プロ1年目、南海ホークス時代の吉田豊彦氏(写真/共同通信社) プロ1年目、南海ホークス時代の吉田豊彦氏(写真/共同通信社)

【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第6回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。

■ボールを隠すと、杉浦監督はニヤッと......

トヨさんのプロ野球人生は、1987年のドラフトで南海ホークスに1位指名されたところから始まった。2位以下の同期は若井基安、柳田聖人、大道典良、吉永幸一郎、村田勝喜。いずれの選手もその後1軍に定着して活躍するなど、「大」の付くような当たり年だった。

関西の老舗球団だった南海ホークスは翌年、親会社(南海電鉄)の経営不振によりダイエーに譲渡。福岡にホームを移し、球団名は「福岡ダイエーホークス」に変わった。そんなホークスの歴史上、転換期だった当時の監督は、現役時代にパ・リーグ初の投手5冠を達成し、通算187勝を上げた伝説のアンダースロー投手、杉浦忠氏だった。トヨさんが振り返る。

「杉浦さんは物腰の柔らかい人だった。紳士的で、選手にかける言葉も、『良い球投げるなあ』という感じですごく優しい。新人で初めて登板したときでした。マウンドに上がり、歩幅を目で見た感覚だけで軽く目印をつけて投げたとき、そこにピタッと合った様子を見て、杉浦さんが『ほーっ、たいしたもんやな』と感心したように言ってくださったことを覚えています。

ピッチャー交代のときも、監督の杉浦さんが(マウンドに)来ていました。僕は交代したくないので、ボールを後ろに隠したことがありました。そのとき、ニヤッと柔和な笑みを浮かべた表情が印象的でした。そういう穏やかな人でしたが、試合では秘めた闘志をすごく感じました。『さすが日本シリーズで4連投4連勝した人だな』と思いました」

南海は当時、「個性派集団」と呼ばれていた。その中でも今年1月に亡くなった門田博光氏の存在はひときわ異彩を放っていたそうだ。

「(門田さんは)いつも近寄り難い雰囲気を醸し出していました。淡々と自分のやるべきことをする集中力がすごい。打撃練習ではいつもフルスイング。40歳にして大阪球場の一番深い右中間に球をガンガン放り込んでいました。僕が登板した試合でも、よくホームランを打って助けてくださいました。

ファンは、同じ関西でも数は阪神のほうが断然多かったですけど、コテコテで情熱的な人は南海のほうが多かった。電車で帰る選手がいれば駅まで追いかけてきて話しかけるなど、家族みたいな感じでした。

南海ファンの野次は愛情でした。ダイエーが買収して福岡に移転することが決まった10月の最終戦は、大阪球場にいまだかつてないほどお客さんが入りました。『もっと最初から来てくれたら良かったのに』とは思いましたけどね(笑)」

1988年10月15日、南海ホークスの大阪球場でのホーム最終戦。手前は杉浦忠監督(写真/産経ビジュアル) 1988年10月15日、南海ホークスの大阪球場でのホーム最終戦。手前は杉浦忠監督(写真/産経ビジュアル)

■「球界の寝業師」が仕掛けた衝撃トレード

1990年、ダイエーの監督は「ミスター・タイガース」こと田淵幸一氏が就任した。現役時代は王貞治氏の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を放つなど「ホームラン・アーティスト」とも呼ばれた。通算本塁打は474本で、プロ入りから引退までの16年間すべて2桁本塁打の偉業も達成した。

「田淵さんは、現役時代はスター選手でしたが、気配りの素晴らしい方でした。選手の誕生日には、必ず部屋にワインとケーキを差し入れしてくださいました。ただ、自分自身は当時、肩を壊してしまい貢献することはできませんでした。

入団2年目に2桁勝利して、そのままの調子で乗っていきたかったのですが......。(3年目は)5勝までは抜群に調子が良かったのに、一気に肩がぶっ飛ぶような痛みが出ました。無理をしなければ良かったのですが、完治する前に投げ始めてしまった。

投げても打たれて、それからは全然勝てなくなった。でも、当時は必死でした。(首脳陣からは)『代わりはなんぼでもいるからな』と言われていましたので。今なら『完璧に治るまでは、投球はやめておこう』とアドバイスされると思いますが、当時はそういう時代でした」

1993年からは、常勝西武の礎を築いた根本陸夫氏が就任した。「球界の寝業師」と呼ばれた根本氏は、監督と並行してフロントとしても辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」と呼ばれた。

「根本さんからは『みんな良いものを持っているが、もうひとつ殻を破るだけの強さが足りない。自分の力量だけでしか野球をやれてない』と、組織で戦うことの重要性を問われました。『殻を破る力を発揮できたら必ず良くなる』という話はよくされました。僕はいつも『吉田は甘いな』と言われていました。でも、プロで初めて開幕投手に指名してくださった監督は根本さんでした」

93年オフ、根本氏は球界全体に衝撃が走る大型トレードを成立させた。佐々木誠、村田勝喜、橋本武広という主力選手を放出し、古巣の西武から秋山幸二、渡辺智男、内山智之を獲得したのだ。根本氏は、93年シーズンは最下位に沈んだチームの巻き返しを図るためには、九州出身のスター選手、秋山の獲得は必須と考えたのだ。とはいえ、92年シーズンの首位打者の佐々木と、3年連続2桁勝利を挙げた若きエース村田の放出は、特に南海時代からのホークスファンから反発を招くなど物議を醸した。

「(3対3のトレードについては)『マジか!?』と思いました。特に秋山さんは、常勝西武の顔、スーパースターでしたから。でも内心、『これでもう秋山さんと対戦することはないな』とホッとした部分もありました(笑)。南海時代から秋山さんが来る前までは、確かに、(ダイエーは)野球に対する取り組み方は緩かった。勝利にどれだけ執着するか。そういう高い意識でやっている選手がいたかどうか、それは僕も含めてですけど......。

本当に強いチームは、突出した活躍をする選手がいなくても優勝できる。投手で言えば、大事な対戦カードの初戦を取れる投手。打者で言えば、打率は低いけれど、ここ一番の重要な場面で打てる打者とか。あとは、ここ一番で盗塁ができたり、守備でもここ一番で本塁を刺すことができたり、そういうことですよね。

チーム改革が始まった意識は当然ありました。他球団でピークを過ぎた一流選手ではなく、根本さんの頃からは、バリバリの第一線級で活躍できる選手がトレードやFAで入ってきたわけですから。もともといた選手の意識も変わりますよね。

自分自身も『なんとかついていかなければ』『何か盗めるものはないか』と思いながらやっていました。ただ、考え方や行動はすぐ変えられるかもしれませんが、肉体的な変化、成長はすぐに結果は出ない。そういう状況の中で力不足を感じて、少し焦りを感じていたことは、よく覚えています」

根本氏は4位になった94年シーズン限りで監督を退任し、球団社長に就任することになった。同年10月には、翌シーズンから王貞治氏が新監督に就任することが決定。さらに、フリーエージェントで工藤公康、石毛宏典という、秋山に続く西武のスター選手の入団も決まった。これらもすべてホークスを常勝軍団にするために仕掛けた「根本マジック」だった。

同シーズン、トヨさんはチーム最多の29試合に先発し、キャリアハイの12勝(防御率3.78)を挙げた。ちなみに同年の最多勝は伊良部秀輝の15勝。それに続く2位タイの記録だった。

憧れの存在だった王貞治氏の下で野球ができることはこの上ない喜びだった。王新監督を支える左のエースとしての活躍を期待されたトヨさん。まさか翌年から苦闘の日々が始まるとは、この時点では予想できなかったに違いない。

●この続き、第7回「王ダイエーを襲った『生卵事件』の真相」はこちら

■吉田豊彦(よしだ・とよひこ) 
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など