世界で活躍する大谷翔平はどのように形作られたのか。みんなが気になる、子供時代から高校時代までの大谷翔平にまつわる逸話を本人に取材した記者・菊地高弘氏がここに書き留めてくれた!
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2010年10月8日、山形県で高校野球秋季東北大会を取材していた私はショックを隠せずにいた。震える右手でスマートフォンを取り出し、自分のツイッターアカウントで次のように書き込んだ。
「花巻東、初戦で敗れましたが、6回から投げた1年生・大谷翔平投手は衝撃でした。はっきり言って怪物です。1年生を誉めすぎるのは怖いですが、資格は十分あると思います。球界の宝であるダルビッシュのような投手になってほしい。」
大会後、私はすぐさま花巻東高校へ取材を申し込んだ。これが大谷にとって、人生初のインタビュー取材だったそうだ。高校1年生の大谷は口数が少なく、こちらが投げかける質問にたどたどしくも懸命に答えてくれた。そんななか、「将来どんな選手になりたいか?」という質問に対して、大谷はこう答えた。
「世界に通用する野球選手になりたいです」
あれから13年の時を経て、大谷は「ダルビッシュのような投手」どころか、"投打二刀流"の世界的アスリートとして君臨している。
高校時代の大谷を取材した人間として、大谷の成育過程を伝えることは日本野球の希望につながるはず。そんな使命感を胸に本稿を書かせてもらうことにした。
一日の約半分を睡眠時間に充てていることが話題になっている大谷だが、やはり幼少期からよく眠っていたそうだ。
母の加代子さんは「子供の頃から早寝で、夕飯を待ちきれずに寝てしまうことも週2、3回はありました」と語っていた。
牛乳を飲み水のように愛飲し、1日1Lを飲み干した。好きな食べ物は牛肉。てっきり岩手県産の牛肉を好んで食べていたのかと思いきや、加代子さんは「質より量です」と笑って、安価なアメリカ産牛肉を購入していたことを明かした。
とはいえ大谷の食は細く、高校入学時点では身長は190㎝近くあったのに対し、体重は60㎏台とガリガリだった。
父の徹さんは元社会人野球選手で、大谷の中学時代には「左中間に二塁打をたくさん打てる選手になれ」とアドバイスを送っている。
徹さんが大切にしていたのは、風呂の時間だった。大谷が中学生になっても、野球の練習を終えた大谷と一緒に風呂に入り続けていたという。
徹さんは「身体的な成長がわかり、野球の話もできてコミュニケーションが取れました」と効用を語っていた。
両親とも社会人まで競技生活を続けたアスリートだったが、徹さんも加代子さんも「特別な子育てはしていません」と口をそろえた。気をつけていたのは、「子供の前でケンカをしないこと」くらい。異次元な野球選手に育ってしまったのは両親にとっても想像を超えた事態だった。
大谷が異質なのは190㎝を超える長身ながら、自分の体を自在に操れるところにある。高校時代のトレーナーである小菅智美さんはこんな光景を記憶している。
「翔平が1年生だった冬場に、高跳び用のマットを縦方向に置いてジャンプするトレーニングをしていたんです。でも、翔平がジャンプすると、一人だけマットを跳び越えてしまって。まるでカモシカのようでした」
抜群の身体能力だけでなく、動きを再現する能力も高かった。同学年である藤浪晋太郎(オリオールズ)のフォームを忠実にモノマネする大谷を見た小菅さんは、「視覚から得た情報を確実に体で表現できる」と大谷を評した。
そんな大谷も、高校2年の夏以降は故障に苦しんだ。股関節の骨端線を損傷し、本来の投球ができなくなったのだ。故障が原因で、2年の夏と3年の春に出場した甲子園はともに初戦敗退と不完全燃焼に終わっている。
だが、「骨端線を痛めたのは大谷にとってよかった」と語るのは、高校時代の恩師である佐々木洋監督だ。
「東北って、冬は雪が降ってやることがないので、走ってばかりだったんです。でも大谷は走れなかったので、ご飯を食べて、寝て、冬で20㎏くらい増えたんです。
打つのは痛くないというので打たせていたら、バッティングもよくなって。大谷が160キロを投げられたのも、バッティングのコアができたのも、ケガしたからだと思います」
私が初めて大谷を見た高校1年時は、圧倒的に「投手・大谷」の資質が際立っていた。だが、故障期間にバットを振り続けたことで、「打者・大谷」として開眼した。もし、大谷が高校時代に故障をしていなければ、二刀流としてMLBで活躍する姿は見られなかったかもしれない。
そして、大谷の大成功を下支えしたのは身体的資質、技術的資質だけではない。
高校時代の大谷に好きな授業を聞くと、「日本史」という答えが返ってきた。その理由を大谷はこう語っている。
「特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。『革命』や『維新』というものに惹(ひ)かれるんです」
大谷翔平という人間の根幹を貫いているもの。それは、「誰もやったことのないことを成し遂げたい」というパイオニア精神。だからこそ、高校3年時には直接MLBに進むことを表明した。NPBを介さずにMLBに進み、大成功した前例がなかったからだ。
一方で大谷がドラフト会議で強行指名した日本ハムに入団すると翻意したのも、日本ハムが"二刀流"という前代未聞の選択肢を提示したから。
このパイオニア精神があったからこそ、大谷は進化し続けているのだろう。
これから100年の時を経ようと、大谷を超える野球選手は現れないかもしれない。それでも大谷の姿から刺激を受け、大谷の歴史から学んだ者が新たな伝説をつくってくれるはず。
初めて大谷を目撃した日のときめきを求めて、これからも野球場に通おうと心に決めている。
●菊地高弘(きくち・たかひろ)
野球記者。1982年生まれ、東京都出身。『野球小僧』『野球太郎』編集部員を経てフリーライターに。著書に『野球部あるある』(集英社)、『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)など