「凡事徹底。私は、この言葉がすごく好きなんですよ」
異国の地で、2季連続3冠という偉業を成し遂げた指揮官は、こう語りかける。
タイのサッカー1部リーグ「タイ・リーグ1」の強豪、ブリーラム・ユナイテッドFCの指揮を執る石井正忠監督は、2022-23シーズンにリーグ戦、リーグカップ、FAカップの3つのタイトルを獲得。前シーズンに続いての3冠達成だった。
日本人監督の海外での成功例はほとんどない。それを2季連続で達成しているのだから、決して「凡事」という言葉で片づけられるものではないはずだ。それでも、石井はこんな言葉を続ける。
「私は戦術家でもないし、カリスマ性もない。監督としてセンスがあるわけでもない。今まで学んできたことを、コツコツ選手たちに伝えてきただけ。それを実直にやってきたことが実を結んだのかな。長い時間の積み重ねを見てきた神様が、『タイのリーグなら』と(栄冠を)与えてくれたのかもしれません」
石井の言動には飾り気がない。取材現場にはタイで購入した1000円以下のTシャツ姿で現れ、食事は基本的に現地の屋台で済ませるという。
ほぼ毎日同じメニューを食べ、決まった時間に起床し、寺院で祈りを捧(ささ)げる。タイ語はおろか、英語もあまり話せない。それでも不思議なほどにタイという国に溶け込んでいた。そんな人間性こそが、石井の異国での成功につながっていると感じさせられた。
鹿島アントラーズ創設メンバーのひとりだった石井は、人生の半分近くを鹿島で過ごしてきた。98年に現役を引退した後は、17年間もコーチ業を務めた。転機が訪れたのは、15年のこと。トニーニョ・セレーゾ監督の解任に伴い、白羽の矢が立ったのが石井だった。
同年にリーグカップ、翌年にはリーグのファーストステージを制し、年間優勝も達成。この年の最優秀監督賞にも選出されている。
そして、今なお語り継がれるレアル・マドリードとのクラブW杯の決勝。延長の末に惜しくも敗れたが、〝白い巨人〟を本気にさせ、真っ向から打ち合う姿を覚えているファンも多いだろう。石井はこう述懐する。
「試合前は、ほとんどの方が『レアルが何点差をつけて勝つか』と話していた。しかし私は、当時のチームには『レアル相手でも十分にやれる』という手応えがあったんです。守備はとにかく練習してきて自信があったし、曽ヶ端準、昌子源、小笠原満男、金崎夢生と、センターラインの〝軸〟がしっかりしていた。
あとはいかに点を取るかでしたが、(柴崎)岳が2点目を取った瞬間に、スタジアムの雰囲気が変わった。南米のサポーターたちもアントラーズの応援に回り、なんとも言い難い興奮を覚えました。あの感覚は忘れられないですね」
振り返れば、このときが日本での石井の最盛期でもあった。翌年に成績不振を理由に解任され、シーズン途中に大宮アルディージャの監督に就くが、チームはJ2に降格。翌年はJ1参入プレーオフに進んだものの、昇格を逃して解任されている。
19年にはサッカーから離れ、「子供と過ごす時間を増やしたい」と、学校給食センターの調理員として勤務した。
「新聞広告を見て、『こういう仕事もあるんだ』と興味を持ったんです。職場の方には『鹿島の石井さんですよね』と面接で驚かれましたね(笑)。でも、まったく抵抗はなかったし、新しい発見の連続でした。外の世界で組織のつくり方や、仕事の進め方を学べた経験は後に活きました」
約1年がたっても、Jクラブからは納得のいくオファーは届かず。それでも、レアルと熱戦を演じたクラブW杯の影響は、東南アジアにまで伝わっていた。19年12月、タイ1部リーグのサムットプラーカーン・シティFCから監督就任の打診が届いた。
当時52歳の石井に海外生活の経験はなく、給与も鹿島時代の半額程度と、決して好条件ではなかった。それでも石井は首を縦に振った。
「最初は迷いましたが、家族にも理解してもらい、『とにかくやってみよう』と。タイは〝履歴書〟を重視する文化がある。クラブW杯が、ひとつの転機になったことは間違いないと思います」
筆者が現地を訪れた14、15年頃、タイ・リーグは〝バブル〟の最中にあった。60人以上の日本人選手がプレーし、年俸も『Jリーグの水準かそれ以上』という声も聞こえてきていた。
岩政大樹、茂庭照幸、カレン・ロバートといった代表クラスの選手も在籍し、指揮官も7人の日本人監督が名を連ねるなど、〝日本人ブランド〟が浸透していた。
しかし、オーナー主導型の経営スタイルの影響もあり、リーグの人気は下火に。昨季の1部リーグでプレーした選手は、セレッソ大阪からレンタル移籍の丸橋祐介ら4人。来季に指揮を執る日本人監督は石井と手倉森誠のふたりのみだ。石井の監督就任は、バブルがはじけた頃に当たる。
タイサッカーの課題は「育成面」と言われて久しい。アカデミーを保有するクラブは、一部の強豪クラブなど限定的だ。タイに渡った石井がまず着手したのも、簡単な個人戦術の徹底からだった。
「驚いたのは、タイ人のフィジカルレベルの高さでした。これは日本人よりも高い水準にある、と。一方で、個人戦術やチーム戦術の理解の低さも目についたんです。
最初はJユースの子たちに教えるような感覚で接し、基礎から伝える作業でしたが、国民性が素直で真面目だから、あっという間に伸びる。タイサッカーの可能性を感じ、日に日に楽しみが増えていきました」
高い攻撃的なポテンシャルを生かしつつ、守備では規律を植えつけることに腐心したチームは、目に見えて組織的になっていく。
サムットプラーカーンはリーグで中堅クラスのクラブだが、石井の手腕に着目した関係者は多かった。事実、西野朗が21年7月にタイ代表の監督を解任された後、その後任の打診もあったという。
「真偽はわかりませんが、クラブのオーナーから『代表監督の話があったが、クラブ在籍中なので断った』と(笑)。何を勝手に、と思いましたが、またチャンスが来ると思うようにしましたね」
21年11月には、常勝軍団のブリーラムから話が届いた。前半戦をリーグ首位で折り返したチームからのオファーに、迷いはなかった。
「ブリーラムならACLに出てJクラブと戦うチャンスがある、という新たなモチベーションも生まれました。シーズンの途中でチームを離れることで迷惑をかけるかもしれないと思う半面、このチャンスを逃す手はないと即決したんです」
シーズン途中の就任という難しい立場ながら、石井はタイ・リーグの3冠監督となった。ここには、石井が日本時代から大切にしてきた「選手を縛らない、選手と一緒にチームづくりを行なう」という信念の真価が詰まっていた。
「タイに来る前、先人の日本人監督の方々からは『タイ人はプライドが高い。人前で怒ったり、日本人と思って接するとダメ』と聞いたんです。ただ、時には怒ることも必要なので、その方法を考える際に、街のフードコートや屋台など、とにかくタイの人と接する機会を増やしました。
言葉がわからない中、自分なりにタイ文化を解釈した。嫌なことでも、選手たちにも嘘がないよう正直に、自分の考えを伝えることを意識してきました」
石井のコミュニケーションは独特で、選手の呼び方もそのひとつだ。
「タイ人の名前は、日本人には長くて呼びにくいので、呼び名はニックネーム。初日に呼び名を覚え、トレーニング前に輪になり、『名前が合っていたらハイタッチして!』と。これで一気に選手との距離が縮まりました。
言葉が話せなくても『チームを強くしたい。コミュニケーションを取りたい』という思いは一緒。だから不思議と伝わるんです。現地のメディアから批判されても、言葉がわからない分、日本時代よりも精神的に楽ですよ(笑)」
契約上、8月から始まる新シーズンが最後の一年になる。当初は日本より低かった年俸も、タイトルの成果報酬により、鹿島時代をはるかに上回る水準になった。そんな石井は、この1年半で常にあることを考えてきた。
「ブリーラムは、予算規模などもJリーグの上位クラブとも遜色(そんしょく)はなく、選手の質も高い。ここに来てから、ACLで日本クラブを倒すためのチームづくりを行なってきて、今はその手応えもある。
今年のACLでは、Jクラブにひと泡吹かせたいですね。『しょせんはタイのクラブ』という見方もされるけど、倒せばその評価も変わると思うので」
昨季は2位に勝ち点12差をつけ、2季連続3冠達成という史上初の快挙を成し遂げた。当たり前のことを、誰にもできない水準で徹底的にやる。石井のスタイルはタイでも受け入れられ、今ではリーグ随一の名将という評価を得た。それでも、時折は日本が恋しくなることもあるという。
「タイサッカーの強化のお手伝いをし、代表などの活動も魅力に感じます。一方で、最後は日本に戻り、もう一度監督としてタイでの経験を生かしたい気持ちもありますね」
タイで成功をつかんだ男は慢心することなく、一歩一歩、着実に歩み続けていく。
●石井正忠(いしい・まさただ)
1967月2年1日生まれ、千葉県出身。選手としてNTT関東、住友金属、Jリーグ開幕後は鹿島の創設メンバーとして活躍。1998年に現役引退後はユースコーチなどを歴任し、2015年にトップチームのコーチから監督へと昇格。2019年12月からはタイ・リーグで監督を務め、現在指揮を執るブリーラムで2季連続3冠を達成