プロ野球(NPB)の名ショートから独立リーグ屈指の名将となっていた弓岡敬二郎 プロ野球(NPB)の名ショートから独立リーグ屈指の名将となっていた弓岡敬二郎
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第1回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎に密着する。(文中敬称略)

■イチロー、田口を育てた達人ノックは健在

2023年7月12日、四国アイランドリーグplusに所属する、愛媛マンダリンパイレーツの取材で愛媛県松山市に向かった。目的は1988年にその名が消滅した阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)の名ショートとして活躍し、指導者としては、のちにメジャーでも活躍する若き日のイチローや田口壮を育てたことでも知られる、愛媛MP監督の弓岡敬二郎に会うためだ。

名将・西本幸雄から上田利治が指揮官を引き継いだ1970年代は、リーグ4連覇を含む優勝6回、日本シリーズ3連覇と圧倒的な強さを誇った阪急ブレーブス。弓岡が活躍した80年代は上田監督の第二次政権(81~90年)で、当時は西武ライオンズの黄金期だったが、84年には6年ぶりにリーグ優勝するなど、まさにパ・リーグを代表する老舗球団だった。

松山市内の中心地から車で30分弱。Jリーグ愛媛FCのホーム、ニンジニアスタジアムを望む山間にある「ひめぎんグラウンド」が愛媛MPの練習場所だ。午前10時に現地到着。照明設備のない土のグラウンドでクラブハウスもなく、休憩場所はクーラーのない、年季の入った高校の部室のような建物だった。

松山市の郊外にある練習場所「ひめぎんグラウンド」 松山市の郊外にある練習場所「ひめぎんグラウンド」
「はじめまして、弓岡です」

全体練習はすでに始まっていた。球団広報の紹介に笑顔で迎えてくれた弓岡。身長172cmと、元プロ野球選手としては小柄で痩せ型。杖をつくようにしてバットを持って歩き、微笑みを浮かべる穏やかなその表情からは、守備では球界屈指のショート、打者でもチャンスを繋げる職人肌の2番として名を馳せた当時の姿を想像するのは難しい。

御年65歳。しかし、ノックを始めようと杖代わりのようにしていたバットを持ち上げ、コーチから渡された白球を宙に浮かべてコンパクトに振り抜いたスイングは、まさに職人芸。鋭い打球が砂埃を捲き上げながら、三遊間、守備についた選手のグラブが届くか届かないかの絶妙のコースに飛んでいった。のちのインタビューで、膝を痛めた影響で昔と同じように走ったり、長時間ノックをしたりするのは難しいことを知ったが、それでもバットを握れば超一流のコントロールを披露した。

吹き出す汗もあっという間に乾いてしまうような暑さのなか、弓岡は休む間もなく、守備、打撃と自ら手本を示しながら指導した。昼の休憩はわずか40分。さっと軽食で腹を満たし、午後の練習メニューを確認する。

午後3時、ようやく全体練習が終了した。木陰を探してベンチを2つ並べ、 グラウンド脇でインタビューを開始した。

グラウンドの筋トレルームは、高校の部室のような質素な建物 グラウンドの筋トレルームは、高校の部室のような質素な建物
■突然の解雇通告に、「なんか仕事ないですか?」

弓岡は現在、2度目となる愛媛MPの監督就任で指揮を取っている。最初は2014シーズンだった。選手時代を含め33年間も過ごしたNPB球団を何の前触れもなく解雇されたことがきっかけだった。

「オリックス二軍監督のとき、前年10月28日ですかね。フェニックス・リーグ(第19回みやざきフェニックス・リーグ)が終わって神戸に戻ったとき、次の日に呼び出されて、『クビです』と言われました。『え、なんか仕事ないですか?』『いや、ありません』と(笑)。それで、当時阪神のスカウトで四国をまわっていた東洋大姫路高の先輩の山川さん(※)に相談して、愛媛を紹介していただきました」

(※ 山川猛氏は西武、阪神に所属した元プロ野球選手で、現在は富山県立氷見高校の野球部コーチ。今年の選抜大会で、大半が氷見市内出身の部員17名を率いて甲子園出場に導いた)

「社長がわざわざ神戸まで来てくれて話してもろうて。『ぜひ、愛媛でお願いします』と。『これでまたちょっと生きられるな』と思うてね。いろいろ波もあって人の入れ替わりはあるから、それはしょうがない、この世界におったらね。1、2年でクビになる人もおるなかで、阪急、オリックスで30年以上もやらせていただいたことは、ありがたいことでした」

弓岡は青天の霹靂(へきれき)で古巣を離れ、同じプロでも「独立リーグ」という新たな世界で野球に取り組むことになった。NPB時代とはさまざまな面で違う状況に戸惑うこともあった。

「独立リーグの指導者は、やることはやっぱり多いですよね。NPBは担当がきちんと決まっとるからね、担当の仕事だけやりゃあいいんですけど、ここではいろんなことをやらないといかんから、まあしんどいはしんどいですよね。でも、やる野球は一緒ですけどね。

選手のレベルは、もちろん落ちますわね。(NPBの)ドラフトにかからん選手が来てるんですから。でも夢は持ってますから。『これはなんとかしたらな、いかんな』と思いました。練習環境も、愛媛は他の3県に比べたら全然良いわけで。あとはもうやりようで、技術もさることながら、やっぱり気持ち。ファーム(オリックス二軍)でも僕は甘いと思ってたんですよ。でも、ここは余計甘かったですね。

『お前ら、この程度の練習でNPB行ける思う? みなもっとやってるよ。実力ある連中のほうが練習してるようじゃ、差は縮まらへん』と。俺は独立リーグからNPBに行くんだ、という気持ちをどう奮い立たせるか常に考えました。今も同じですが、『ここでやってる練習は、やらされてる練習や。自分ひとりで、誰も見てない所でやる練習が一番身につくんやで』ということは散々言うてきました」

四国アイランドリーグplusの年間の公式戦は前期、後期に分けて開催される。就任初年度、前期は最下位で後期は2位。翌2015年シーズンは後期優勝し、NPBでいうポストシーズンにあたるリーグチャンピオンシップも制して年間総合優勝。さらに、他地域の独立リーグ優勝チームと戦うグランドチャンピオンシップも勝利し「独立リーグ日本一」に輝いた。そして就任3年目、16年は前期、後期、リーグチャンピオンシップのすべてを制する「完全優勝」という快挙を達成した。

2016年、弓岡率いる愛媛は独立リーグで完全優勝を成し遂げた(写真提供・愛媛MP) 2016年、弓岡率いる愛媛は独立リーグで完全優勝を成し遂げた(写真提供・愛媛MP)
「完全優勝したり、独立リーグ日本一になれたりしたのは、自分の指導力というよりも、良い選手に恵まれ、良いコーチに恵まれたからです。よう練習させましたよ、当時のコーチ陣、本当に熱心やったです。今のコーチも熱心ですけど、ちょっと違う熱の入れ方いうんですかね、みんなで『絶対勝つんや。絶対勝つぞ!』としょっちゅう言うてました。

今も変わらないですが、負けてチンタラ、『今日は負けたって、しゃあないな』というような態度が感じられたら、けっこうきつく言いますわね。『俺らもプロやで。銭もらってるんや!』って。

あと忘れてはいけないのは、14年シーズンに在籍したキャッチャーの横山(横山徹也/現・楽天ブルペン捕手)。僕がクビになって愛媛に来たとき、横山もクビになってトライアウトを受けたけどダメで、『弓岡さん、1年だけやらせてくれませんかね』と。『ええよ。その代わりキャッチャー育ててくれ』とお願いした。

1年間、もう、とことんやってくれました。横山が若いキャッチャーを育ててくれたおかげで、そのあと勝てたようなもんです。キャッチャーは簡単には教えられへんのですよ。難しい。それはだいぶ助かりました」

■背番号77を永久欠番にしてくれたチームに恩返し

独立リーグでの実績を評価された弓岡は、16年シーズン終了後、3シーズン過ごした愛媛を退団し、再びオリックスに戻ることになった。愛媛MPは弓岡の功績を讃えて、背番号「77」を永久欠番に指定した。

「うれしかったですよ。まさか愛媛でね、こないして評価していただけるとは思ってもみませんでしたから。野球選手冥利に尽きますわね。ありがたいことです」

縁もゆかりもなかった四国、愛媛の地で花開いた指導者としての第二の野球人生。弓岡はオリックスに戻ってからも、いつの日か、快く送り出してくれた愛媛MPに何かしらの形で恩返しがしたいと考えていた。

愛媛を離れて6年。63歳になっていた弓岡は、若返りを図りたい球団の意向もあり、21年シーズン限りで再びオリックスを退団することになった。

「シビアな世界です。でもこれだけ長いことやらせてもろうたら、十分ですけどね」

いの一番、弓岡は近況報告も兼ねて愛媛MPの事務所に連絡を入れた。すると2時間後、オーナーから直々に折り返しがあった。

「ぜひもう一度、愛媛のユニフォームを着ていただけないでしょうか」と。

2021年11月18日──。22年シーズンは弓岡が再び愛媛MPの指揮を執ることが発表された。

当時、愛媛MPは3期連続最下位に沈んでいた(20年シーズンは新型コロナウィルス拡大の影響で1シーズン制を採用)。離れていた5年間で、選手レベルや指導のあり方、地域での役割など、チームや独立リーグを取り巻く環境は大きく変わっていた。

弓岡自身も、16年シーズン後に愛媛MPを退団して以来、監督としての指導はしておらず、特に直近2シーズンはフロント側、スーツ姿で球団事業や運営関連の仕事、あるいは解説者として活動していた。

久々に袖を通したユニフォーム。懐かしさと同時に身の引き締まる思いで、弓岡はゼロからチーム作りを始めた。

(第2回につづく)

再び愛媛で指揮を執ることになった弓岡監督の就任会見(写真提供・愛媛MP) 再び愛媛で指揮を執ることになった弓岡監督の就任会見(写真提供・愛媛MP)
■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

■会津泰成(あいず・やすなり)
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など

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