佐竹雅昭は1990年6月のキックボクシングデビュー戦でドン・中矢・ニールセンをKO。その3年後に組まれた再戦でも再びニールセンをマットに這わせた 佐竹雅昭は1990年6月のキックボクシングデビュー戦でドン・中矢・ニールセンをKO。その3年後に組まれた再戦でも再びニールセンをマットに這わせた

【新連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第2回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

空手が勝つか? キックが勝つか?

どんなスポーツの歴史にも序章がある。

いきなりビッグサクセスを手にするわけではない。助走がなければ、どんな超人でも金メダルに到達するジャンプはできないということだ。1993年4月30日に華々しくスタートした『K-1GRAND PRIX』(のちK-1WORLD GP)もそうだった。

その導火線になったのは、90年6月30日に行なわれた佐竹雅昭vs ドン・中矢・ニールセンだったことに異論を挟む余地はない。この一戦をきっかけとする佐竹の成長の過程こそK-1の序章だったのだ。

闘いの舞台は当時日本のキックボクシング界を二分していた勢力のひとつ、全日本キックボクシング連盟が日本武道館で開催したビッグマッチ『INSPIRING WARS〝HEAT630〟』だった。

当時の佐竹は全日本選手権を3連覇中で、正道会館のエースとして君臨していた。空手だけではない。新生UWFの象徴だった前田日明への挑戦表明、はたまた天龍源一郎と親交が深かったことから新興団体SWS入りとプロレス転向を報じられるなど、話題には事欠かなかった。

それだけでも十分絵になったが、佐竹は言葉も立ち、性格も明るかった。かつての大相撲同様、抱負を聞かれても「頑張ります」としか答えられなかった格闘家が多かった中で、佐竹は自らの言葉で発信することができるパイオニアというべき存在だったのだ。

それまでの格闘技にこびりついていた〝3K〟(怖い・暗い・汚い)というイメージを払拭するにはこれ以上ないキャラクターだった。今でこそトラッシュトークを駆使するファイターは珍しくないが、30数年前の格闘技界といえば、そんなエンタメ性とは真逆の住人ばかりだったのだ。

世間は佐竹vsニールセンを「空手が勝つか? キックが勝つか?」という異種格闘技戦的なフィルターを通して見ていた。その手法は1954年に実現した力道山vs木村政彦の「相撲が勝つか? 柔道が勝つか?」から何も変わっていない。

それだけではない。この一戦を「アマチュアvsプロ」と見る向きも多かった。この一戦での佐竹の立場は純然たるアマチュアで、そのままニールセンとの闘いに挑もうとしていた。自分の立場を貫くために、佐竹は一銭のファイトマネーももらっていない。

戦前の予想では、プロであるニールセンよりアマチュアの佐竹の勝利を予想するファンや関係者が多かった。なぜならニールセンの実力に「?」をつける者が少なくなかったからだ。

89年1月の全日本キック初参戦では無名ファイターにKO勝ちを収めたものの、同年5月の、のちに第1回UFCに参加する巨漢ケビン・ローズイヤーとの一戦では相手の突進をかわしきれず6RKO負けを喫してしまった。

その翌月には″帝王″ロブ・カーマンとの大一番が日本武道館で控えていたが、ニールセンはケガを理由に予定日での開催に難色を示したため、大会は3ヵ月ほど遅れて実施された。だが延期した甲斐なく、ニールセンは実力者カーマンにローキックを効かされ、3RKO負けを喫した。

ただ、ニールセンの場合、本業のキックよりプロレスラーとの異種格闘技戦で大いに名を売っていた。中でも86年10月の前田日明戦は結果的に逆片エビ固めで敗れたとはいえ、キックボクサーとしての存在感を見せつけた。

そこで勝った前田だけではなく、敗者のニールセンも脚光を浴びることになり、その後も新日本プロレスに頻繁に来日し、連戦連勝を重ねていた。母方の祖父母が日本人という日系三世で、全身からオリエンタルムードを醸し出していたことも、日本での人気に火がついた原因だったかもしれない。

その結果、佐竹と闘う前のニールセンの知名度は佐竹のそれを遥かに凌いでいた。本業の結果はサッパリなのに、プロレスラーと闘うとピカイチ。人気と実力がアンバランスだったところに、キックボクサーとしてのニールセンの商品価値はあった。

睨み合う佐竹雅昭とドン・中矢・ニールセン 睨み合う佐竹雅昭とドン・中矢・ニールセン

テクニックはニールセンのほうが上だった

そんなニールセンを佐竹は1R右ストレートでキャンバスに這わせた。短い試合時間だったが、伏線はあった。フィニッシュに至る過程で佐竹はニールセンに何度か頭突きを見舞い、それなりのダメージを与えていたのだ。この反則によってレフェリーのサミー中村は佐竹に減点1を課すが、それで佐竹の勢いが弱まることはなかった。

この一戦に勝つか負けるかで、のちの佐竹の人生が大きく変わることは誰の目にも明らかだった。もちろん「明らかな反則」と眉間に皺を寄せる者もいたが、このときの世論は佐竹のケンカ殺法を支持した。佐竹のバックボーンであるフルコンタクト空手のルーツは、極真空手を創設した大山倍達が声高に叫んだケンカ空手にあったからか。

試合後、ニールセンは「明らかな反則」と猛然と抗議するが、中村レフェリーは「佐竹には減点を与えている」という理由で裁定を覆すことはなかった。

試合開始早々の両者のやりとりを見る限り、この時点でキックボクサーとしてのテクニックはニールセンのほうが上だったように見えた。

当時の正道会館は1988年の第7回全日本選手権から試合場としてリングを使用し、延長戦でも決着がつかないと再延長戦ではボクシンググローブ着用による顔面パンチありという過激なルールを採用していた。

だからこそ、ニールセン戦以前の佐竹にキックに準じた闘いの経験がなかったわけではないが、キャリアの差があったことは否定できない。

もしこの一戦でニールセンが勝ち名乗りを上げていたら、その後の日本の立ち技格闘技はどうなっていたのか。少なくとも3年後にK-1が立ち上がることはなかっただろう。

ケンカ空手が時代の扉をこじ開けたのだ。

日本のエースとしてアンディ・フグら世界の強豪と激闘を繰り広げ、90年代のK-1を支えた佐竹雅昭 日本のエースとしてアンディ・フグら世界の強豪と激闘を繰り広げ、90年代のK-1を支えた佐竹雅昭

■文/布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、ムエタイ(キックボクシング)、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など

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