【新連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第3回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
■熊とも闘う「地上最強のカラテ」
1990年6月30日、ドン・中矢・ニールセンとの人生を懸けた異種格闘技戦に勝利を収めたことで、正道会館のエース・佐竹雅昭の知名度はさらに高まった。
しかし、そのまま一気にK-1に突入するわけではない。翌91年6月4日には東京・国立代々木競技場第2体育館で開催された「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ」に出場し、大将戦で〝熊殺し〟ウィリー・ウィリアムスから勝利を収めたことも話題となった。
USA大山空手(国際大山空手道連盟)と正道会館は、ともに大山倍達が創始した極真会館から派生したフルコンタクト空手団体だ。代々木第二体育館は4500名(主催者発表)の観客で埋めつくされ、玄関は当日券を手にできなかった300名以上のファンで溢れた。筆者が執筆を担当した大会パンフレットも瞬く間に売り切れとなった。
勝負の決め手となったのは佐竹の下段回し蹴り(ローキック)だった。ウィリーが得意とする右の逆突き(ストレート)はヒジによるカットで徹底的にブロックして相手を調子付かせることはなかった。
時間が経つにつれ、ファイターズハイになったように何度も微笑みを浮かべた佐竹。対照的にウィリーの表情は苦痛にゆがむことが多かった。このコントラストが佐竹vsウィリーのすべてを物語っていた。
それにしても、このタイミングでなぜ佐竹vsウィリーだったのか。その理由を突き詰めていくと、空手界の生きる伝説が最も旬な空手家と拳を交わすというシチュエーションが大きかったように思う。過去と現在を交錯させることで、時代を越える格闘ロマンをファンに提供したのだ。
昭和世代の空手ファンにとってウィリーといえば、すぐ〝熊殺し〟というニックネームが条件反射のように脳裏に蘇る。1976年12月公開の映画『地上最強のカラテ PART2』にウィリーが熊と闘うシーンがあり、それが空手家としての彼のイメージを決定づけた。
同じ人間だけではなく、猛獣とも闘える空手家がこの世に存在する。それだけでも十分衝撃だった。かつて牛と闘ったことがある極真空手の創始・大山倍達には『地上最強への道─大山カラテもし戦わば』という著書がある。
その中で大山はボクサーやプロレスラーと闘う状況だけではなく、拳銃を持った者、果ては猛獣と闘ったときの状況を真面目にシミュレーションしている。弟子のウィリーは体を張ってそれを具現化したことになる。
また、大山はかつて米国武者修行中にタム・ライスなど著名なプロレスラーと闘ったとされるが、ウィリーも熊と闘った4年後にはプロレスラーと対峙した。1980年2月27日に実現した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木との異種格闘技戦だ。
リングサイドは試合前から猪木陣営とウィリー陣営のにらみ合いで一発触発という状況の中、試合は決行され、2ラウンドに一度は両者リングアウトの裁定が下された。
しかしこの一戦の立ち会い人である梶原一騎の裁量で延長戦に突入し、結局4ラウンド痛み分けに終わった。ルールより格闘ロマンが優先される時代だった。
■14歳の佐竹はウィリーを応援
この一戦を、当時14歳の佐竹は自宅のテレビの前で正座しながら観戦していた。すでに空手家を志していたのでウィリー側に立っての応援だったが、それだけ襟を正して見たい一戦だったのだ。ウィリーが出演した映画の題名に象徴されるように、当時の空手は最強幻想のオーラをまとっていた。
一方、ジャイアント馬場との対立から「ストロングスタイル」を標榜し、その路線を際立たせるべく76年から異種格闘技戦を頻繁に行なっていた猪木も、「プロレスこそ最強」をスローガンにファイトしていた。
そうなると当然、空手とプロレスの間で最強論争が巻き起こる。格闘技とプロレスが完全に枝分かれした令和の世ならあり得ない話だが、当時は観ているほうもそれだけ「プロレスが勝つか? 空手が勝つか?」に熱を上げていたのだ。
時代は流れ、当時中学生だった佐竹は25歳になり、かつて全力で応援した空手家と対峙するまでに成長していた。一方のウィリーは40歳になっていた。この一戦は空手界の世代交代も表現していたのだ。
佐竹vsウィリーの反響は大きく、翌日の東京スポーツは一面で詳報している。まだK-1もPRIDEも世に存在していない時代だったので、スポーツ紙で格闘技がトップで扱われることは極めて異例だった。
振り返ってみれば、フルコンタクト空手界で団体対抗戦を興行形式で魅せるという手法も画期的だった(通常、空手の大会といえばトーナメントで争われる形式が普通)。それだけではない。会場が暗転しレーザー光線が行き交う興行演出も別世界観を際立たせた。
さらに選手入場時にはテーマ曲が鳴り響き、リングアナは当時プロレス界で最も名の通っていた〝ケロちゃん〟こと田中秀和氏を新日本プロレスからレンタルした。入場曲もプロレス流の派手な選手コールも、空手界にとっては初の試みだった。
その一方で、試合開始の合図はゴングではなく、空手の試合らしく太鼓が奏でる「ドォ~ン」。佐竹vsウィリーの前にはUSA大山空手の大山茂最高師範による真剣白刃取りの演舞も披露された。一歩間違えば大ケガにつながるパフォーマンスだけに、取材記者という立場で観ているだけでも緊張した。
いずれにせよ、最初から最後まで退屈することは一度もなかった。80年代後半にUWFがプロレス界に導入した音楽ライブを模した舞台演出と、空手大会ならでは和のテイストがうまく融合していたのではないか。
ウィリーにとっても凝った舞台演出を体感しながらの試合は初めてだったようで、決戦2日後に実施した筆者のインタビューでは手放しでこう喜んでいた。
「ああいった演出をやってもらうと、選手は『俺がナンバーワン』ということを意識して舞台に立つことができる。選手ひとりひとりがスター気分に浸りながら、試合に臨むことができるなんて、これまでの試合にはなかったですからね」
あれから32年、すでに〝熊殺し〟はこの世にいない。晩年にゆっくりと空手人生を語ってもらいたかった。
■文/布施鋼治(ふせ・こうじ)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、ムエタイ(キックボクシング)、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など