ガンバ大阪ジュニアユース監督として堂安律を指導した鴨川幸司氏ガンバ大阪ジュニアユース監督として堂安律を指導した鴨川幸司氏
サッカー日本代表を背負う堂安律はどのように10代を過ごしたのか? 初書籍『俺しかいない』の3刷重版も決定した堂安律が世界に羽ばたく前、ガンバ大阪で成長した日々を指導者や先輩の証言で振り返る。今回はガンバ大阪ジュニアユース監督として堂安律を指導した鴨川幸司氏に話を伺った(全4回の第3回)。

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■「この先、高いレベルでは通用しなくなるかもな」

鴨川幸司が初めて堂安律のプレーを見たのは、彼が小学6年生の時に選出されたナショナルトレセンだ。ガンバ大阪ジュニアユースチームの監督をしていた鴨川はクラブのスカウト担当に「尼崎出身のすごい選手がいる。一度見てくれないか」と言われ、練習に足を運んだ。

「以前から同世代ではトップ・オブ・ザ・トップのグループに入る選手だと聞いていました。第一印象は基本技術がしっかりしていて、ドリブルに長けた選手だということ。ただ、この先、スピードが伸びなければドリブルが巧いだけの選手で終わるというか、高いレベルでは通用しなくなるかもな、と思っていました」

当時、堂安にはガンバ大阪ジュニアユースを始め、セレッソ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスやJFAアカデミーが声を掛けており、鴨川も獲得には乗り気だったが、本人の気持ちを尊重し、ガンバ入りを強く推すことはなかったという。

「いろんな中学生年代の選手を見てきて、僕なりにその年代で親元を離れるメリット、デメリットは感じていたし、当時の関西は全国的に見てもレベルが高かったですから。

律には『僕が見る限り今の関西Jクラブはどこもレベルが高いし、それぞれに良さがある。いつかは親元を離れなければいけない日が来るんやから、どうせなら関西のチームで迷ったらどうや? 体が大きくなる大事な時期に、親元なら食事面を含めてしっかりサポートしてもらえるぞ』とだけ伝えました。

本人も『環境はどこも大差ない気がする』と話していたので、自分がここでサッカーをしたいと思ったチームを選ぶのが正解だ、と言って別れました」

結果、堂安は、鴨川の言葉を聞いた翌日に答えを出した。

「最初に声をかけてくれたのはセレッソでしたが、その場で断りました。実は4年生でセレッソジュニアのセレクションを受けて落とされた時に『この先めちゃめちゃうまくなって声を掛けられても絶対に断る』と決めていたからです。両親は慌てていましたけど、自分で決めたことは貫きたかったので揺らがなかったです。

で、最終的にはいろんなことを判断してガンバと名古屋に絞ったんですけど、気持ちは名古屋に傾いていたんです。家族と相談し、もし名古屋に行くならオカンと二人暮らしをすることになっていました。

ただ、鴨川さんの話を聞いてスッと腑に落ちたのと、オカンに聞いたところでは、ガンバの練習を見学に行った翌日、『ガンバのユニフォームを着ている夢を見た』と言って決めたそうです。僕は全く覚えていないけど」(堂安)

■「お前と家長昭博とは違うぞ」

晴れて、ガンバジュニアユースの一員になった堂安だったが、冒頭に書いた鴨川の心配が的中し、1年生の夏頃から徐々に持ち味のドリブルが通用しなくなり、簡単にボールを失うシーンが増えていく。堂安いわく、「当時、ダブルボランチを組んでいて一番うまいと思っていた杉山天真(たかまさ)くんへのライバル心もあった」そうだが、そうしたエゴもマイナスに働きかけていた。

「半年が経ったくらいから左利きのテクニシャンにありがちな、ボールを持ちすぎるシーンが増えてきたというか。律も、ちょうど思春期に入っていく時期も重なって、周りがいい動きをしているのにパスを出さないとか『自分で仕掛けたい』という欲が目立ち始めてきた。もちろん、それで抜け切れるならいいんですが、律の場合は大してスピードもなかったため、簡単には抜けなくなり......。このままじゃ上にはいけなくなるなと思いながら見ていました」

そこで鴨川はアプローチを変え、堂安をサイドハーフで起用するようになる。堂安自身はこの時期、3年生チームでプレーした経験をもとに「体の強さには自信があったので、(井手口)陽介くん(現・アビスパ福岡)みたいにフィジカルの強さを発揮しながら、ワンタッチ、ツータッチでさばくようなプレーを目指せばいいのかも」と考えていたそうだが、鴨川は、彼が自信を持つドリブルをより活かすことを考えた。

「口酸っぱく伝えたのは、『お前と家長昭博(現・川崎フロンターレ)とは違うぞ』ということでした。家長は体も強く、天才的な技術と瞬間的なスピードを備えていましたが、律は体こそ強かったものの秀でた技術やスピードはなかったので、とにかくハードワークをいとわずにやれ、と。この先も、ハードワークの上に武器を活かせるようにならないと生き残れないぞ、と繰り返し伝えました」

さらに、同年10月には堂安を3年生チームに引き上げる。ちょうど井手口の飛び級でのユースチーム昇格が決まったことや、堂安の変化を感じ取り、よりレベルの高い場所に入れれば成長をうながせると判断したからだ。結果的に12月の高円宮杯JFA全日本U-15サッカー選手権大会で骨折したことで離脱を余儀なくされたが、2年生になる直前の春休みに行ったスペイン遠征では完全に輝きを取り戻した。

「律の2歳上が、井手口や鎌田大地(現・フランクフルト)の世代で、1歳上には市丸瑞希、初瀬亮(現・ヴィッセル神戸)、高木彰人(現・ザスパクサツ群馬)ら、のちに三冠を実現した世代がいましたから。その中に入るとできないことも多かったんですけど、持ち前の反骨心で食らいついているうちに、どんどん新しいプレーを吸収していきました。こちらが厳しいことを言っても、目を赤くしながら歯を食いしばって聞き入れていたような表情も印象に残っています。そういえば、2年生になる直前のスペイン遠征では、左サイドバックの初瀬の調子がいまひとつ良くなくて、律をそこに据えたんですが、頭の良さもあって、とにかくポジションへの適応が早かったのも印象的です」

加えて、先輩選手に遠慮することなく自分のプレーを貫いていたのも、堂安の良さだったと鴨川は言う。

「年齢的にも自分よりも巧い選手に......ましてや先輩に『(パスを)出せ』って言われたら、その要求に従いがちですが、律はまず流されることはなかったです。紅白戦でも遠慮なしにガツガツ削りにいっていました。

生来の人懐っこさから、ピッチ外では先輩にもすごく可愛がられていた反面、いざサッカーになると、年齢は関係ないという思いがプレーから伝わってくるようでした。それは同学年の仲間に受けた刺激もあったと思います。

事実、律の学年は熱い選手が多く、律が(プレーを)サボろうものなら容赦なく仲間から『ちゃんとやれよ!』と檄(げき)が飛びましたから。そういう仲間に奮起させられた部分もきっとあったはずです」

■「人としての芯がしっかり備わっていたから、どんどん上に登っていけたんじゃないか」

そうして右肩上がりの成長を続けた堂安は、3年生になる直前の2度目のスペイン遠征でも輝きを放ち、FCバルセロナやレアル・マドリードをはじめ、ロシアのビッグクラブなどが集う現地の大会でMVPを獲得。鴨川によるとこの時の堂安はまさに「無双状態だった」そうだ。

「アシストが巧い選手は多いですが、この年代で、そこから点を取るところまでできた選手は、僕が指導した中では宇佐美貴史と律くらい。あと、とにかく大きな大会やタイトルが懸かった試合での勝負強さが半端なかった」

この2度のスペイン遠征について、堂安はのちに「海外」に興味を持つきっかけになった経験だったと振り返っている。初めて体感する「世界」に夢は大きく膨らんだ。

「チームのコーディネーターをしていた方に『対戦相手の選手は君たちと同じ年齢で、すでに契約の世界で生きている』と聞いたんです。中には給料をもらっている選手もいたらしく、マジか!と。それをきっかけに、自分の稼いだお金で生きていくことについて考え始め、自分もいつか海外で稼げるようになったら格好いいなと思うようになった。

ましてや2度目は大会MVPを獲って、もう有頂天ですよ(笑)。このままレアルやバルサに勝ち続けられる選手になったら将来、とんでもなく有名な日本人になれる! って夢がふくらんだ。後になって本当に能力のある選手はすでに上のチームに引き抜かれて、そんな小さな大会には出ていなかったことに気づきましたけど(笑)、当時は勝手に自信をふくらませて、自分は絶対に世界にいけると思っていました」(堂安)

そしてもう1つ。ジュニアユース時代の堂安を語る上で欠かせないのが3年生時にサイドハーフからFWに転向したことだ。

「パスがメインのプレースタイルになっていることに少し疑問を抱き始めていた中でのFW転向は、点を獲ることを思い出す上で大きかったです。個人技で点を獲っていた小学生時代とは違い、周りとの連携の中で点を獲れるようになったのも、めちゃ楽しかった」(堂安)

鴨川にしてみればFW不足というチーム事情もあっての決断だったが、ポジション転向はかつて「点取り屋」として鳴らした彼の才能を呼び起こした。

そうして堂安はジュニアユースでの最後の1年間をエースとして活躍。1?2年生で磨いたドリブルでの仕掛けに加え、シュート技術の高さ、得点力も存分に発揮しながら輝きを放つ。それは後のキャリアを後押ししただけではなく、今の彼にも通じる武器になった。

「もともと備えていた身体能力やパワーなどのポテンシャルが、最後の1年でグッと引き上げられた感じはしました。そこには律の人柄も影響したんじゃないかと思います。今もそうですけど、活躍しても天狗にならないとか、上には上がいると思って謙虚にサッカーに向き合い続けるとか。誰に対しても分け隔てがないオープンな性格で、友達も多かったですしね。親御さんの教育もあってだと思いますが、そんなふうに人としての芯がしっかり備わっていたから、どんどん上に登っていけたんじゃないかと思っています」

ボランチ、サイドハーフ、そしてFWと年代に応じてポジションを変えながら、求められたポジションで確実に結果を見出していくことで成長を続けたジュニアユース時代。取材の最後に、「プレー以外のところで、今の堂安に当時の面影はありますか?」と鴨川に尋ねると、「負けん気の強さと勝負強さ。あと人懐っこさも相変わらず」だと笑った。

●堂安 律(どうあん・りつ) 
1998年6月16日生まれ、兵庫県尼崎市出身。ガンバ大阪、FCフローニンゲン(オランダ・エールディヴィジ)、PSVアイントホーフェン(オランダ・エールディヴィジ)を経て、2020年9月にアルミニア・ビーレフェルト(ドイツ・ブンデスリーガ)へ期限付き移籍。21年には再びPSVアイントホーフェンでプレーし、22年7月にSCフライブルク(ドイツ・ブンデスリーガ)へ完全移籍。18年9月からサッカー日本代表としても活躍中。21年の東京五輪では背番号10、22年のカタールW杯では背番号8を背負った。また、地元・尼崎で実兄の憂とともに、未来の日本代表10番を育成するフットボールスクール「NEXT10 FOOTBALL LAB」を運営中


■『俺しかいない』 

集英社 定価:1650円(税込) 
<祝・3刷重版決定!!>たとえ批判を浴びようとも、大きな壁にひるむことなく、逆境を楽しみ、常に自分を信じ続けることができるのはなぜか――。挫折や葛藤を乗り越えて揺るぎない自信を身につけ、W杯という夢舞台で圧倒的な輝きを放つまでの軌跡を克明に記した、待望の初書籍。日本代表デビューを飾った2018年から4年半以上続く本誌連載コラム『堂安 律の最深部』で赤裸々に明かしてきた本音のほか、これまでのサッカー人生で最大の挑戦となったカタールW杯の舞台裏、新生日本代表のリーダーになる覚悟と決意など、初公開の情報をたっぷりと収録