会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第9回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第9回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎のもとで泥臭く野球に携わる、阪神の元ドラフト1位・伊藤隼太(はやた)に、前回に続いて話を聞いた。(文中敬称略)
NPB復帰を目指して独立リーグの愛媛MPにコーチ兼任で移籍した伊藤。しかし待っていたのは思わぬアクシデントだった。捲土重来を誓って臨んだ開幕戦、牽制球で一塁に戻る際に右肩を痛めてしまい、前期は残り試合をすべて棒に振ることになった。
過去に2度、同じ箇所を脱臼しており、このときが3度目。骨に欠損や変形がみられ、完治させるためには手術するしか方法はなかったが、NPB復帰への挑戦は1年限りと決めていたので保存療法を選択した。しかし右肩の状態は一向に良くならず、後期から出場したものの結局、シーズン終了直後の10月に手術に踏み切った。
「なんとかシーズン終盤には出られるようになればと考えていましたが、結局ダメで、ほぼほぼコーチ専任で終わりました。専任のリハビリコーチもいない中で、自分自身で動いて考えるしかない。そういう意味ではしんどかったかもしれません。でも、コーチという役割に労力を割けたことで、新鮮な気持ちで日々を過ごせました。独立リーグのシーズンは初めてだし、真剣に野球を教えることも初めてでしたので、割と自分の中ではへこんだりはしていませんでした」
当初は1年間のつもりで移籍したが、翌シーズンも愛媛MPで現役続行を決めた。ただし、それは「NPB復帰を目指して」ではなく「区切りをつけるため」だった。練習すればするほど痛む右肩。今以上のパフォーマンス向上が難しい中、選手生活を続けてもNPB復帰は不可能だった。その現実は自分でも理解していた。それでも、少しでも悔いを残さず、可能な限り納得した形で選手としての野球人生を終わらせたかった。
独立リーグ2シーズン目、ボールをまともに投げることすらままならないので、出場は代打か指名打者しかない。迎えた9月17日、「選手としてはこれで最後」と決めて、後期優勝マジック1が点灯した徳島インディゴソックスとの首位攻防戦に先発出場した。「4番、指名打者」でフルイニング出場して4打数2安打。満身創痍の状態ではあったが、最後の最後、ようやく少しだけ自分らしい姿を見せることができて現役生活に終止符を打った。
コーチ専任になった今シーズン、NPBに憧れる若い選手たちには「危機感を持て」と言い続けている。「独立リーグにいる時点で、NPBの選手よりも野球選手としてのレベルは低い。この差は並大抵の努力では縮まらない」と伊藤は話した。
「独立リーグは、ハングリーな気持ちの選手ばかりかなと思っていましたけど、意外とユルいんだな、というのが第一印象でした。厳しい言い方をすれば、その程度の努力でNPBに行きたいとか言うなというレベルです。『NPBを目指している』という言葉にふさわしい行動ができている選手もいますが、全員ではない。むしろ稀です。
技術以外でも、なんでこんなこともできないのか、みたいなことばかりでした。練習環境を整えるための準備、ボール拾いひとつ例にあげても意識が低い。選手に『バッティングのコツを教えてください』と聞かれたりもしますが、技術的なことは一朝一夕では身につかないし、感覚もみな違います。それよりも大切なのは、状況把握や日頃からの考え方です。これは全員に共通して言えることです。
ただ自分自身を振り返っても、もし高校からすぐプロに入っていたら、同じように意識は低かったと思います。実際、阪神に入ったばかりの頃はアマチュアの気持ちが抜け切れていませんでした。なので、コーチとして頭ごなしに言うのではなくて、理解できるように伝えようと意識しています。理解できれば取り組み方も変わりますから」
同じ言い方をしても、意図が伝わる選手もいれば伝わらない選手もいる。おだてたほうがやる気になる選手もいれば、厳しい口調で言われたほうが結果を出す選手もいた。伊藤はそういう人間観察をしながら、コーチとして選手の心を掌握する術を学んでいた。
「彼らには時間がない。高卒なら3年、大卒なら1、2年で結果、もしくは結果以上の何かをスカウトにアピールしなければいけない。そのためには寮に戻って仲間とおちゃらけている時間や、街に出て遊ぶ時間など一切ないはずです。ただ、ここ(独立リーグ)はNPBを目指すと言いながらも、現実は夢を諦めるための場所でもあります。
選手は年間で3分の1から半分が入れ替わるので、『危機感を持つ』という意識をみなで共有することがものすごく難しい。教えられたことや考え方が、伝統として残っていかないので。危機感を持てと耳にタコができるくらい言い続けているので、選手からは口うるさいコーチだと煙たがられているかもしれません。でも、もしNPBに入れたとき、『あのとき、危機感を持って過ごしてよかった』と思ってもらいたいんです」
独立リーグは、プロ野球(NPB)を目指す場所であると同時に、ほとんどの選手にとっては、夢を諦めるための場所。伊藤自身もそれを経験しただけに、夢が叶うかどうかに関係なく、若い選手たちに「完全燃焼してほしい」「後悔してほしくない」という思いはより強くなるのかもしれない。
「松山は程よく田舎で、街に出ればそれなりに栄えている。とても生活しやすい場所です。今は街から10分ほど離れた所に暮らしていますが、夜はカエルの合唱です(笑)。僕は将棋の藤井聡太さんと同じ愛知県瀬戸市の田舎育ちで、実家は農家。田んぼに囲まれていて、中学の頃は冷房もつけずに窓を開けて、カエルの合唱を聴きながら勉強していました。高校からは地元を離れて野球中心の生活になりましたから、松山に来て中学まで過ごした田舎の実家を思い出して、懐かしい気持ちになりました」
実は伊藤は、高校(中京大中京)は野球推薦ではなく一般入試だった。大学もAO入試対策で猛勉強するなど、野球を続けるために子供の頃から努力を重ねてきた。「高橋由伸二世」と呼ばれて注目された大学時代の印象が強いので野球エリートに思われがちだが、天才肌の選手ではなかったのだ。
プロ野球選手になれたのも「目の前にある課題ひとつひとつに向き合い、コツコツ取り組んできた結果」と本人は振り返る。当初、「野球は大学で終わり」と考えていたのも、プロで通用するような選手になれるとは思っていなかったからだ。しかし、球界随一の人気球団である阪神、しかもドラフト1位で入団したことで、地味な努力を積み重ねてきた野球人生に狂いが生じた部分もあったのかもしれない。
結果が出れば実力以上に賞賛され、逆に出なければ、メディアばかりか応援してくれるはずのファンからも人間性まで否定される。いつしか大好きだったはずの野球が嫌いになり、試合に出ることも、縦縞のユニフォームを着ることすら、つらく感じるようになった。人気球団のドラフト1位選手の宿命に迷い、押し潰され、伊藤は本来の実力を発揮できないまま現役生活を終えることになった。
「スタメンで起用されて、打てば次の試合にも出られる。本来はうれしいはずが、1週間試合に出続けると精神的にも疲れ切ってしまい、『もし打てなければ、次の試合は出なくて済む』と感じたこともありました。プロ野球選手として、それは絶対ダメじゃないですか。でもNPB時代はそういう弱さがありました」
もし阪神のような注目度の高い人気球団ではなく、ドラフトも下位で指名されていたら、違った形のプロ野球人生が歩めたのではないか、と質問した。伊藤は少し間を置いて考えた後、「結果を出せなかったのは自分の弱さ。所詮そこまでが自分の実力だったと思います」と答えた。
NPB復帰の夢が潰(つい)えた後も愛媛MPに残り、今シーズンからは専任コーチとして野球を続ける理由は、ここが「伊藤隼太」という男の人生にとって大切な何かを教えてくれる場所と感じているからではないか。
今、伊藤は子供の頃と同じように、「大好きな野球」と純粋な気持ちで向き合うことができる。クラブハウスもナイター設備もない炎天下の練習場で、ゴム長靴を履いたガテン系スタイルでバットを握り、土埃にまみれながら大声を出し、笑顔で、時には檄を飛ばして若い選手と一緒に汗を流す姿を見ていて、そんなふうに感じた。
最後に、これからのビジョンについて聞いた。
「選手と同じでコーチもクビと言われたら終わりなので、生活に困らない程度の収入を確保できる仕事は、野球以外でも何かしらできるようにはなりたいですね。大好きな野球に長く携わり続けるためにも。ただ、野球のキャリアはもちろん大切にしたいですが、それだけでは物足りない自分もいます。
やりたいことがめちゃくちゃ多すぎるんです。目標が混在していて明確には決め切れていない状況ですが、ただ、今を全力でできなければ、とは思います。自分の行動はすべて自分に跳ね返ってくる。野球だけでなく、それ以外の仕事でも人付き合いの中で、そういう意識は大事かなと思います」
■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている。
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。