"スマイル・アサシン"寺地拳四朗が9月18日、WBA・WBC両王座の防衛戦に臨む。今年4月の前戦では「年間ベストバウト級」と称された壮絶な打ち合いの末、KO勝利し、見る者の心を震わせた。
井上尚弥に続く、日本人ふたり目の「世界4団体王座統一」も期待される拳四朗が、これまでのボクシング人生、ターニングポイントとなった試合を語る。
■ボクサーではなく競艇選手が目標だった
輪島功一をはじめ、3人の世界王者を輩出した三迫(みさこ)ジム。この老舗ジムを、寺地拳四朗(てらじ・けんしろう)は東京の練習拠点としている。地元・京都と往来しながらここで出稽古を続ける目的は、トレーナーの加藤健太に教えを請うためだ。
「加藤さんと出会ってボクシングの奥深さを知り始めました。やっとです。今はそんな充実感があります」と、拳四朗は人懐っこい笑顔で語る。
2017年5月に東京で開催された世界タイトル初挑戦時、三迫ジムのサポートを受けたことをきっかけに、ふたりの師弟関係は始まった。
父親の寺地永(ひさし)は日本と東洋のベルトを巻いた名ボクサーで、拳四朗の所属ジム(B.M.B)の会長。「拳四朗」の名は「強い男に育ってほしい」との願いを込めて父がつけた。しかし、幼少期は四角いリングに興味を持つことはなかった。柔道、サッカー、軟式テニスに取り組んだが夢中になることもなく、ごくありふれた少年時代を過ごした。
きっかけは高校進学だった。成績が芳しくなく、一般受験で進める高校は地元に見つからなかった。父のつてをたどってようやく見つけたのが、ボクシング部入りを条件に推薦してもらえる県立奈良朱雀高校(現・奈良商工高校)だった。
「『高校行けへんかったら、アメリカ行け』って言われてたんです。お父さんの知り合いがアメリカでお店をやってて、そこで働けと。怖いじゃないですか、中3には。アメリカに行きたくないからボクシング始めたんですよ」
ほかに選択肢もなく始めたボクシング。楽しいはずもなく、やらされるまま練習をこなす日々だった。辞めたくても顧問の先生が怖くて打ち明ける勇気もない。「とにかく高校卒業までの我慢」と自分に言い聞かせた。そんな本心とは裏腹に、全国レベルで目覚ましい成績を収め続けた。
「でもイヤイヤやっていたので、誰とやったのかはほとんど覚えてないんです。プロになってから『高校時代に対戦しました』とか言われても、『わからんな』って(笑)」
プロボクサーになって世界のベルトを巻く自分の姿など想像したことすらなかった。いとこが選手だった影響もあり、「稼げる仕事」という理由で競艇の世界を目指していた。スポーツ推薦枠で入学した関西大学でもボクシング部に入ったが―。
「仕事としてやりたいと思っていたのは競艇選手。でも結局、試験に落ちてしまって」
高校、大学時代に1度ずつ競艇学校の試験を受けたものの不合格。一般企業に就職して働く自分も想像できなかったのでプロボクサーになったが、それも「日本ランキング5位以内になれば競艇学校の推薦が受けられる」という理由だった。
22歳でプロデビュー。6戦目で日本タイトル、8戦目で東洋タイトルを獲得。そして10戦目で早くも世界のベルトを手に入れた。
「日本5位以内に入ってみたら、日本とか東洋のベルトが見えてきて、その後、世界ランキングにも入れた。これはもしかしたら、世界チャンピオンになれるんちゃうかって。それで、実際に世界を獲とれた頃にようやく、ボクシングを仕事にして食べていこうと思うようになりました」
■9度目の防衛戦でボクサー人生初の挫折
そんな拳四朗から「言われたとおりに戦えば必ず勝てる」と全幅の信頼を寄せられる加藤。愛弟子(まなでし)の第一印象はどうだったのか。
「『彼は必ず世界を獲る』と思いました。それ以前に試合を見る機会はなかったので、噂で聞いていたように、ぴょんぴょん跳ねるようにステップを踏む感じなのかなと思ってました。でも実際に見たら全然浮いてないし、体の芯がしっかりしていてブレがない。初めてミットを持ったときはパンチのクオリティの高さ、一点を的確に打てる技術に驚きました」
加藤は拳四朗の才能に感服した。と同時に危うさも感じた。世界初挑戦の相手はサウスポーのガニガン・ロペス(メキシコ)。拳四朗は僅差で判定勝利を収めたが......。
「このままではいずれ苦戦すると思いました。対サウスポーの基本的な戦い方、距離感を理解していない気がして、そこを伝えたいと思ったことが指導するきっかけでした」
5ヵ月後の初防衛戦は辛勝。拳四朗は当時の自分を「センスと気合いだけで戦っていた」と振り返る。世界レベルになれば、それでは通用しなくなるのは明らかだ。自分から加藤にアドバイスを求めることも多くなっていった。
3度目の防衛戦はロペスとの再戦。試合は序盤から圧倒し、2回に右ストレートでボディを打ち抜きKO勝利。その後も拳四朗は危なげなく防衛を重ね、"絶対王者"と称されるようになった。
無敗の王者がボクサー人生初の挫折を味わったのは21年9月22日、9度目の防衛戦だった。
「余裕で勝てるやろな」
挑戦者が矢吹正道(まさみち)(緑)に決まったとき、拳四朗は自信満々だった。しかしいざ試合が始まると4回までの公開採点ではジャッジ3人中2人がフルマークで矢吹優勢。8回終了時には3者とも矢吹優勢という窮地に陥った。
「思ったようにポイントが取れなかった。焦りました。最後はいくしかねーって感じで、ただただ必死に手を出すだけでした」(拳四朗)
互いに譲らない意地のぶつかり合いに会場は大歓声に沸いた。ところが9回にアクシデント。矢吹が飛び込みながら前に出た瞬間、頭突きのような形になり、拳四朗は右まぶたをカットし大出血したのだ。レフェリーはパンチによる傷と判断し試合続行。10回、拳四朗は玉砕覚悟で打ち合いを仕掛けるが、返り討ちに遭いTKO負け。4年以上保持した世界王者の称号を失った。
「負けたら引退と決めていたので、シンプルに『終わったな』って感じでした。控室に戻ってひたすら泣いていた記憶があります。負けた瞬間はショックやから放心状態でしたが、少し時間がたつと、これからどうやって生活していけばいいのか、何して働こうかとか考えました」
家に閉じこもり、人目を避ける生活を続けた。矢吹との激闘が評価されればされるほど、不甲斐(ふがい)なさを覚えた。
「日々、悔しさが募ってきました。なんで負けたんやと。悔しい気持ちを一生引きずりたくない、再戦できるならやりたいと。それで、周りが動いてくれたおかげで再戦が決まって、ヨッシャ!と」
矢吹との再戦は翌年3月19日にセットされた。「プロボクサーとして生きる自分と初めて真剣に向き合った」という拳四朗は年明け、三迫ジムに顔を出した。このとき、加藤とある約束を交わした。
「もし負けたとしても、試合後の記者会見は堂々と受けよう」
■「負けることは恥ではない」
矢吹との初戦。拳四朗が自信に満ちあふれていた一方で、加藤は「厳しい試合になるかも」と不安を覚えていた。
「矢吹選手のインタビュー記事などもすべて確認していましたが、執念というか、拳四朗一本狙いで、めちゃくちゃ研究している様子が伝わってきた。それでも、その上をいけると思っていました。4回までの採点が発表されるまでは、『やっぱり上いってるでしょ』くらいの気持ちでしたから」
ジャブを有効打と認められなかったことが誤算で、陣営の歯車は狂った。
「最後は苦肉の策でした。あんな打ち合う練習なんてまったくしてない状態でいけば、それは負けますよ。拳四朗は指導したとおり再現してくれるので、あの敗戦は100パーセント、自分の責任と思っています」(加藤)
矢吹との再戦が1ヵ月後に迫ったある日、加藤は拳四朗にこう話し約束を交わした。
「負けることは恥ずかしいことではない。ここまでがんばってきたことが大切。もし負けたとしても、試合後の記者会見は堂々と受けよう」と。
「矢吹選手に負けてひどく落ち込んだ拳四朗は、試合後の会見に出ることをすごく嫌がっていた。治療のため病院に行くこともあり、周りが気を使って会見はなしになりましたが、そんな姿を見て、『ボクサーとしては一流でも、人としてはまだまだ弱いな』と感じました。勝とうが負けようが関係なく、堂々と会見を受けてほしかった。勝ってうれしいときよりも、負けてつらいときのほうが、本当の人間性が出ますよね。逃げ去るように会場を後にした姿が目に焼きついて離れなかった」
当時について拳四朗はこう振り返る。
「加藤さんから『負けることは恥ではない』と言われたとき、最初は意味がよくわかりませんでした。でもだんだん理解できるようになった。初めて負けたことで、負けた人の気持ちもわかるようになりました。応援してくれる人たちに対する感謝の気持ちも、より深まった気がします」
敗戦を機に、加藤と拳四朗は大幅なモデルチェンジに取り組んだ。それまではフットワークを駆使したアウトボクシングで評価されてきたが、「体の芯がしっかりしていて軸にブレがない」「一点を的確に打てる」という本来の強みを再確認し、攻めるボクシング、打ち合って勝つスタイルに変えたのだ。矢吹との再戦が決まって以降は相手陣営に知られないよう情報管理を徹底し、公開練習ではそれまでと同様にアウトボクシングを披露してみせた。
迎えた再戦―。
拳四朗は初回からガードを固めながら距離を詰めていった。3回、左ボディの連打で動きを止めると、下がる矢吹を追い込み、最後は右ストレートを打ち抜きKO。半年ぶりに世界のベルトを取り戻した。勝利のゴングの音を聞いた瞬間、真っ先に加藤に駆け寄り抱きついた。
「マジで殺してやる!くらいに、気合いが入っていました。ただ怖さもあった。一度負けた相手やから、次負けたらほんま終わりじゃないですか。でもそれ以上に勝つ自信があった。加藤さんに教えてもらったボクシングをして、それでも負けたらしゃあないって、いい意味で開き直れた」
9月18日、有明アリーナ。拳四朗は元2階級制覇王者で、現WBC1位のヘッキー・ブドラー(南アフリカ)の挑戦を受ける。近い将来、4団体王座統一を狙うためには圧倒的な勝利が期待されるが、今後の拳四朗のボクシングについて加藤はこう語る。
「矢吹選手とのリマッチ以降、激しく打ち合うボクシングで評価されましたが、芯の部分を見て、ただ殴り合うだけとは違う『拳四朗のボクシング』をつくることを意識してます」
一方、拳四朗は、「4団体統一を目指す理由はシンプルに強さがわかりやすいことと、みんなが喜んでくれるだろうなという思いがあるから。僕自身はそこまで深いこだわりはないかもしれない」と笑う。
成り行きでグローブをはめたこの天才ボクサーは今、唯一無二の参謀、加藤と共にボクシングそのものを追求し、高みを目指している。
●寺地拳四朗(Kenshiro TERAJI)
1992年生まれ、京都府出身。B.M.Bボクシングジム所属。関西大学卒業後、2014年プロデビュー。6戦目で日本王座、8戦目で東洋太平洋王座を獲得し、17年、10戦目でWBC世界ライトフライ級王者になり8度防衛。21年9月に矢吹正道に敗れ陥落するが、翌年3月の再戦を制し王座返り咲き。22年11月には京口紘人を破りWBA王座も獲得。23年4月に予定されたWBO王者との3団体王座統一戦は相手の病気により中止となったが、代役出場したアンソニー・オラスクアガ(米国)との壮絶な打ち合いを制し王座防衛。22戦21勝(13KO)1敗