会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第8回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第8回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎のもとで泥臭く野球に携わる、元ドラフト1位を取り上げる。(文中敬称略)
土埃舞うグラウンドの中、ひときわ大きな声出しで選手を鼓舞するコーチがいた。シャツの上からでもわかる逞(たくま)しい体つきは現役選手と遜色なし、いやそれ以上か。目鼻立ちの整った爽やかなルックスの彼は、野球シューズではなくゴム長靴を履いたガテン系スタイルでノックを繰り返した。
「僕らのようにまだ若いコーチの強みは、実際に動けて、プレーを見せられること。なので、自主トレーニングは可能な限り続けたいなと思います。もし試合に出たら、お前たちよりも打てるよ、と言いたいですから。
野球ができて、生活できる環境があればいいと思っていたので、それを提供してくれた球団、フロントには心から感謝しています。愛媛MPは、四国アイランドリーグにある4球団の中でも一番アットホームというか、温かい球団だと思っています。もちろんNPBとは比較にならないぐらい環境の差はありますが、日々ありがたいなと思いながらやっています」
元阪神タイガース、ドラフト1位、伊藤隼太(はやた)。
2020年シーズン限りで阪神を戦力外になった伊藤は、トライアウトを受けるも他球団からオファーは届かなかった。翌21年シーズンからはコーチ兼任選手として愛媛MPでプレーしてNPB復帰を目指した。しかし願いは叶わず、昨シーズン限りで現役引退。今シーズンからはコーチ専任として活動している。
2020年の「プロ野球12球団合同トライアウト」が開催されたのは、奇しくも大学時代に華々しい活躍をした明治神宮野球場だった。新庄剛志(現・日本ハム監督)の参加で大きく注目が集まる中、伊藤以外にも、由規(楽天)や内竜也(千葉ロッテ)、藤岡貴裕(巨人)、白崎浩之(オリックス)と5人の「元ドラフト1位選手」が参加した。
「阪神を戦力外になったとき、一度は野球から離れようと思いました。いろいろなことが重なって、もうしんどくて。18年シーズンは1年間一軍に帯同しましたが、監督が代わって19、20年とまったく一軍に呼ばれず、そのまま戦力外になりました。グラウンドに出ることも、ユニフォームを着ることもしんどいと感じるようになって、野球自体から離れたいと。
トライアウトは引退試合のつもりで受けました。両親にも最後、阪神のユニフォームを着て野球をしている姿を見せたかった。当日は久しぶりに、一軍で試合に出ていたときの感覚というか、阪神の最後は代打出場が多かったので、待っている間、名前を呼ばれるまで緊張で足が震えて、それを自分でコントロールして打席に立つ。そういう研ぎ澄まされた感覚を味わいました。
3打席目でツーベースヒットを打つことができました。応援してくれていた人たちがとても喜んでくれて、『お疲れさま』とねぎらいの言葉をかけてくれました。ものすごく達成感を覚えて、そのときに『野球、やっぱりいいな。できることならまだ続けたい』と思った......思ってしまったんですよ(笑)」
東京六大学時代は慶応の主将としてチームを牽引し、2季連続の優勝に貢献。3年時には世界大学野球の日本代表にも選ばれ、不動の4番で出場し、4試合で3本塁打、10打点という活躍を見せた。
「長打力と確実性にスター性も兼ね備えた大学No. 1野手」と評価された伊藤は、慶応の先輩のような活躍を期待され、「高橋由伸二世」と呼ばれていた。そして2011年のドラフト会議で阪神から1位指名。スケール感の大きい選手として将来を嘱望され、今度は「ポスト金本」と呼ばれるようになった。
迎えたルーキーイヤー。阪神の新人外野手としては40年ぶりに開幕スタメンデビューを果たし、新たなスター誕生を予感させた。しかし、輝きは長続きしなかった。同じライトのポジションには安打製造機のマートン。レフトには現役ラストイヤーの金本知憲がいた。センターも開幕当初は柴田講平、やがて本来は内野手登録の大和が堅実な守備でレギュラーの座をキープ。そんな布陣に割り込むことは、比較的チャンスに恵まれるドラ1ルーキーとはいえ簡単ではなかった。
「みんなよく言いますけど、プロに入って、ものすごい衝撃を受けました。当時の阪神には金本さん、マートン以外にも、城島さん、新井さん、桧山さんがいて、鳥谷さんはもちろん全盛期ですし。一流選手の打撃練習を見て、ここで生き残るのはかなりきついなと思いましたね。技術的な部分だけではなく、野球に対する取り組み方を見ても、自分はいかに緩いか、ダメかと思い知らされました。
もともと野球は大学の4年間でやめて、会社員になるつもりでいたんです。ドラフトで1位指名されたときも、ものすごく悩みました。自分の場合は子供の頃から野球、野球という感じではありませんでした。だから、プロではダメだったんだと思いますけど(笑)」
2年目も開幕一軍入りを果たしたものの、スタメンに定着できるような結果は残せず、二軍と行き来を繰り返した。以降、代打の切り札として地位を確立しかけたシーズンもあったが、ケガもありチャンスを掴みきれなかった。監督交代による方針転換や若手の台頭もあって、2019年シーズン以降は一軍での出場機会もなくなった。
NPBでの現役生活は9年間で幕を閉じた。
通算成績は365試合に出場して打率.240、本塁打10、打点59。「ポスト金本」「阪神生え抜きの4番候補」と期待を集めたことを考えれば、かなり物足りない数字だ。
「自分はプロでは突き抜けることはできなかった。自分の殻の中でしか野球ができなかった。プロは試合に出続けてナンボの世界。なのに『試合に出たい』という気持ちと同時に、いざその場になると『怖い』という思いが勝り、この緊張から逃げたいとも思っていました」
たとえアマチュア時代に大きな実績を残した選手でも、極限まで精神を追い詰められる。まして阪神という伝統ある人気球団ならば、プレッシャーは他球団よりも大きかったはずだ。その中で戦い続け、結果を残し続けなければ生き残れないのがプロ野球選手。伊藤はそれを、身をもって体感した。
「現役続行を模索する中で、たまたま声をかけていただいたのが愛媛MPでした。当初は海外でのプレーも視野に入れていました。野球を一生懸命やれるような環境にプラスアルファで、海外の文化に触れるとか、言葉、コミュニケーションとか、自分にとって何かしらプラスになると考えたからです。でも、当時はコロナの影響もあって市場も閉じてしまい難しかった。海外は難しいとなったときに愛媛からコーチ兼任のお話をいただいて、そのプラスアルファの部分を指導者の勉強に充てようと思い、入団を決めました」
「東京六大学野球のスター選手で阪神にドラフト1位入団」という、まさに絵に描いたようなエリート街道を歩んできた伊藤は、同じプロとはいえ、レベルや環境、もちろん待遇も天地の差がある独立リーグに移籍してNPB復帰を目指した。
愛媛で、現役選手として過ごした最後の2年間。
それは伊藤にとってどんな時間だったのか。現役に区切りをつけ、コーチとして新たなスタートを切った今、どんな思いを持って過ごしているのだろうか。
●弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている。
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。