1993年4月30日、代々木第一体育館で行なわれた第1回K-1。当時は斬新だった8人のワンデー・トーナメントを制したのは、日本では無名のクロアチア人、ブランコ・シカティックだった1993年4月30日、代々木第一体育館で行なわれた第1回K-1。当時は斬新だった8人のワンデー・トーナメントを制したのは、日本では無名のクロアチア人、ブランコ・シカティックだった

【新連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第1回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

■「地下格闘技」のようだったキックボクシング

すべては1993年から始まった。

そう断言してもいいほど、1993年は格闘技にとって大きな節目となる1年だった。 

4月30日、日本で『K-1 GRAND PRIX'93』(以下、K-1と略)がスタートしたかと思えば、11月12日(現地時間)には米国コロラド州デンバーで『アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ』(以下、UFCと略)が始まったのだ。

その後K-1は立ち技格闘技の、UFCは総合格闘技(MMA)の大きな幹となり、格闘技史を彩ることになったことは周知の通り。ちなみに同年9月21日には今や生粋のMMAプロモーションとなったパンクラスも、分裂を繰り返していたUWF系の流れから旗揚げ。組まれた試合はいずれも短時間で決着がついたので、〝秒殺〟という流行語が生まれた。

当時地上波で放送されていた格闘系の番組といえば、ボクシングとプロレスのみ。キックボクシングは1970年代のピーク時には地上波4局でレギュラー放送されるという空前のブームを巻き起こしていたが、その隆盛は長く続かなかった。80年3月に唯一レギュラー放送を続けていたTBSが放送を打ち切ると、キックは"空白の10年"というべき苦難の道を歩むことになる。

90年代に入ると日本武道館などで開催されたビッグマッチが特別番組として関東ローカルで深夜に放送されることもあった。それでもゴールデンタイムに復活するなど夢のまた夢だった。現在の地下格闘技とは意味こそ違うが、地下に潜っているような活動を余儀なくされていた。

K-1の第1回トーナメントを詳報した格闘技専門誌『格闘技通信』93年6月8日号の目次には、雑誌発売期間中に行なわれる大会やテレビ放送スケジュールが掲載されている。後者に関していえばWOWOWと関東ローカルの深夜のボクシング中継のみ。ボクシング以外の格闘技中継の告知は皆無だった。それだけ格闘技の放送はなかったということだ。

そんな状況を打破すべくスタートしたK-1は、旗揚げ時からインパクトが大きかった。何がすごいかといえば、まずはそのスケール感。それまでの格闘技の興行は〝格闘技の聖地〟と呼ばれ、収容人員約1800名の後楽園ホールが定番だった。

しかしながらK-1は、いきなり1万人以上の収容数を誇る国立代々木競技場第一体育館での開催という冒険に出た。そもそも、この会場での格闘技イベントの開催が初めてだった。

また、格闘技の試合形式といえばワンマッチが当たり前だった時代にワンデー・トーナメントという新しい価値観を提示したことも大きい。それまでのキックは、メインクラスは3分5ラウンド制のワンマッチで争われ、新人戦は3分3ラウンド制に設定されていた。その後キックでは当たり前となる延長戦は設定されていなかった。

K-1誕生までにトーナメントがなかったわけではない。ただそれまでのトーナメントは初戦を勝ち抜けば、2~3ヵ月後に設定された次戦に臨むという複数の大会に跨がるものだった。終了までに何ヵ月もかかるのが当たり前だったのだ。1日ですべてが決まるというスピード感が時代に合ったのだろうか。

■「神に選ばれし階級」

スタート時の階級をヘビー級に設定したところも斬新だった。それまで日本のボクシングやキックボクシングは日本人選手が活躍できる階級にスポットライトを当てていたので、必然的に軽量級から中量級がメインだった。

外国人選手として初めてタイの国技、ムエタイのチャンピオンになった藤原敏男や、〝キックの鬼〟として一世を風靡した沢村忠はライト級が主戦場だった。スポーツタレントとして不動の地位を誇る具志堅用高はボクシングの世界王座を13回防衛という日本人の男子世界王者として最多記録を持つレジェンドだが、活躍した階級はジュニアフライ級(現在のライトフライ級)だった。

K-1がスタートするまで国内のボクシングやキックにヘビー級がいなかったわけではない。しかしながら世界の第一線と対峙するとなると、どうしても体格的に見劣りする選手が多かった。ヘビー級といいながら、実際にはライトヘビー級程度という〝上げ底ヘビー級戦士〟も少なからずいた。

そういう意味で、海外勢と対峙しても体格的に遜色のない佐竹雅昭は、K-1の日本人エースとしてうってつけの存在だった。

第1回K-1の準決勝で対戦した、佐竹雅昭(右)とブランコ・シカティック第1回K-1の準決勝で対戦した、佐竹雅昭(右)とブランコ・シカティック

ヘビー級は「神に選ばれし者の階級」といわれる。確かに持って生まれたDNAがなければ大型には成長できない。さらに格闘家としての溢れんばかりの才能がなければ、大成することは難しい。もともと日本には古来から大相撲があり、大男が格闘することに畏怖の念があった。だからこそ初めて見るヘビー級のキックボクサーも快く受け入れることができたのではないか。

第1回K-1に招聘されたメンバーも充実していた。当時キック界で最も権威があるといわれていたWKAの世界ヘビー級王者に長らく君臨していたモーリス・スミス、オランダキック界の次代を担う存在だったピーター・アーツ(当時はまだ現役の大学生だった)、ムエタイの中量級では実力ナンバー1だったチャンプア・ゲッソンリット。オーストラリア初のキック世界王者スタン・ザ・マン(大会直前にケガを理由に出場キャンセル)。

優勝したブランコ・シカティックや、そのシカティックと決勝を争ったアーネスト・ホーストはこの第1回大会が初来日で、トーナメントの火蓋が切られるまで日本ではまだ無名の存在にすぎなかった。

特筆すべきは、彼らはいずれも当時なんらかのチャンピオンとして君臨していたことだ。K-1が誕生した当初のキック界には世界を統一するような組織がなく、いってみれば〝おらが村の大将〟が林立している状況だった。主戦場にしているプロモーションが違えば、拳を交わす機会などほとんどなかった。

そのほうが各地区のプロモーターにとっては都合がよかった。〝おらが村の大将〟がずっと大将でいられたら、ずっと世界チャンピオンをメインとした興行が打てる。だから世界チャンピオン同士の一騎討ちはタブー視される傾向もあった。K-1誕生以前のキックは動脈硬化を起こしかけていた。

第1回K-1優勝者のブランコ・シカティック。左は佐竹雅昭、右はK-1の創始者、石井和義氏第1回K-1優勝者のブランコ・シカティック。左は佐竹雅昭、右はK-1の創始者、石井和義氏

■布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、ムエタイ(キックボクシング)、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など

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