【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第3回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章の第3回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎に、監督として影響を受けた恩師について聞く。(文中敬称略)
■「日本一のショート」が骨折でチャンス到来
2022年シーズンから、6年ぶりに愛媛マンダリンパイレーツの監督に就任した弓岡。彼が野球人として誰よりも敬愛し、「監督」という仕事において手本としているのが、「熱き知将」と呼ばれた上田利治だった。
弓岡は11年間の現役生活のうち、引退した最終年を除いた10年間、上田監督に仕えた。阪急ブレーブス時代、一度退任した後で監督に返り咲いた上田と同じように、大きな期待を寄せられるなかで再び指揮を執る弓岡に、恩師との思い出を聞いた。
1980年、社会人野球の名門、新日鉄広畑からドラフト3位で指名されて阪急に入団した弓岡。上田はそれと時を同じくして監督復帰が決まった。
社会人時代から守備では高い評価を受けていた弓岡は、当時「日本一のショート」と評価された大橋穰(ゆたか)に代わってレギュラーに定着し、新人ながら全試合出場を果たした。
「とにかく必死。もう、やらなあかん!っていうだけ。吉沢さん(※1)、八木さん(※2)、同じポジションにすごい先輩がいました。けど、周りがどうのこうのじゃなしに、とにかく必死に練習しました。
(※1 吉沢俊幸は76年ドラフト3位。入団時、大橋の後継者と期待されたが、後に外野手に転向)
(※2 八木茂は79年ドラフト3位。弓岡の入団前年は92試合出場。うち40試合は内野手で先発)
大橋さんはめちゃめちゃ肩が強くて、守備範囲が広い。あれだけ深い位置に守れば浅い位置の打球はどうかな思うたら、足も速いから問題なくさばける。絶対敵わんなあと思いました。でも、たまたま大橋さんが春季キャンプで右肩を骨折してしもうて、チャンスが回ってきた。僕はうまいことスッと入ってしもうたんやけど、まあこれも運ですからね。運で生きとるみたいなもんで(笑)」
当時、ショートの選手に求められたのは打撃以上に守備の能力だった。連係プレーにおける高い精度や、盗塁、牽制に対してのカバーなど守備の要だった。弓岡は、守備に関しては上田監督にも名手・大橋の後継者と認めてもらえるセンスを持ち、小柄で俊敏な動きから往年の名ショート、阪神・吉田義男の異名「今牛若丸」にちなみ、「牛若丸二世」と称された。
「上田監督は、大橋さんに対してもそうでしたけど、守備が良ければ打つほうは目をつむってくれるわけですよ。僕も守備はそこそこできたから、辛抱して使ってもらえた。7回、8回になったら代打が出て交代というのがようありましたけど、先発で使ってもらえたいうのは、ありがたいことでした。せやから、上田さんが監督やなかったら、僕はレギュラーになれなかったかもわからんですよね。
打つほうは全然ダメでね。先輩からは『おいユミ、早うウエスタン(二軍)帰れ』って、ようからかわれました(笑)。ボールが前に飛ばんかったからね。うわ、これはまずいな思うて、全体練習が終わったら残って一人でウェイト・トレーニングをようやりました。で、ちょっとずつ体もできてきましたけど、最初はまあ細かった。しんどいとか、そんなん関係なしに、一軍で使ってもらうためには目一杯いかなあかんなと」
■臨時コーチの指導で打撃力アップ
守備は一級品だが打撃は非力。当初は9番が打順の定位置だった。しかし、2シーズン目を終えた秋、上田監督が臨時招聘したコーチとの出会いが、大きく好転するきっかけになった。
現役時代は「シュート打ちの名人」と呼ばれてプロ野球史上初の300本塁打、2人目の2000本安打を達成、数々のタイトルを獲得して野球殿堂入りした山内一弘だ。
「山内さんが臨時コーチで来て、熱心に教えていただきました。僕の場合、長打は捨てて、バットを短く持って球に逆らわず確実に弾き返す打法ですね。合うか合わんか知らんけども、この人にとことんついていこうと覚悟を決めて練習しました。山内さんに教えてもらった通りにやったら、翌シーズン(83年)は前年2割少し(.211)だった打率は5分(.260)も上がりました」
83年シーズン、山内臨時コーチの指導をきっかけに打率が急上昇した弓岡は、パ・リーグ最多の41犠打(前年比29増)、盗塁も福本豊に次ぐチーム2位タイの35(前年比24増)を記録し、ショートとしてだけではなく、「打って、繋いで、走って」という、なんでもできる巧打者のお手本のような活躍で、2番打者としても不動の地位を築いた。
「新人の頃は、福本さん、加藤(秀司)さんとかに、いろいろ教えてもらいながらやってたんです。『下半身使え』とか、『腕はこうや』とか教えてもらい、『はい』と答えとくけど、本当は全然わからへんわけですよね(笑)。基本的にどうしたらええのかがわからん。わかったふりして『はい』っておぼろげに答えとるだけで(笑)。
今の選手でも、僕らが『こうやろ』って言うと、『はい』と答えとるけど、本当はわかってないなと思う(笑)。『お前、本当にわかってるか!?』と聞けば、『うーん』って首傾げよる。選手が納得できるように、一からわかりやすく言ったらんとあかんなと思います」
2度目の指揮を執る上田が、大きなプレッシャーのなかで強い責任を感じ、葛藤していたエピソードを教えてくれた。
「監督・上田利治は絶対的な存在やった。ただ就任2年目の終わりだったかな。選手みんな集めて、『俺の監督としての指導、やり方が気に入らんやつは手上げてくれ』言うたこと思い出しましたわ。自分の指導の仕方が合ってんのか、間違ってんのか、選手に聞きたかったんやろね。とにかく熱い人やった。勝てん時期が続いて、優勝もせなあかんしと焦りもあったんでしょうね」
上田の再就任1年目は前期3位、後期2位。2年目は前期2位、後期5位。1シーズン制に戻った83年シーズンも2位ながら、優勝した西武には17ゲームも差を広げられた。
第一次政権時(74~78年)は5シーズンで4度リーグ優勝した。「パ・リーグに阪急の敵はなし」と言わしめ、日本シリーズでも75年は古葉竹識監督率いる広島に、76、77年は長嶋茂雄監督率いる巨人に勝利して3連覇するなど、まさに圧倒的な強さを誇った。
前回とは戦力も異なり、どれだけ強いチームでもいずれ通らなければならない世代交代の時期だったとはいえ、常に「優勝」や「日本一」を期待されたチームだけにプレッシャーは相当なものだったに違いない。そんな上田阪急が栄光の座を取り戻したのは84年シーズンだった。
前シーズンに来日し、日本式のベースボールに順応した助っ人選手が、チーム全体に活力を注入し牽引した。身長2m、体重100kgの巨体から繰り出す凄まじいパワーで、いとも簡単にホームランを量産したことから「怪人」と呼ばれた男は、実は真面目で穏やか、優しい性格でファンに愛された。
本名グレゴリー・デウェイン・ウェルズ。日本では「ブームを呼ぶ男」という意味の愛称の登録名で親しまれた、ブーマーである。
■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている
■会津泰成(あいず・やすなり)
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など