大八木弘明(おおやぎ・ひろあき) 1958年7月30日生まれ、福島県出身。高校卒業後に就職し、実業団駅伝などで活躍するも退社。川崎市役所に勤めながら24歳で駒澤大学の2部(夜間部)に入学。箱根駅伝で1年時に5区、3年時に2区で区間賞。大学卒業後、実業団を経て1995年4月から駒澤大の陸上競技部コーチを務め、2002年4月に助監督、2004年4月に監督に就任。チームを強豪校に育てた後、2023年3月末で退任する大八木弘明(おおやぎ・ひろあき) 1958年7月30日生まれ、福島県出身。高校卒業後に就職し、実業団駅伝などで活躍するも退社。川崎市役所に勤めながら24歳で駒澤大学の2部(夜間部)に入学。箱根駅伝で1年時に5区、3年時に2区で区間賞。大学卒業後、実業団を経て1995年4月から駒澤大の陸上競技部コーチを務め、2002年4月に助監督、2004年4月に監督に就任。チームを強豪校に育てた後、2023年3月末で退任する

今年の箱根駅伝で8回目の総合優勝と、チーム初の「大学駅伝3冠」を果たした駒澤大の大八木弘明監督。1995年に母校のコーチになってからの29年間(04年に監督に就任)で、出雲と全日本も含めた学生3大駅伝での優勝は27回。それを締めくくる箱根駅伝後の記者会見場で、3月末での勇退を表明した。後任は、かつての教え子でもある、同大の藤田敦史ヘッドコーチが務める。

後日、大八木監督は自らの指導歴をこう振り返った。

「当初は、『とにかく箱根で優勝できる常連校にしたい』という思いで目いっぱい。同じく優勝を目指す選手たちの期待に応えられるよう、強くなるためのチームづくりをしました。それで5年目で初優勝、その後4連覇も果たせた。

それ以降は『五輪や世界選手権に出る選手を育てたい』と思うようになったんですが、駅伝とトラック競技やマラソンは違うので難しさもあり、一時は箱根も勝てなくなりました。でも近年は、教え子たちが指導を手伝ってくれるようになったこともあって、両方ともうまくいくようになりましたね」

大学卒業後も指導を続けた初めての選手は、在学時にエースとして活躍し、99年に卒業した藤田だった。世界選手権でマラソンを2回走り、00年12月の福岡国際マラソンではシドニー五輪の金メダリストなどを破って優勝。当時の日本記録(2時間06分51秒)を打ち立てた。

藤田は五輪出場を果たせなかったが、11年に中村匠吾(21年の東京五輪でマラソンに出場)や村山謙太(15年の世界選手権で1万mに出場)が入学すると、再び世界を意識するようになった。そうした指導をするうちに、かつて「怖い」とも言われていた大八木監督が、「優しくなった」と噂されるようになる。

変化があったのは、17年の箱根で9位、翌年に12位でシード権を逃すなど低迷した時期。大八木監督は「一方通行の指導だったが、いろんなことを選手自身に考えさせるようにした」と語る。

「厳しく指導していた頃は、選手たちが『監督に言われたことをやれないのが悔しい』という思いで練習を頑張っていました。でも、7年前くらいにはこちらが何を言っても感情が返ってこなくなり、『言っていることを聞いているのかな』と少し思うようになって。

『親子関係のような問いかけも必要なのかな』と、疑問を持たせたり、複数の案を示して〝子供たち〟が選択できるようにしました。それからは選手が自分で考え、自分で責任を取るという感じに変わっていきましたね」

大八木監督も指導に関してさまざまな模索を始めた。それまで重視していた「20㎞を走るスタミナづくり」だけではなく、スピード系の練習も多く取り入れた。すると、1万mなどで自己新を出す選手が続出し、「〝トラックの駒沢〟になり始めている、という感じがしないでもない」と笑顔を見せるまでになった。

「15年に卒業した中村を大学で指導していたので、選手たちがその背中を見ていた影響もあるでしょうね。特に田澤廉(4年)は1、2年時に中村のアルバカーキ(アメリカ)合宿も一緒に行って、練習に取り組む姿勢、練習の前後にどういうことをやっているか、といったことも勉強できたと思います。

さらに、1年時から結果を出している田澤に憧れて、『一緒に練習して強くなりたい』と、鈴木芽吹(3年)や篠原倖太朗(2年)らが入学してきた。それもチームに活気が出た要因だと思います」

今年の箱根の優勝は、〝山〟の5区と6区に起用した1年生ふたりの力も大きかったが、彼らも田澤らを見ることで「この練習をすれば記録が出ると感じたのではないか」という。トラックでいい記録を持っていなくても、強い選手の練習についていけたら、走力だけでなく自信もつく。

「強い選手と練習して強くなった典型が、3年連続で箱根の9区を走った山野 力(4年)。昔の選手のようにコツコツ努力して結果を出したのが、1区区間2位だった円健介(4年)。

特に円は、3年まではまったく日の目を見るような選手ではなかったけれど、この一年は『どうしても駅伝に出たい。ほかの選手より練習しなくてはいけない』と気持ちが変わり、毎月1000㎞近くを走って1万mでもハーフマラソンでも結果を出した。

そういう選手と、元からの高い素質を存分に発揮する選手がうまくマッチして、チームとしていい結果を出した、という感じです」

選手たちに対する姿勢を変えたことについて、大八木監督は「それまで一方通行だった人間が気を使わなければいけなくなったから、それは疲れますよ」と笑う。ただ、富士通のコーチだった藤田が15年に駒澤大のコーチになった時点で、将来の〝引き継ぎ〟を考えていただろう。

そんな中で3年になった田澤から「卒業をしてからも指導を受けたい」と言われ、昨年4月に今年度限りで監督を退くことを決めた。

「29年間で箱根の4連覇があって、五輪や世界選手権にも選手を出して、最後に残っていたのが3冠だった。それを達成して、大学の監督としてやるべきことはすべてやりました。今後はラストチャレンジとして、田澤や『一緒にやりたい』という選手たちと、世界を見つめて頑張っていきたいと思います」

指導の考え方は変えたが、基本の情熱は変わらない。

「いい選手に恵まれて、私自身も指導者として成長させてもらった。後を継いでくれる藤田や、國學院大監督の前田康弘、実業団でコーチをやっている教え子たちも、『オヤジも、あの年で考え方を変えて頑張ったんだから』と、いろいろ勉強しながら成長していってほしいですね」

大八木の「男だろ!」というおなじみのかけ声は、箱根から世界へと舞台を移す。