【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第10回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
■幻のシュートボクシング参戦
顔には歴戦の勲章ともいえる、無数の切り傷の痕。その佇まいは、哀愁を帯びた元殺し屋のようだった。2012年、筆者はタイの観光地であるパタヤでチャンプア・ゲッソンリットと久々に再会した。
当時、チャンプアは46歳。その2年前にラストファイトを行なっており、ボディには相手のミドルキックやヒザ蹴りに耐えられるだけの筋肉がまだ残っていた。当時ミット持ちとして働いていた現地のしなびたムエタイジムで、Tシャツをたくし上げたチャンプアはほほえみながら自らの腹をピシャリと叩いた。
「試しに殴ってみろよ」
チャンプアは日本で初めてスターになったムエタイファイターだ。そのきっかけは1989年11月29日に新生UWFが東京ドームで開催した『U-COSMOS』に出場し、安生洋二と異種格闘技戦を行なったことだった。
当時はUWFが絶大な人気を得ていた。そんな新興団体への参戦はプロレスファンにも自分の名前を売る絶好のチャンスだった。安生と激闘を繰り広げた末に引き分けたチャンプアの名は瞬く間に日本のプロレスファンの間にも浸透し、一時はムエタイのアイコン的な存在になっていた。
実をいうと、88年11月5日にはシュートボクシングが招聘し、シーザー武志と闘う予定だったが、ケガを理由にチャンプアは土壇場で来日をキャンセル。シーザーとの一戦は幻の対決に終わっている。その20日後、チャンプアはアメリカのリングに立っている。おそらく、当時のムエタイのナンバーワンプロモーター、ソンチャイ氏が日本とアメリカのファイトマネーを天秤にかけたうえで、後者を選択したと考えられる。
いずれにせよ、安生と闘ったことで日本におけるチャンプアのネームバリューは高騰し、90年からは〝プロレスラーと闘ったムエタイファイター〟としてMA日本キックや全日本キックといった国内のキックボクシング主要団体に上がるようになる。
チャンプアの得意技はミドルキック。一流のムエタイファイターならなんでもできるのが当たり前で、チャンプアもそうだっただろう。中でもミドルの切れ味やタイミングは群を抜いていた。チャンプアのミドルを見て、ムエタイに興味を抱いたプロレスファンもいたのではないか。
この連載でも大きく取り上げた佐竹雅昭vsドン・中矢・ニールセンが実現した90年6月30日、全日本キックの日本武道館大会では当時アメリカキック界の中量級の第一人者だったデル〝アポロ〟クックとの一騎討ちが実現し、2回TKO勝ちを収めている。この一戦は珠玉の名勝負として、いまだにキックファンの間で語り継がれている。
ちなみに相手のクックは90年5月23日、地元の米オクラホマ州タルサでムエタイvsレスリングなどのリアルファイトの異種格闘技戦の興行を実現させるなど、UFC誕生前の米国MMAの源流をつくったひとりでもある。
チャンプアは日本で〝偽物〟のヨーロッパの強豪と闘ったこともある。91年5月24日、MA日本キックに来日した彼はのちに『UFC2』にも参戦するオランダの強豪、オーランド・ウィットと対戦する予定だった。パンフレットにも対戦相手としてウィットの写真が掲載されており、リングアナウンサーも「オーランド・ウィット」とコールした。
だが、リングに上がった選手は替え玉だった。その正体はマーロン・ベンジャミンという無名の選手だったのだ。チャンプアに2回KO負けを喫したベンジャミンは本名を明かしたうえで、「今日、本物のウィットはドイツで試合をしている」と語っていた。チャンプアに罪はないが、あってはならない替え玉事件に巻き込まれていたのだ。
■ムエタイの看板と〝無差別級最強幻想〟
K-1には93年4月30日の第1回大会からトーナメント参戦を果たしている。チャンプアのベストウェートは70~73㎏程度だったと思われるが、当時のムエタイに純粋なヘビー級戦士はいなかった。ムエタイの二大殿堂といわれるルンピニーとラジャダムナンの両スタジアムが認定する各階級のランキングもミドル級までしか存在しない。
前述のソンチャイ氏の意向で、チャンプアは70㎏以上のムエタイの代表として闘わざるをえなかったのだ。ただ、体格のハンディなど関係なく、チャンプア人気は凄まじかった。当時隔週で発行されていた専門誌『格闘技通信』が応募したK-1の人気ランキングで、チャンプアはピーター・アーツ、佐竹雅昭、モーリス・スミス、スタン・ザ・マンに続く第5位につけている。裏を返せば、チャンプアはヘビー級揃いの中でも、それだけ期待されていた中量級ファイターだったのだ。
振り返ってみれば、日本での初お披露目となった安生との異種格闘技戦も体重のハンディがあるうえでの一戦だった。チャンプアを支持するファンの中には「チャンプアだったら、ヘビー級の選手と対峙しても大丈夫」という楽観論があったのではないだろうか。
決戦2日前には東京・高田馬場で正道会館の東京本部道場のお披露目があり、K-1に出場する選手たちがデモンストレーションを行なった。チャンプアはミット打ちを披露したが、そのときに道場内で発生した声援のボルテージはアーツやアンディ・フグに次ぐものだったと記憶している。
試合の3日前に行なわれた記者会見では一回戦の組み合わせが発表され、チャンプアはブランコ・シカティックと闘うことになった。両者が並ぶと会見場でどよめきが起こった。ふたりの間には14㎝もの身長差があったからだ。
それだけではない。前日計量では16㎏も体重差があることも判明した。今なら「体格差がありすぎ。組むべきではない」という良識派の意見が幅を効かせてもおかしくない。しかしながら、当時の格闘技界にはまだ〝無差別級最強幻想〟が残っていた。佐竹が2年連続優勝を果たした『カラテ・ジャパン・オープン』もそうだったし、93年11月12日に米コロラド州でスタートするUFCも当初は無差別級で争われていた。
〝立ち技最強〟と呼ばれて久しいムエタイの看板を背負わされたチャンプアも、無差別級最強幻想の中で生きていたのだ。(つづく)
●布施鋼治(ふせ・こうじ)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など