近鉄時代の2004年、500試合登板、1500投球回数、1000奪三振と、節目の記録を次々と達成した吉田豊彦(写真/産経ビジュアル) 近鉄時代の2004年、500試合登板、1500投球回数、1000奪三振と、節目の記録を次々と達成した吉田豊彦(写真/産経ビジュアル)

【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第11回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。

中継ぎ投手のイニング跨ぎは当たり前の時代

2023年2月27日、トヨさんへの密着取材もいよいよ最終日を迎えた。韓国プロ野球リーグ(KBOリーグ)に所属するハンファ・イーグルス2軍との練習試合が終わった夕方6時、高知市内の居酒屋に移動してインタビューすることにした。

中継ぎで第二の全盛期を掴んだ近鉄時代。5年ぶりに野村克也監督の下でプレーすることになった楽天時代や引退試合の裏話。そして、独立リーグ、高知ファイティングドッグスの監督として成し遂げたい目標、野球人としてのこれからについてなどをうかがった。

阪神最終年の2001年シーズン、1軍登板はプロ入りしてから最低の8試合で、勝ち星も初めてひとつも付かなかったトヨさんは、テストを経て大阪近鉄バファローズに入団した。当時の監督は梨田昌孝氏。現役時代は強肩好打のキャッチャーとして活躍し、リーグ優勝2回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞を4回受賞。監督としても通算805勝、リーグ優勝2回という名将だ。

「梨田さんは物腰が柔らかくて、いつも明るく選手に話しかけてくれる気遣いのできる人。だからとてもやりやすかった」とトヨさん。球団からは「戦力として期待している」と言われたものの、36歳という年齢や阪神で結果を残せなかったことを考えれば、言い方は悪いが「実績あるベテラン選手と競わせることで、伸び盛りの若手の成長を促す」という思惑もあったかもしれない。

当時、近鉄は高卒3年目のサウスポー、高木康成に大きな期待を寄せていた。トヨさんは、20歳になったばかりの高木が成長するための踏み台だった。しかし、中継ぎの定位置を掴んだのは、阪神に戦力外通告されたプロ15年目、36歳のトヨさんだった。

「当時はいつも高木と天秤にかけられていました。開幕当初は高木が1軍メンバーに入って、自分は外れた。でも4月のソフトバンク戦で『1アウト1、3塁、バッター大道』という場面で登板して、ファーストゴロのダブルプレーに抑えた。そこから梨田さんにも信用してもらえるようになったのかな」

阪神時代は1軍で結果を残せず、最後はファーム暮らしが長く続いた。しかし、時間をかけて地道に取り組んだウェイトトレーニングと新たなメンテナンス法の成果で球にも勢いが戻り、1軍レベルで通用する本来の投球が蘇った。野村監督から学んだ「野村スコープ」(ストライクゾーンとその外側を合わせた25分割のコース)に球を自在に出し入れし、心技体の揃った円熟味のある投球を披露するようになった。

2020年シーズンより高知ファイティングドッグス監督。昨シーズンはチームに13年ぶりの年間総合優勝をもたらし、リーグから「年間最優秀監督」として表彰された 2020年シーズンより高知ファイティングドッグス監督。昨シーズンはチームに13年ぶりの年間総合優勝をもたらし、リーグから「年間最優秀監督」として表彰された

近鉄で復活できた理由は他にもうひとつあった。「中継ぎ」として明確な役割を与えられたことも大きかったそうだ。

「抑えの大塚(晶文)に回すまでの7回、8回あたりを、岡本(晃)や三澤(興一)と、状況によって明確に役割分担して登板した。『左バッターのときは自分。右バッターのときは岡本』というように役割がハッキリ決まっていたので集中して投げることができました。

阪神時代は同じ中継ぎでもロングリリーバーとして起用されることが多く、自分の中ではなかなか馴染めなかった。『1イニング良かったら、もう1イニング』といった具合にマウンドに上がり、打たれて点を取られるまで投げ続けることも多かった。

もちろん打たれると思ってマウンドには立っていません。でも、『抑えた、抑えた、3イニング目に点を取られた』となると、結局その前の『抑えた、抑えた』の記憶が消えてしまう。得点された次の回も投げさせてもらえるならまだいい。でも得点された直後にマウンドを降りると悪いイメージしか残らない。そういうことが続くと、失敗した気持ちを引きずってしまい、次の試合に向けた準備も難しくなる。

当時は中継ぎ投手のイニング跨ぎは当たり前の時代で、今のように例えば『3回肩を作り直したらその日はもう投げない』とか、『3試合連投したら登板間隔は休養日として1日空ける』ということもない。そういう部分では、今の中継ぎ投手は昔ほど酷使されなくなったし大事に起用してもらえるようになった。中継ぎ投手も意気に感じて投げられるような環境になったと思います」

近鉄初年度は42試合に登板し防御率2.10。若手の踏み台にされかけたトヨさんは見事に復活を遂げた。チームは2年連続の優勝は逃したものの2位という成績で、トヨさんにとっては自身初のAクラス入りだった。

翌年は37歳にして登板数をキャリアハイの60まで伸ばし、オールスター出場(通算3度目)も果たした。トヨさんにとって当時は、「先発投手」として活躍した20代の南海・ダイエー時代とは違ったスタイルの、「中継ぎ投手」として掴んだ第二の全盛期だった。

トヨさんの中に、「このまま近鉄で有終の美を飾れたら」、「プロになって一度も経験していないリーグ優勝、そして日本一の夢も叶うかもしれない」という思いもあったに違いない。しかし入団3年目の2004年シーズン、日本中を騒がせた「プロ野球再編問題」が巻き起こり、近鉄は55年の歴史に幕を閉じて消滅することになるのだった。

●この続き、第12回「『引退試合はヒゲを生やして上がります』吉田豊彦の直訴に野村克也監督は...」はこちら

■吉田豊彦(よしだ・とよひこ) 
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など