【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第2回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海(のちダイエー)、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。(第1回はこちら)
■藤井皓哉ら、NPB1軍で活躍する選手を続々輩出
トヨさんは楽天のコーチを退任後、2012年12月に高知ファイティングドッグス(以下、高知FD)の投手コーチに就任。同時に、高知FDのホームである越知町(おちちょう)に移り住んだ。フロント陣は、NPBで20年間も活躍した鉄腕をどう迎え入れたのか。
球団社長の武政重和氏が振り返る。
「吉田監督の第一印象は、丁寧で物静か。実直な人柄を感じました。(当時監督の)定岡智秋(ちあき)さんにご紹介いただいてコーチ就任する際、『こういう田舎町までお越しいただいて......』とお話しすると、『いやいや、僕も田舎もんですから。うちの町(大分県国東市)はここより田舎かもしれません。僕はこういう場所のほうが性に合っています』と笑顔で快諾いただいたことが印象的でした。
年齢でいえば僕のほうが全然年下ですが、こちらが恐縮してしまうくらい気を遣っていただいたり、挨拶や何をするにしても、ひとつひとつのことがきちんとしています」
高知FDは2005年の創設後まもなく、親会社の不在と資金難で存亡の危機に陥った。武政氏は球団を引き継いで再建に乗り出した主力メンバーのひとりだ。07年から7年間社長を務め、11年度は四国4県のチームで初めて黒字化を達成した。14年に退任し、16年からはサッカーの高知ユナイテッドの社長に就き、JFL昇格も達成。20年、高知FDの経営を軌道に乗せるため、高知ユナイテッドと兼任で社長に復帰した。
「球団を引き継いだ当初から、運営目標の3本柱は変わっていません。ひとつめは『NPB選手を輩出する』。ふたつめは『独立リーグで日本一になる』。そして『球団の単年度の黒字化』です。この3つの柱を同時に達成することがベストだと考えています。それらの土台は、やはり地域との交流になってくるのだろうなと。
NPBの球団とは違って、独立リーグの球団は、お金では解決できない課題が多いように思います。試合会場を見ていただいてもわかるように、ボランティアで協力してくださる地域の皆さんがいるからこそ、球団は存続できています。
われわれはそれに対して、どうすれば恩返しできるのか。もっと応援していただけるようになる、もっと愛される存在になるためには、野球に関係ないようなことでも交流を図る、まさにコミュニケーションを取り続けることが重要です。もちろん、練習に支障が出るような場合は別ですけど、基本的には、僕は『地域行事やイベントは全部参加』というスタンスで考えています」
経済規模の小さな地方都市で、独立リーグの球団が経営を安定させることは容易ではない。国内独立リーグ球団では老舗の高知FDも、いつ再び存続の危機に陥るかわからない。そんな経営側の苦労も、現場トップを任されたトヨさんは十分理解して向き合っているという。
「吉田監督はじめコーチ陣も含めて、『地域の皆さんのご協力のおかげで野球ができる』ということはよく理解してくださっています。特に吉田監督は、越知町で暮らし始めて12年。商店街の方々とも一緒に食事をしたり、日々交流しています。純粋に町民のひとりという立場で、野球チームの監督という仕事をしています。
ひょっとして、町民の皆さんが球団や選手にどういう印象を持っているのかを、僕らよりも肌感覚で把握しているかもしれません。『選手の誰々が挨拶をしなかった』とか、ちょっとしたうわさ話もすべて耳に入りますから。
野球以外の地域の活動でも、コスモス祭りで使う花の種まきや、イベントに出店して販売する豚汁に入れる芋の収穫に選手と一緒に参加して交流を深めるなど、吉田監督に協力していただいていることはたくさんあります」
高知FDからはここ数年で3人のNPB投手が誕生し、いずれも1軍チームの主力として活躍している。3人の中で出世頭は藤井皓哉(こうや)だ。2022年シーズン、福岡ソフトバンクの中継ぎで55試合に登板し、5勝1敗22ホールド3セーブ、防御率1.12という圧倒的な成績を残した。
2020年、高等専門学校卒業者として初めてドラフト指名(8位)されて阪神に入団した石井大智(だいち)は3年間(2018~2020)、高知で過ごし力を蓄えた。阪神1年目は1軍定着には至らなかったものの、2年目の昨シーズンは18試合登板ながら防御率0.75という結果を残し、今季はさらなる飛躍が期待されている。
2021年、育成ドラフト1位で楽天に指名された宮森智志(さとし)は2022年シーズン、開幕から2軍で圧倒的な成績を残して支配下登録を勝ち取ると、新人初登板から22試合連続無失点の日本タイ記録を樹立して注目を浴びた。
NPBで結果を残す選手を短期間で3人も輩出した独立リーグのチームは高知FDだけかもしれない。ここまで大きな成果を上げることができた理由のひとつは、投手として20年間というキャリアを誇るトヨさんの指導にあることは間違いないはずだ。
武政氏が言う。
「もちろん、選手本人の努力や資質が大前提としてあるとは思いますが、何か指導方法やアドバイスで感覚が変わったり、刺激を受けて成長できた部分はあるのかな、と思っています。総じて言えることは、3人とも真面目に継続して取り組むことができる性格の持ち主でした。
吉田監督は感情に任せて強い口調で伝えるタイプではなく、理論的にポイントを絞って淡々と話します。そのあたりも関係しているのかな、とも思いますが、理由はわれわれも知りたいところではあります」
■吉田監督は藤井の獲得に乗り気ではなかった
続いて、高知FDの永井理大(みちひろ)統括本部長に話を聞いた。
「プロ野球はテレビで観るだけの世界でしたから、吉田監督はじめ定岡コーチ、勝呂壽統(すぐろ・ひろのり)コーチは、雲の上にいるような方々でした。ただ、吉田監督は3人の中では一番年下ということもあって、私も話しかけやすかったかもしれません。
吉田監督は球団全体のことをすごく考えてくれて、例えば、試合のPRやチケット販売促進のために行政やスポンサー企業に挨拶回りをしたりと、現場としてはやりたくないような仕事をお願いしても、前向きに『いいよ』と快諾してくれます。長く高知で暮らしていることで年々愛着が湧いて、地元における球団の役割に対しても考えが深まっているように思います」
高知FDの現在の運営会社(株式会社高知犬)にはトヨさんと同じ2012年に入社。もともとは東京の企業でSEをしていたが、高知出身の女性との結婚を機にIターン転職した。
広島を戦力外になった藤井皓哉が高知FD入りした経緯について聞いてみた。
「最初は、おかやま山陽高校の堤尚彦監督と多少の繋がりがある中で、『NPBを戦力外になったが、まだ若くて可能性のある選手がいる』という話が来ました。球団の編成としては、NPBで戦力外になった選手を獲得することは、あまり前向きではありませんでした。
ただ、スカウト担当の青木(青木走野/元高知FD選手で、引退後は日本ハムで大谷翔平の広報を務めた。現在は高知FDスカウト兼広報)が、NPBの合同トライアウトに視察に行った報告を聞くと評価が高かった。青木からは『NPBの戦力外の中では3本の指に入るぐらい良かった」と報告を受けました。
ただ、その時点でも、本腰を入れて獲得することは考えていませんでした。その後、当時エースだった石井大智が阪神にドラフト指名されて抜けることになり、来季の核となるような投手がいなくなりました。優勝を狙うためには、石井の抜けた穴を埋められる投手は絶対に必要だと考えるようになり、獲得を本格的に検討するようになりました」
トヨさんに相談すると、最初はあまり乗り気ではない印象を受けたという。「むしろ今チームにいる投手の育成に力を注ぐほうがいいのでは」というのが、監督としての考えだったそうだ。
「でも吉田監督は、『永井は言い出すとなかなか折れない』と思ってくれたようです。『吉田監督も会いに行ってください』と説得すると了承し、一緒におかやま山陽高校まで足を運びました」
当時、藤井には他の独立リーグのチームや台湾プロ野球、社会人チームなど複数から接触があったという。その中から最終的に高知FDを選択した理由は、面談の際の、トヨさんの藤井に対する向き合い方にあったと永井は考えている。
「他のチームからも声がかかる中で、僕は絶対に獲得したいと考えていたので、本人が高知に来たくなるようなことを言ってほしいと思っていました。でも吉田監督は『君のこういうところが良い』という話よりも、『こういうことをしなければNPBには戻れない』とか『高知でやるなら、いろいろな意味で覚悟しなければ難しい』とか、割と厳しいことばかり話しました(笑)。でもそれが逆に、藤井の胸に響いたように思います。
藤井本人の中では、中継ぎ投手という意識が強かった。でも吉田監督は、『絶対先発をやらなければダメだ』と伝えました。私はその時点では、なぜ先発を勧めるのかわかりませんでしたが、『藤井の足りない部分を分析して、NPBに復帰させるためには、先発を任せることで成長できると見ていたのだ。そして、NPB復帰後の将来(先発転向)まで見据えて考えていた』と、少し経ってから理解できました」
トヨさんの話を、藤井はうなずくだけで特に質問することもなく聞いていた。そして最後、トヨさんは藤井にこう話したという。
「将来の安定を求めるならば、社会人チームに入ったほうがいい。でも、本気でNPBに戻りたい気持ちがあるならうちかもしれない。決めるのは自分だよ」と。
藤井は「しっかり考えさせていただきます」と答えた。藤井からの返答は1週間後だった。「高知でお世話になります」というシンプルな、しかし覚悟を感じさせる言葉。トヨさんも「そうか」と短く答えて迎えた。
佐川町の選手寮に空きがなかったため、空き家になっていた越知町にあるトヨさんの自宅隣で暮らすことにした。こうして、藤井のNPB復帰に向けた戦いは始まったのだった。
* * *
2月25日、「越知町杯」として行なわれた、高知FD対愛媛マンダリンパイレーツ。試合は先制を許したものの、3回に5本の長短打で逆転に成功し5対3で逃げ切った。
試合後は会場出口に選手、監督、コーチが並んで観客のお見送り。武政社長が話したように、独立リーグならではの、チームとファンの距離の近さを感じた。その後も選手、監督、コーチ総出で片付けやグラウンドの整備。すべて終わって帰る頃には陽も落ちて、周辺はすっかり暗くなっていた。この夜、越知町内の居酒屋で、藤井皓哉への指導についてトヨさんに話を聞くことになった。
●第3回「独立リーグ高知FDを優勝に導いた吉田豊彦監督の指導法」はこちら。
■吉田豊彦(よしだ・とよひこ)
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた
■会津泰成(あいず・やすなり)
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など