2022年シーズン、四国アイランドリーグplusで13年ぶりの年間総合優勝を果たした(高知ファイティングドッグス提供) 2022年シーズン、四国アイランドリーグplusで13年ぶりの年間総合優勝を果たした(高知ファイティングドッグス提供)

【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第3回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。

■「僕は『忍』の一文字ですよ」

2月25日、高知ファイティングドッグス(以下、高知FD)のホームタウンである、越知町(おちちょう)の小さな居酒屋でトヨさんと待ち合わせた。約束の午後8時、すでにトヨさんは到着していて、玄関に置かれた灰皿の前でタバコをふかしながら、顔馴染みの地元のお客さんと談笑していた。

「この町は本当、おもてなし精神に溢れているというかね。四国の中でもナンバーワン。来たばかりの頃も、みなさん気さくに挨拶してくれた。初めて会って飲んだような人でも、昔からの知り合いのように仲良くしてくださる人たちが多いんですよ。

いつクビになるかわからない世界で仕事をしていますけど、なぜここまで長く高知にいられるのかは、自分ではわかりません。ただ、結果的に12年も越知町で暮らせていることは、人に恵まれたことが大きいですね。この町で知り合った人たちのおかげです」

カウンター席で仲間と談笑していた、おそらくトヨさんと同世代の顔馴染みの女性から、「吉田監督、頑張ってください!」と激励された。近所のコンビニエンスストアで働いているという彼女とは、タバコを買いに行くときに顔を合わせるという。

女性が「監督が頑張ってもいかんけどね」と続けると、トヨさんは「ありがとうございます!」と言いながら頭を下げ、「僕は(選手に)怒らんようにして我慢して『忍』の一文字ですよ。でも、気合を入れるときは入れますから」と笑顔で返した。

昭和30年代は1万3000人以上だった越知町の人口は今や約5000人に減り急速に過疎化が進み、全国の他の過疎地域と同じように越知町も少子高齢化で町の活力が失われ続けることが深刻な問題になっている。

そんな中、野球ファンなら誰でも知っているトヨさんのような元選手が地元に暮らし、藤井皓哉(現・ソフトバンク)や石井大智(現・阪神)、宮森智志(現・楽天)のように、ここで明日を夢見て汗を流した若い選手がNPBで活躍する姿を見られることは希望の光であり、誇りに思えることだった。

2011年シーズン終了後に楽天を退団したトヨさんは、同年12月に高知FDの投手コーチに就任。以来12年間、越知町で暮らす。越知町に暮らす指導者はトヨさんだけで、定岡智秋(ちあき)ヘッドコーチと勝呂壽統(すぐろ・ひろのり)野手コーチはもうひとつのホームタウン、選手寮のある隣の佐川町に暮らしている。

阪神を戦力外になった2001年に前妻と離婚して以来、約10年間、独り身を通してきた。しかし、高知行きをきっかけに、楽天コーチ時代に知り合い、2年間交際していた女性と籍を入れた。婚姻届の提出先は、ここ越知町だった。

「僕よりも嫁のほうがよほど覚悟は必要だったと思います。嫁もこんなに長く高知で暮らすことになるとは考えていなかったんじゃないかな。まあ、迷惑ばかりかけてきました、アホなことばかりやって(笑)。これからも苦労をかけると思いますけど」と軽く照れた表情を浮かべ、2杯目の「濃いめのハイボール」を注文した。

2012年シーズンに高知ファイティングドッグスの投手コーチに就任して以来、チームのホームグラウンドがある越知町で暮らし続ける吉田豊彦監督 2012年シーズンに高知ファイティングドッグスの投手コーチに就任して以来、チームのホームグラウンドがある越知町で暮らし続ける吉田豊彦監督

■なぜ高知で監督をしているのか?

NPBの1軍で主力として活躍する選手を輩出すると同時に、昨シーズンは13年ぶりに四国アイランドリーグplus年間総合優勝をチームにもたらした。日頃どのような考えを持ちながら選手と向き合っているのか。NPB時代とのアプローチ方法の違い、投手コーチから監督就任に至った経緯などを聞いた。

「アドバイスのタイミングや方法を見極めるのは非常に難しい。冗談で言ったつもりが、本人は真に受けてしまったりとか、逆にこちらは真剣に話しているのに、相手は冗談で受け止めていたりもする。監督という立場でそれを判断していくことは、非常に難しいところでもありますね」

NPBコーチ時代と比べて自身が変化した点について聞くと、「自分の考え方を押し付けるのはやめました」と答えた。指導者として疑問に思うようなことがあったとしても、最初は黙って見守ることに徹して、選手自身からアプローチをかけてくるまで待つことを心がけている。

「(アドバイスに対して)最初は張り切って取り組むのに、すぐ手応えを感じられなければ、飽きて継続できない選手もいます。『我慢して続けることで結果に結びつく』ということを理解してほしいのですが、なかなか難しい。

今の若い選手の良くないパターンは、情報社会の中で、例えばYouTubeで『ダルビッシュ(有)はこういう球種を持っている』『大谷(翔平)はこういう投げ方をしている』ということを見つけて、マネをしてみる。それ自体は悪いことではないですが、結局、基礎がないままマネをしているので技術は追いついてこない。

小手先の器用な選手は、マネをしていろいろな球種は覚えられるけど実戦では通用しない。『球種は何を投げるの?』と聞くと『真っすぐ、カーブ、スライダー、カット、シュート、チェンジアップ、フォーク、スプリットです』と答える。

『じゃあ、投げてみて』と投球を見ると、どれも中途半端。でも、自分では投げられているつもりになっている。『実戦でどうなの?』と聞けば『打たれます』と答えるので、『だったら、たくさんの球種を投げるよりも、得意な球種に絞ったほうがいいと思うよ』という話はします。

『才能はあるのに、もったいないな』と思う選手が多い。彼らに対してどう言葉をかければいいのか。意図が伝わるかどうかは、日頃のコミュニケーションが大切なのかな、と思います」

「僕は元来が言葉足らずなので、もっと勉強しなければ」とトヨさん。ただ、ある記事で、15年間、投手として楽天一筋で活躍した青山浩二氏(現解説者)がこんな話をしていた。

《子どものころマネしたのは野茂英雄さんで、プロに入って憧れたのは、ダイエーの斉藤和巳さん。和巳さんとは、何回か食事にも行かせてもらいました。ただ、一番身近で憧れたのは、吉田豊彦さん。あんまりしゃべる方ではないけれど、ブルペンでの過ごし方とかを教えてもらいました。

僕は500試合登板を達成できましたけど、619試合も登板されている。一緒にいて投げていた人では一番登板数が多いし、尊敬できる人です。ずっと走っていた印象で、走れないと終わりだと言ってましたね。僕も今季ファームにいる間、できるだけ走ることを意識しました。もっと投げていきたいし、600試合登板に近づけるように頑張りたいですね》(『週刊ベースボール』2017年10月20日)

青山氏は、トヨさんが引退した2007年シーズンは、プロ入り2年目。開幕から先発ローテーション入りして12試合に登板したが定着までには至らず、2軍降格も味わった。しかし翌08年シーズンは抑えに活路を見出すと才能が開花し、先発ローテーションの谷間を埋める役目も果たした。

以降はトヨさんの現役時代と同じように、中継ぎ、抑え、そして先発までこなす万能型投手として活躍し、20年シーズンを最後に引退した。通算登板試合数は625で、憧れたトヨさんの記録を6試合超えた。言葉よりも背中で教えてくれた先輩に対する感謝。青山氏も言葉ではなく、結果で恩返しした。 

楽天時代の2006年9月5日、通算600試合登板を達成した吉田豊彦氏(写真/産経ビジュアル) 楽天時代の2006年9月5日、通算600試合登板を達成した吉田豊彦氏(写真/産経ビジュアル)

退任した駒田徳広氏(現巨人3軍監督)の後を引き継ぐ形でトヨさんが監督に就任したのは、2020年シーズンからだった。当初は「自分が監督などできるのだろうか」と悩み、すぐ返答することはできなかったという。胃の痛くなる日々をしばらく過ごしたが、駒田前監督からの後押しもあり、最後は「野球人として、これもひとつの貴重な経験になるはず」と腹を括(くく)った。

「オリックスの内野守備、走塁コーチをしていた勝呂さんが4年ぶりに、高知FD入りのきっかけを作ってくださった定岡さんが柳ヶ浦高校の監督を退任して7年ぶりに戻ってきてくださったことも、腹を括ることができた理由のひとつでした。

独立リーグでの経験も豊富なふたりが一緒に指導してくださることは心強く思いました。バッティングは定岡さんで、野手の守備は勝呂さん、僕は主にピッチャーを見るというスタイル。役割分担のバランスと風通しの良さは、四国アイランドリーグ4チームの中でも一番だと思います。『責任は全面的に監督が取ればいい』というのが、僕の考え方。方向性はしっかりと伝えて、あとはお任せしています」

定岡智秋ヘッドコーチ。高知ファイティングドッグスは吉田監督はじめ首脳陣もグランド整備などの仕事も担う 定岡智秋ヘッドコーチ。高知ファイティングドッグスは吉田監督はじめ首脳陣もグランド整備などの仕事も担う

南海時代の大先輩でもあり、ダイエー時代は「コーチと選手」という関係だった定岡氏は13歳上の69歳。NPB入りは同じ年の勝呂コーチも59歳で3つ年上。今時の若い選手とは違い、先輩後輩の上下関係の厳しい時代を過ごしただけに、配慮も多いはずだ。

高知FDの永井統括本部長も、悪い意味ではなく「気を遣われているように思います」と話していた。選手に対してだけではなく、先輩コーチ、フロントも含めた組織全体に対するコミュニケーション能力の高さが、監督就任以降、成果の出ている理由のひとつかもしれない。

「ワンマン監督にはなりたくないので、最終的には自分が責任を取る立場として結論を出さなければいけませんが、お伺いの立場を尊重することは大切にしています。コーチ陣に監督としての理想は伝えて話し合いはしますが、定岡さんも勝呂さんも、打撃や野手の守備という専門分野に関しては豊富な指導経験があるので、安心してお任せできます」

勝呂壽統・野手コーチ 勝呂壽統・野手コーチ

■楽天コーチは「クビですよ、当然」

「監督という仕事は楽しいですか?」と聞いてみた。

「楽しいというか、わからないことだらけです。指導に即効性はないので、根気が必要。やる気を起こさせる言葉がけはとても難しい。あらためて、自分に足りない部分を知ることができているように思います。NPB時代はあまり興味を持てなかった、例えば野手のことであったり、打つことであったり、そういう部分も勉強になっています」

16年ぶりに再会したトヨさんは、地域を愛し、愛され、指導者として結果を出すなど、独立リーグという新たな環境でも充実した野球人生を過ごしていた。だからこそ、ある疑問が大きく膨らんできた。

「なぜ、楽天2軍コーチを辞めることになったのか」ということだ。引退と同時に2軍コーチに就任したときは、「楽天創成期を支えた功労者として、まずは2軍で指導者としての経験を積み、いずれは1軍のコーチとして貢献する立場になる」と筆者は思っていた。

質問すると、トヨさんはハイボールを一口飲んで、笑い飛ばしながら短く答えた。「クビですよ、当然」と。

楽天で4シーズン過ごしたコーチ時代について聞いた。驚くことに、現場仕事は最初の1年間のみで、2年目以降は「育成コーチ」という肩書きになり、試合でベンチ入りすることはなかったと教えてくれた。

なぜトヨさんは、1軍コーチを経験しないなま楽天を退団することになったのか。それは、今もファンの間で語り草になっている、2007年10月4日、対千葉ロッテ戦後の引退セレモニー。大粒の雨が降る中、第一声で「まだまだ投げたい!!」と叫んだときの心境が、その後の楽天コーチ時代の後悔に大きく関係していることを知った。

●第4回「独立リーグ高知FD監督・吉田豊彦が明かす『楽天コーチ時代の後悔』」はこちら

■吉田豊彦(よしだ・とよひこ) 
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など