【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第12回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
■「今度、ウチで一緒に練習せえへん?」
K-1がスタートする10ヵ月ほど前の話だ。92年6月、当時シュートボクシングの日本チャンピオンだった吉鷹弘(よしたか・ひろむ)は、毎年大阪で開催されている極真空手の全日本ウェイト制選手権に足を運んだ。かつてこの流派で汗を流した吉鷹にとって、フルコンタクト空手のルーツとして知られる極真の会場に漂う独特の空気には触発されるものがあった。
会場では正道会館の関係者と思われる者から声をかけられた。
「平直行(たいら・なおゆき)君との試合を見たけど、君はストレートがいいよな」
<エッ、ストレート? 俺、そんなにパンチ力はないんだけどな>
90年8月、吉鷹は当時シュートボクシングの若きエース候補として注目を集めていた平を倒し、全日本ホーク級(現スーパーミドル級)王座を奪取していた。
少々疑問を抱かざるをえない評価だったが、吉鷹はあえて口にはしなかった。吉鷹からすれば話かけてくれた人は所属がなんとなくわかるだけで、正式な肩書きまでわからない。瞬時に組織の中でも立場が上の人と察し、適当に言葉を合わせた。銀行員として働いた経験からそういう対応は慣れていた。
声をかけたのは正道会館でトレーナーを務めている湊谷秀文(みなとや・ひでふみ)だった。のちにK-1に所属する各選手のセコンドを務め、現在も正道会館の第一線で指導する名伯楽だ。
湊谷はさっそく本題に切り込んだ。
「今度、ウチで一緒に練習せえへん?」
吉鷹は当時の正道会館では所属選手が出稽古に行くこと、あるいは他流派が正道会館で稽古することをほとんど禁じていることを知っていた。だから声をかけられたことは意外だったが、悪い気持ちはしなかった。80年代後半から正道会館は黄金期を迎えており、空手界の「常勝軍団」と呼ばれていたからだ。佐竹雅昭を筆頭に、他流派の全日本選手権に出ても優勝できる猛者が何名も在籍していた。
正道会館はさらに92年にはK-1の前身ともいえる『格闘技オリンピック』というイベントもスタートさせていた。正道サイドから見ればプロの立ち技格闘技で活躍する吉鷹は、スパーリングパートナーにうってつけだと思ったのだろう。
ただ、先の平戦以降、吉鷹は2年ほど試合から遠ざかっていた。主に仕事のフラストレーションが原因で気が滅入っていたところで車を運転していたら壁に衝突してしまい、大ケガを負ってしまったのだ。極真の会場に顔を出したときにはもう行員の仕事は辞めており、身体がウズウズしてきたところだった。
■「なんでお前にこんな話をするかわかるか?」
正道会館との接点はそのときが初めてではない。90年6月30日に実現した佐竹vsドン・中矢・ニールセンの直後、正道会館館長・石井和義が、吉鷹が所属していた大阪ジムまでやってきたのだ。
石井は初めて間近で見た吉鷹の首の太さに驚いたという。高校時代から始めた柔道で、吉鷹はレベルの高い大阪府の大会でベスト8に進出するほどの腕前だった。首の太さは柔道の稽古の賜物だった。
「一度、ウチに遊びにおいでや」
石井の訪問は、平とのタイトルマッチを翌月に控えていたタイミングで、吉鷹は真夏にもストーブを焚いた灼熱の部屋で練習してスタミナをつけるなど、独自のトレーニング方法で頭角を現していた。石井から見ても魅力的なファイターに映ったに違いない。
後日、正道会館に向かうと、吉鷹は館長室に通された。そこで石井は熱心に「野球やサッカーはすごいと思うやろ? これからは格闘技の時代になるのや!」と今後のビジョンについて熱心に語り始めた。
かつて地元のリトルリーグ・高槻リトルで活躍、清原和博が所属する岸和田リトルとも対戦した経験を持つ吉鷹は即座に反論した。
「野球になんて格闘技は絶対勝てないですよ」
予想だにしなかった吉鷹の反応に石井は口を尖らせ、説教するかのようにお金の流れを話し始めた。
「なんでお前にこんな話をするかわかるか? お前は銀行員やったやろ? だったらカネの流れがわかる。カネの流れをわかっている奴は強い。どうやってお金を借り、借りたお金をどうするのかをわかっている。その次に必要なのは宣伝や」
<宣伝? なんの話だろう?>
吉鷹は疑問を抱いたが、石井にあれこれ言われたくなかったので、口にはしなかった。そんな吉鷹の戸惑いなどお構いなしに、石井はお腹がすいたらどうやって入る食堂を選ぶかという例え話を持ち出した。
「どうやって店を選ぶ?」
「いや、ご飯が食べたくなったら適当に入るだけです」
石井は即座に「違う」と反論した。
「看板を見ろ。どの看板が目立つか。看板を見ることで、その店に入ってもいいと思わへんか。何を言いたいかというと、何かをしようとするとき、告知や宣伝を見るようにしないといけないということや。格闘技もそうしないといけない」
湊谷から声をかけられ出稽古に行く度に吉鷹は館長室に呼ばれた。92年3月26日の『格闘技オリンピックⅠ』が大盛況のうちに幕を閉じた数ヵ月後のこと。石井は佐竹vsモーリス・スミスを空手とキックボクシングのミックスルールで行なったことについて、「エンターテインメントかつ、日本人が対抗できるようなルールにしないといけない」と力説した。
「あとは宣伝とお金や」
石井の話を聞いて、吉鷹は石井が手がける格闘技イベントが天下を獲ることを確信した。既存のプロモーターとは、まるで発想が違う。
当時の格闘技イベントの告知は月刊で発行されていた格闘技専門誌や、プロレスの添え物のような形でベタ記事として掲載してくれた一部スポーツ紙だけに頼っていた。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2強時代にUWFが割って入るような形で活況を呈していたプロレスと違い、格闘技が一般社会の関心事になることはなかった。
また、集められるお金といえばスポンサーからの協賛金が大半で、地上波のゴールデンタイムでの放送など夢のまた夢だった。のちの歴史が証明するように、石井はそんな業界の常識を覆そうとしていた。吉鷹は石井の有言実行というべき行動力と斬新な発想に驚かされるばかりだった。
(つづく)
●布施鋼治(ふせ・こうじ)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など