1992年3月の「格闘技オリンピックⅠ」のメインイベントで実現したモーリス・スミスvs佐竹雅昭は、キックボクシングルールと空手ルールを交互に行なうという、当時は斬新なミックスルールマッチだった1992年3月の「格闘技オリンピックⅠ」のメインイベントで実現したモーリス・スミスvs佐竹雅昭は、キックボクシングルールと空手ルールを交互に行なうという、当時は斬新なミックスルールマッチだった

【新連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第4回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

■角田信朗は〝熊殺し〟ウィリーと対戦

K-1がスタートする直前の、格闘技のエッセンスが目一杯詰まった大会だった。1992年3月26日に正道会館が開催した「格闘技オリンピックⅠ」。キックボクシング、フルコンタクト空手、MMA以前の総合格闘技と、当時の格闘技マスコミを賑わせていた試合形式がズラリと並んだ。

世間からの注目度は高く、会場となった東京体育館には小雨がパラつく中、8500名(主催者発表)もの観客が集まった。純粋な格闘技で、これだけ多くの観客が集まる大会はいつ以来だったろうか。少なくとも、数多くのルールの試合が採用されるというバラエティ色豊かなイベントはこれが初めてだったのではないか。

マスコミの数も総勢100名を超えた。プロレスではなく、格闘技のイベントにこれだけ多くの取材陣が駆けつけることも異例だった。格闘技を取り巻く何かが変わろうとしていた。

しかも、出場する選手は大物や旬の選手ばかりだった。1年前の「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ」では佐竹雅昭と対戦した〝熊殺し〟ウィリー・ウィリアムス(米国)は、当時は〝闘うサラリーマン〟として活動していた角田信朗と空手ルールで激突した。

 のちにタレントとしても人気を博す角田信朗は熊殺しウィリー・ウィリアムスと空手ルールで闘い、引き分けた のちにタレントとしても人気を博す角田信朗は熊殺しウィリー・ウィリアムスと空手ルールで闘い、引き分けた

80年代後半からキックボクシング界で〝帝王〟の名をほしいままにしていたロブ・カーマン(オランダ)は、大阪で英語教師をやりながら正道会館の内弟子をしていたアダム・ワット(オーストラリア)で拳を交わした。

その頃シュートボクシングに在籍していた平直行はエリック・エデレンボス(オランダ)と、前田日明率いるリングスが採用していたルール(素手ということもあり、スタンドでもグラウンドでも拳による顔面殴打は認められていなかった)と対戦した。

さらに、この2年後にはヒクソン・グレイシーと闘うことになる〝覇王〟西良典も、ケンカで何度も服役していたヘルマン・レンティング(オランダ)とリングスルールで雌雄を決した。それだけではない。他団体とは交わらないと思われていた大道塾からも市原海樹が参戦し、オランダのピーター・スミット(有名なキックボクサーとは同名異人)と総合格闘技特別ルールで闘った。

このうち、平は腕絡みで、市原はローキックで見事な勝利を奪っているが、負けた他の日本人ファイターも活き活きとエネルギッシュに闘っていた。勝敗に関係なく、大舞台でファイターたちが光り輝いていたことは特筆に値する出来事だった。

■怒りをぶちまけたモーリス・スミス

メインイベントでは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった佐竹雅昭が登場し、ヘビー級キックボクサーでは最強といわれていたモーリス・スミス(米国)と対戦した。ルールはキックルールでも空手ルールでもなく、それぞれのルールを交互に行なう計3分4ラウンドのミックスルールが採用された。

今でこそミックスルールの試合はRIZINなどで当たり前のように組まれているが、この時代には斬新というしかない闘い方だった。筆者の記憶が正しければ、日本格闘技史上初めてだったのではないか。翌93年2月28日にはリングス主催の「実験リーグ」で平と正道会館ナンバー2の後川聡之によるミックスルールマッチ(キックルールとリングスルール)が実現している。

佐竹vsモーリスはキック―空手―キック―空手の順番で行なわれる予定だった。最終ラウンドが空手だったら、佐竹が反撃することで会場が盛り上がると予想されたためだろうか。だが、決戦前日の公開練習でモーリスが「なんでもフェアなほうがいい。コイントスで決めよう」と提案してきた。そこで、彼のズボンのポケットに入っていた10セント硬貨のトスで決められることに。結果、佐竹の勝ちとなり、当初の予定通りキックルールからのスタートとなった。

そのラウンドで最初に観客をどよめかせたのは、やはり餅は餅屋でモーリスのほうだった。佐竹の左フックをダッキングでかわすや、返しの右フックが佐竹の頬をかすめたのだ。

しかし続く第2ラウンドで空手ルールになると、逆に佐竹が調子づく。空手のラウンドでもボクシンググローブをつけたままのモーリスに対し、佐竹はバンテージを巻いただけの拳による突きの連打で襲いかかる。モーリスはステップを使いながら、ときおりボディブローを放って時間が過ぎるのを待つしかなかった。

再び佐竹がボクシンググローブをつけた第3ラウンドになると、勝負はいよいよクライマックスを迎える。モーリスがヒザ蹴りで佐竹からダウンを奪ったのだ。続けて左ハイからの連打で2度目のダウンを奪う。

「8年間無敗」を誇っていたモーリス・スミスは佐竹雅昭の高い壁となった「8年間無敗」を誇っていたモーリス・スミスは佐竹雅昭の高い壁となった

絶対絶命のピンチ。観客席から「佐竹」コールが発生する中、佐竹は怒濤のラッシュを仕掛けるが、2ラウンド目の180秒でモーリスはすでに空手の距離を見切っていた。短い蹴りや首相撲からのヒザ蹴りを駆使して、必要以上の反撃を許さない。

結局、そのまま試合終了のゴングが鳴り響いた。誰の目から見てもダウンを2度も奪ったモーリスが優勢な流れだったが、「KO、試合放棄以外は勝ち負けを決さない」というルールが採用されていたために勝負はドローに。しっかりとルールの詳細を聞いていなかったのか、試合後、控室に戻ったモーリスは筆者に怒りをぶちまけた。

「いったいこの判定はなんなんだ? 相手をダウンさせても勝ちじゃないルールなんて信じられるか。観客はどっちが真の勝者であるか知っているだろう。今後、絶対にルールが曖昧な試合には出場したくない。もうミックスルールなんてこりごりだ」

メインイベントの結末こそ後味の悪さが残ったが、格闘技の未来を感じさせる大会だった。ドローの採点が下った直後、佐竹は潔くモーリスの右手を上げている。

この時点でキックのヘビー級ではモーリスの時代がしばらく続くことが予想されたが、2週間ほどするとフランスからとんでもないニュースが飛び込んできた。パリで行なわれたビッグマッチで、それまで8年間無敗を誇っていたモーリスが敗れたというのだ。

不敗神話に土をつけたのはオランダの大学生と聞いて、もっと驚いた。彼の名はピーター・アーツ。まだネットも普及しておらず、日本ですぐ海外の試合映像を見ることなど夢のまた夢だったので、筆者は妄想を膨らませるしかなかった。

日本だけでなく、世界の格闘技が変わろうとしていた。

●文/布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、ムエタイ(キックボクシング)、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など

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