ライトヘビー級相当の『K-2 GRAND PRIX '93』にも参戦したチャンプア・ゲッソンリット。体格差のあるアーネスト・ホーストと決勝戦で真っ向勝負した ライトヘビー級相当の『K-2 GRAND PRIX '93』にも参戦したチャンプア・ゲッソンリット。体格差のあるアーネスト・ホーストと決勝戦で真っ向勝負した

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第11回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

チャンプアのベストファイト『K-2 GRAND PRIX '93

2012年夏、タイのリゾートビーチとして知られるパタヤ。そんな風光明媚な観光地のイメージとはかけ離れた古ぼけたムエタイジムに入ると、そこには見覚えのあるファイティングポーズの写真が飾ってあった。

写真の主はチャンプア・ゲッソンリット。1990年代、必殺の左ミドルキックを武器に当時ムエタイ界では押しも押されもせぬ中量級ナンバーワンのファイターだった。

ムエタイの選手の多くはリングネームの後ろの部分にジム名かスポンサー名をつける。チャンプアの場合はジム名(=ゲッソンリット)だったが、2000年初頭にゲッソンリットジムの会長が他界。以前からの知り合いだったパタヤのジムのオーナーに声をかけてもらい、トレーナーとして雇ってもらうことになったという。

歴戦の強者と呼ぶに相応しい風貌になっていたチャンプアを目の当たりにして、筆者は96年7月中旬、タイ東部のブリラムでチャンプアの実家を取材したことを思い出した。

当時はフジテレビ系で『SRS』という格闘技情報番組がレギュラー放送されており、番組のブレーンを務めていた筆者は取材クルーと共に、ブリラムで武蔵がムエタイの世界王座に挑戦するのに合わせ、会場と同じ県にあったチャンプアの家に立ち寄ったのだ。

ちょうどオフだったのだろう。チャンプアは実子と共に、ジュースから石鹸まで日用品ならほぼなんでもそろう万屋(よろずや)で店番をしていた。日本からテレビクルーが来たということで、チャンプアの店の周りにはまたたく間に人だかりができた。彼はときおり照れくさそうな表情を浮かべながら、淡々とインタビューに答えていた。

そのときのチャンプアと比べると、目の前にいるパタヤの彼はほとんど別人に映った。家族の近況について尋ねると、「ブリラムにいる」と語るにとどまった。もう少し詳細を聞き出そうとすると、「もういいだろう、家族の話は」と不機嫌になった。なんとなく察しがついたので、話題を変えるしかなかった。

チャンプアは93年4月30日に行なわれた『K-1 GRAND PRIX '93』で組まれたブランコ・シカティックとの1回戦で1ラウンドKO負け(※この大会は1回戦と準決勝はカウント5でKOというルールで実施)を喫するまで、日本では負けたことがなかった。

試合後、チャンプアはのちに"石の拳"と形容されるようになるシカティックの右について次のように本音を漏らしている。

「相手がデカすぎた。パンチは効いたよ」

K-1におけるチャンプアのベストファイトといえば、93年12月19日、両国国技館で行なわれた『K-2 GRAND PRIX '93』での3連戦だろう。K-2は82㎏以下、つまりライトヘビー級強の契約体重で争われる世界トーナメントだった。もちろん普段70㎏級前後で闘うチャンプアにとってはハンディがあったが、K-1のときほどではない。

このトーナメントでチャンプアは1回戦でライバルの〝キックの帝王〟ロブ・カーマンを、続く準決勝では"豪州のリアルギャング"タシス・トスカ・ペトリディスを連破。"黒い閃光"アーネスト・ホーストとの決勝戦に臨んだ。

『K-2 GRAND PRIX '93』におけるライバル、ロブ・カーマン(右)との一戦 『K-2 GRAND PRIX '93』におけるライバル、ロブ・カーマン(右)との一戦

この時点で大会の主役はチャンプアだった。それはそうだろう。大方の予想では優勝候補だったカーマンとの初戦で、チャンプアの姿は消えているはずだったのだから。続くトスカとの準決勝では相手の試合開始後の反則に珍しく激昂。いつものポーカーフェースをかなぐり捨て、2度に渡るローブローという倍返しで報復した。そんなふうに初めて怒りモード全開で闘ったことも観衆の心を掴む要因となったのだ。

8ヵ月前のシカティック戦を含め、93年のチャンプアは日本人が大好きな"小よく大を制す"を実践するファイトを続けるだけの勇気を持ち合わせていた。しかも、小細工はなし。思い切りサークリングしながら距離をとって闘ったりすることもなかった。どんな大きな相手にも左のミドルとストレートを武器に真正面から渡り合う。本来ならば変化球で勝負しなければならないのに、それをよしとしないのが彼の真骨頂だった。

K-2の決勝戦で対峙したホーストとも身長で15㎝、体重で5㎏もハンディがあったが、そんなこともお構いなしにチャンプアは正面から闘おうとした。白眉は2ラウンド、ホーストのハイキックを3発ももらいながら、「もっとこい」とばかりにファイティングポーズを取り直したシーンだろう。

しかし、ここまでが限界だった。4R、ホーストの右ストレートでダウンを喫した直後、右ハイによってチャンプアは深々とキャンバスに沈んだ(K-2は決勝のみ3分5R制で争われた)。この一撃でチャンプアは完全に失神。舌を巻き込むような危ない状況だったので、一時場内は騒然となった。試合が終わってもほとんどの観客が席から立とうとしなかったのは、チャンプアの安否を気づかったからにほかならない。

それから18年、パタヤのチャンプアはホーストとの激闘を振り返った。

「これまでに数えきれないほど闘っているので覚えていない試合も多いけど、後ろから来るホーストのハイはよく覚えている。あれは効いたね」

チャンプアはK-1のほか、MA日本キックや全日本キックなど1990年代当時の主要キック団体で闘った チャンプアはK-1のほか、MA日本キックや全日本キックなど1990年代当時の主要キック団体で闘った

■チャンプアは今どこに?

チャンプアは95年7月16日に行なわれた『K-3 GRAND PRIX '93』(75㎏以下)にも出場している。Kの頭文字がつく3つのカテゴリーの世界トーナメントに出場した選手はチャンプアと後川聡之しかいない。

ウエート的にはK-3がベストだったと思われるが、一回戦でホーストと並ぶボスジムの二枚看板だったイワン・ヒポリットの左フックの前に2ラウンドKO負けを喫している。ヒポリットは2回戦で後川、決勝戦で金泰泳を破り優勝した。

結局K-1では11戦闘っているが、チャンプアは「あまりいい思い出はない」と呟いた。

「勝ってもファイトマネーは安かったし、負けたらほとんどもえらないときもあったからね」

K-1が支払ったファイトマネーから法外のマージンが引かれていたのか。ムエタイの搾取の構造を目の当たりにした気がした。ただその一方で、ある関係者からは「タイ人の中では日本で一番稼いだ選手のはず」という正反対の話も聞いた。どちらが正しいのかはわからない。

あれからチャンプアはどうしているのか。2019年には静岡のジムに短期間ながら招かれ、トレーナーをしていたことが判明した。帰国後、パタヤのジムは離れたが、ジム近くのアパートにはずっと住み続けていたという。

4年前にチャンプアを招聘した土屋ジョーさん(キックの元全日本バンタム級王者)は最近パタヤを訪れたが、彼と再会することはなかった。

「チャンプアが住んでいたアパートに行ったけど、もぬけの空でした。電話をかけても通じない。現地でチャンプアを知る人は『田舎に帰ったんじゃないか』と言っていましたね」

突然連絡がつかなくなるタイ人はよくいるが、チャンプアもそうなってしまうとは......。 

ちなみにチャンプアとはタイ語で「白象」を意味する。タイでこの動物は王を守り先頭を切って戦う勇気と誇りの象徴と見なされている。その一方で象は自分の寿命を悟ると、人前から姿を消すという伝説がある。 

チャンプアは本名のソムチャーイ・ロープクウェーンに戻り、田舎で平穏な余生を送っているのか。

●布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など

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