは異なる。さらに、新日本は毎年恒例の1.4東京ドームを猪木追悼大会と位置付けている。だから、柴田の『猪木祭り』参戦は驚きだったのだ。

柴田が参戦を決意した理由はなんだったのか? 

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――『猪木祭り』参戦が発表された今の心境は?

柴田 やっと決定というか、やっと表に情報が出せたというか。自分なりのやり方でアントニオ猪木の弔いをさせていただきたいと思います。この追悼大会、『INOKI BOM-BA-YE』に新日本プロレスがノータッチだったら、あまりにも寂しいじゃないですか。柴田が出る。それでいいんじゃないですか。

――そこまで柴田選手にアントニオ猪木への思い入れがあったとは。

柴田 自分は中邑(真輔)ほど(猪木と)接点もないし、棚橋ほどやりとりもないんですけど、それこそお葬式のときですよ。なにかぽっかり穴が空いたような感覚になって。自分の生い立ちから辿っていろいろ考えると、自分のルーツに関して猪木さんは絶対的な人だったんだなって。もし会長がいなかったら、まず新日本プロレスがない。新日本プロレスがないと、ウチの親父とお袋が出会ってないので、自分が生まれてないっていう。

――柴田選手のお父さんは新日本の旗揚げメンバーのひとりで、現役引退後はレフェリーとしても活躍した、柴田勝久さんですね。

柴田 だから生命、存在の話になっちゃうんです。ちっちゃい頃から関わりがあるので、自分の人生はほとんどプロレスでできている。何か新しいことをするとき、変えていくことも必要ですけど、絶対に変えちゃいけないものがあると思っていて。自分は常に、そこと闘っていますね。

俺の中では、新日本プロレス=アントニオ猪木なんです。あの生き方は全部はマネできないけれど、教科書というか、そこをベースとして柴田勝頼というプロレスラーは構築されているんじゃないかと思います。すごい影響を与えられていたんだなって、お葬式のときにすごく思いました。今、自分の拠点はロスなんですけど(※新日本プロレスロサンゼルス道場のコーチ)、会長が亡くなられた後、向こうではずっと会長の試合(映像)を見ていましたね。

――今回の『猪木祭り』は、猪木さんの生前から計画されていました。開催されると聞こえてきたときから、「俺が行くしかない」と考えていたんですか?

柴田 最初はオファーをいただいて「出たいですねー」なんて話をしていたら、亡くなられてしまって。「これは出るしかない」っていう気持ちにはなりましたね。出ない理由がないっていうか。(新日本の)菅林会長、大張社長、木谷オーナーのご理解があっての参戦なので、ホントに感謝してます。新日本プロレスとして出られるのが、ひとつの大きなことです。

――出場選手は皆格闘家なので、柴田さんが全プロレスラーを代表していると言っても過言ではないです。

柴田 ああ、そうですか。いいんじゃないですか。たぶん、みんなピンと来てないんですよ。自分が入門してひと月後に(猪木は)引退されているので、自分が(猪木を近くで体感できた)ギリギリの世代。闘魂の火は消したくないっていう思いは強いです。やっぱり自分の中ではプロレス=新日本プロレス、新日本プロレス=アントニオ猪木。そこは受け継ぎたいですね。

柴田は2005年、新日本を退団。07年から11年までは総合格闘技の道を突き進んだ。12年8月より再び新日本に参戦し、16年3月に再入団。それは、かつてアントニオ猪木が所属していた日本プロレスを飛び出しながら、紆余曲折あって再び日本プロレスにUターン参戦した姿と重なる。

――柴田さんの生き方は非常に猪木的というか、かつてのアントニオ猪木と重なる部分があります。

柴田 だから、俺も迷わずに行っていることがけっこう多くて。「新日本を辞めることが新日本だ」って思って一回辞めていますし。なんだかんだ言って「新日本プロレスらしい」っていわれるプロレスラーは、なぜか新日本を辞めているんですよね。藤波(辰爾)さんも辞めているし、それこそ猪木さんだって......。

――日本プロレスを辞めて、また戻っていますもんね。

柴田 だからもしかしたら、(『猪木祭り』参戦のために)また辞めなきゃいけないのかなって。でも、そのくらいの思いはありましたね。ここでやらないのはない、出ないのはないっていう。

――過去に猪木さんと一緒に練習をされたことはありますか?

柴田 ありますよ。東京ドームです。いつのドームだったかは忘れたんですけど、開場前に石澤(常光=ケンドー・カシン)さんとスパーリングをしていたら、会長が来られて。一緒にスパーリングをやりました。それこそあれですよ、ダブルジョイント。

――関節技が極(き)まりにくいといわれていましたね。

柴田 そのときは自分も未熟でしたけど、「全然極まらねえ!」って思いながら、魔法をかけたように石澤さんもコロンコロン転がされて。すごいなって思いましたね。幻想と言ったらあれですけど、イメージのままのことをやっていて。練習させていただいたのはそれぐらいですかね。あとは道場で自分たちの練習が終わって、夕方になると会長が来るっていう。そのときはただただ緊張で......(苦笑)。

――猪木さんとお父さんの話をされたこととかはなかったんですか?

柴田 あー、ないですないです。自分は何かする際にあいさつに行ってビンタされるっていう、そのくらいですよ。だから、皆さんほどの関わりはないんです。ただ、ひとりの若手として目標にしていた存在という感じですね。

2011年大晦日、DREAMとIGFが共同開催した『元気ですか!! 大晦日!! 2011』(さいたまスーパーアリーナ)で、柴田は桜庭和志と組み、IGFの澤田敦士、鈴川真一とダブルバウトを闘った。それまで総合格闘技の道を突き進んできた柴田が、プロレスに回帰する転機となった試合だった。

――猪木さんはあの試合をすごく高評価して、喜んでいたんです。

柴田 ホントですか! それは今初めて聞きました。あれも年末ですよ、大晦日。なんの試合かわからないまま駆り出されて。でも、あれは新日本プロレスに戻ったきっかけでもあるんですよ。

――というと?

柴田 澤田の首を折ってやろうと思って、顔面にドロップキックをやったら、(着地に失敗して)自分の(左の)手首が折れたっていう(苦笑)。でも、あれがあったから「プロレス、面白いな」って思えて、今がある。だから、ポイントポイントで全部、猪木さんが関わっていたなって思いますね。

――あの試合後、「プロレス、面白いッスねえ!」って柴田さんが興奮しながらすごく喜んでいたのを覚えています。

柴田 いやあ、ホントに可能性をすごく感じて。でも新日本に行って、いろいろ思うように行かず......(苦笑)。でもそれもまた人生だし、それもまたプロレスだと思いますし。だから常に俺は、今回の参戦もそうですし、新日本プロレスと闘っていますね、ひとりで。

――まさに猪木さんの言葉「プロレスは闘いである」ですね。

柴田 みんなと仲良く、右へならえができないですね。

――でも、それがアントニオ猪木の考える、プロレスラーなんだと思いますよ。

柴田 だから、ここにいるんでしょうね。

――では最後に、『猪木祭り』でのトム・ローラー戦の意気込みをお願いします。

柴田 12月28日には、しっかり自分なりの闘魂を見せたいと思います。以上!

●柴田勝頼(しばた・かつより)
1979年生まれ、三重県出身。高校時代はアマチュアレスリングに打ち込み、98年新日本プロレス入門。99年デビュー。2005年に新日本を退団し総合格闘技で活躍。12年に新日本に復帰すると、16年にNEVER無差別級王座獲得、翌年は『NEW JAPAN CUP 2017』優勝。同年4月、オカダ・カズチカとの40分近くにわたる激闘の後に倒れ、救急搬送。急性硬膜下血腫と診断され長期欠場。22年1.4東京ドーム大会で復帰した。『INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国』での対戦相手、トム・ローラーはUFCで活躍し、新日本にも参戦したプロレスラー。試合は、頭部への打撃が禁止された「UWFルール」で行なわれる