【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第4回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。
■戦力外通告の予感はした
プロ野球ファンに「吉田豊彦といえば?」と質問すれば、多くの人が、「大粒の雨の降る中で『まだまだ投げたい!!』と叫んだ引退試合(2007年10月4日/対千葉ロッテ戦)」と答えるかもしれない。
南海・ダイエー時代は3度の2ケタ勝利。阪神、近鉄時代は貴重な中継ぎとして奮闘。楽天の誕生元年はチーム最多の50試合に登板し、翌シーズンは「5年連続40試合以上」の登板記録も達成した。
寡黙で職人肌の鉄腕は、どんな役割や状況でも黙々と投げ続けた。そんな男が引き際の場で初めて、叫ぶような大きな声で自分の胸に秘めた思いを打ち明けた。
「まだまだ投げたい!! それだけ言い残して、私は現役を引退します」と。
杜の都仙台、フルキャスト宮城のスタンドを埋めた観客の中には、大粒の雨が降る中で涙を流す人も。楽天、ロッテ、双方のファンから惜しみない拍手が贈られ、NPBの歴史に残るような感動的な引退セレモニーになった。
スピーチは事前に用意したものではなく、マイクの前に立ち、スタンドを埋めた大勢のファンの姿が目に入った瞬間、自然と出た言葉だった。引退の経緯をトヨさんが振り返る。
「戦力外通告されたとき、『年俸は半分でも構わないので、あと1年やらせてください』とお願いしました。ケガも回復してコンディションも良くなったので、『まだできる』という思いが強かった。でも球団からは、『それはできない。これからは後進の指導をしてほしい』と言われました」
2007年シーズン、楽天は新規参入元年にドラフト2位で入団した渡邊恒樹が台頭し、中継ぎとしてチーム最多の65試合に登板した。他にも有銘兼久(52試合)、小倉 恒(39試合)、山村宏樹(34試合)と中継ぎ投手は揃い、抑えも福盛和男(34試合)に加え、小山伸一郎が自己最多16セーブ、防御率0.58という好成績を残した。
「あと3つ負ければ100敗」という初年度からチームを支えた功労者のトヨさんだったが、41歳という年齢もあり、若返りを図るチームの構想から外されたのだ。トヨさん自身も、夏場に1軍に上がれなかった時点で、技術はもちろん、体力も気力も衰えておらず、「まだまだできる」と思っていたと同時に、戦力外通告を受ける予感はしていたそうだ。
「シーズンを通して圧倒的な結果を出していれば良かっただけの話です。要は、自分で自分の首を締めていた。自分が結果を残せずちまちましている間に、渡邊恒樹とかにチャンスが回った。致命的だったのは、東京ドームの巨人戦でヒットを打たれ、四球を出した後、小笠原(道大)に満塁ホームランを打たれて交代した。そのときは、『これで終わったな』と思いました。
潮時といえば潮時でした。未練など残さず、気持ちを切り替えて格好良くやめれば良かったのかもしれません。でも当時は、やり残した気持ちのほうが大きかった。それが失敗だったと思います」
コーチ就任の打診に返答するまでに与えられた時間は1週間だった。「コーチ」という肩書きに憧れはない。それ以前に、指導者に向いているとも思っていなかった。周囲に相談すると、誰もが「いつかは引退するのだから、将来を見据えて受けるべき」と答えた。結局、自分自身では答えを出せないまま、アドバイスに従う形で現役引退とコーチ就任を受け入れた。
「引退試合の3日後にはコーチとしてフェニックスリーグに参加しなければいけなかった。これからのことをゆっくり考える余裕もなく、どんどん流されていきました。何をすれば良いのかわからない。アドバイスをもらっても活かせるだけの技量もない。現役を引退した後、仕切り直すために一度、野球自体から離れる人もいますが、その気持ちはよくわかります」
コーチ初仕事になった宮崎フェニックスリーグ。トヨさんには忘れられない出来事があった。
■認められなかった実践を通した指導
「四国アイランドリーグ選抜と試合をしたとき、一場(靖弘)が二番手で投げてボコボコにやられました。それを見て情けない気持ちになり、腹が立って怒鳴りつけました。打たれたこと自体どうこうよりも、闘争心が全く感じられなかったからです。逆に四国アイランドリーグの選手たちのほうが、『NPBがなんや! ガツンと行ったれ!』という気迫溢れる姿で束になって向かってきました」
楽天誕生元年、ドラフト1位で入団した一場は、いわゆる栄養費名目の金銭授受問題などがあったものの、大学時代の圧倒的な実績もあり、即戦力として期待されていた。しかし、入団当初は岩隈久志と並ぶ先発の柱、エース候補と期待された才能は開花しないまま、4年目を迎えていた。その前年には、甲子園を沸かせた田中将大が高卒新人としては松坂大輔以来の2桁勝利をあげ、その後のストーリーを予感させていた。一場にとって2008年はまさに正念場だった。
「同じ現役投手の先輩という立場ならば、感情的に叱り飛ばして良かったのかもしれませんが、コーチとしては良くなかった。フェニックスリーグから戻ってきてからもすぐに新人合同自主トレがあったりと、落ち着いて自分自身と向き合う余裕もないまま、時間ばかり過ぎていきました。立場的にいろいろアドバイスしなければいけないと思い過ぎて話したことが、逆にマイナスに働いてしまったりもしました。もう後悔の連続です」
就任当初は現役時代と同じように先輩と後輩という関係で向き合えばいいと考えていたが、「コーチ」という肩書きを背負うと、それまで普通に付き合っていた選手とも距離を感じるようになったという。
翌シーズンからは育成コーチに配置転換された。試合でベンチに入ることはなく、練習場で若手育成を専門にする立場になった。
身体は現役選手と同じように動いた。実際に投げて技術を伝えることもできた。技術も体力も、現役の感覚はまだまだ残っている。その間は自分にしかできないやり方、実践を通して指導しようと思ったという。
「でも、2軍監督だった松井(優典)さんからは、『それはダメだ。自分がプレーするのではなくて、ちゃんと見て指導してくれ』と言われました。上(フロント)の方針だったかもしれません。『実際にプレーを見せて教えることも、言葉で教えることも一緒ではないか。どうしてダメなのか』と残念でしょうがなかった」
楽天コーチとして過ごした4年間は、自分の考えや、やりたい方法があっても、指示された通りにしか動けなかったという。チームからは、「選手が迷わないようにするため」と言われた。それは、機械工場で指定された工程に沿って流れ作業をするかのような感覚に近かったのかもしれない。
トヨさんは、「正直言えば、試合でベンチに入れない立場になった時点で辞めたかった」とも話した。ただ、どれだけ嫌なことがあったとしても、任された仕事を自分から放棄することはできない性分だった。そうして月日は過ぎ、星野仙一政権1年目の2011年シーズン終了後、今度はコーチとして戦力外通告された。
「もちろん勉強になったこともたくさんありましたが、後悔していることのほうが多い。上から何を言われてもコーチとして自分の考えを貫いていれば、違った方向性を見出せていたかもしれませんが......。『楽天コーチ時代、自分はこうすれば良かった』という思いを提げて、ここ(高知)に来たつもりではいるんですよね」
高知で暮らし始めて12回目のシーズンがまもなく始まろうとしていた。今シーズンはチーム史上初となる年間総合優勝の連覇をかけて戦う。
「ここで野球の仕事ができることは、心から感謝しています。(指導方法について)今は任せていただける部分が多いので、やりがいを持って取り組んでいます」
午後11時を過ぎ、賑わっていたカウンター席は誰もいなくなった。そろそろ、店の暖簾も下がる時間のようだ。インタビューの続きは明日行なうことにした。
「まだまだ学ぶことは多い。もっともっと野球を追求したい。『アドバイスしたことを続けてくれているかな』と選手に期待しても、続けている様子は伺えない。でも他の人から『自主練習で続けていますよ』という話を聞いて、『成長を見守らなければ』と気持ちを新たにしたり......。毎日そんなことの繰り返しです。自分のアドバイスがハマって選手が成長したときは、心の中で笑っていますよ、『ヨッシャ!』って」
この取材の翌日、2月26日、ソフトバンクがWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の壮行試合で侍ジャパンと対戦することになっていた。
ソフトバンクの予告先発は、藤井皓哉(こうや)。
一昨年はトヨさんの自宅の隣に暮らし、NPB復帰を目指して指導を受けていた教え子だった。
●第5回「藤井皓哉に吉田豊彦が授けたアドバイスとは?」はこちら
■吉田豊彦(よしだ・とよひこ)
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた
■会津泰成(あいず・やすなり)
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など