1999年、桐生第一高で夏の甲子園優勝投手となった正田(写真=共同通信社) 1999年、桐生第一高で夏の甲子園優勝投手となった正田(写真=共同通信社)

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第10回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第10回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショート、現在は愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎をのもとでコーチ兼任投手を務め、今オフに現役引退を決断した異色の41歳を追う。(文中敬称略)

■日本ハム入団時は「将来のエース」と期待

今夏、炎天下のグラウンドで陽に焼けた顔に汗は流しても表情ひとつ変えず、黙々と投球練習を続ける姿に、どこか他の選手とは違った雰囲気を感じた。

正田樹(しょうだ いつき)、41歳(取材当時)。地元ファンからは「レジェンド」と呼ばれる存在だ。

「僕は教えるよりも、やはりプレーすることが好きといいますか、そこですね、一番は」

物静かで淡々とした語り口。今シーズンからコーチ兼任という肩書は付いたが、本人は「気持ち的には選手9、コーチ1です」と話すように、現役に強いこだわりを持っていた。身長188㎝、体重88㎏という体格以上に感じる存在の大きさ。それは波瀾万丈、NPBや独立リーグに限らず、海外も含めたさまざまな環境で「現役」にこだわり続けてきた野球人生が作り上げたものかもしれない。

「愛媛MPに入団したのは2014年5月でした。直前までは台湾プロ野球(中華職業棒球大聯盟)のLamigo(ラミゴ、現・楽天)モンキーズに所属していましたが、早々にクビになってしまいまして。そのとき、当時愛媛MPの投手コーチで、ヤクルト時代にお世話になった加藤(博人)さんに、声をかけていただいたのがきっかけでした」

Lamigoの前はNPBのヤクルト。ヤクルトの前は独立リーグの新潟アルビレックスBCに所属するなど、正田は愛媛MPに入団するまで、NPBの3球団(日本ハム/阪神/ヤクルト)、台湾プロ野球2球団(興農ブルズ/Lamigo)、独立リーグ1球団(新潟)、さらに、ドミニカ共和国のウインターリーグ(ヒガンテス・デル・シバオ)と、アメリカでスプリングキャンプに参加した際の球団(ボストン・レッドソックス)も含めると、合計8球団に籍を置いていた。愛媛MPは9球団目だった。

まずは愛媛MPに入団するまでを時系列で追いつつ、正田の野球人生を振り返りたい。

1999年、桐生第一のエースとして出場した夏の甲子園では、初戦(対比叡山)で、あと一歩で完全試合(1安打完封)という完璧な投球を見せるなど、6試合中5試合に先発して3完封、防御率0.85という圧倒的な成績で優勝投手に輝く。そして、同年のドラフト会議では、「長身から投げ分けるストレートと落差のあるカーブを武器にした左の本格派」と期待され、日本ハムに1位指名されてプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせた。

入団して2年間は一軍で結果を残せなかったが、3年目の2002年シーズンに開花。23試合に先発し、9勝ながら150イニング以上を投げてリーグ7位の防御率(3.45)という成績でパ・リーグ新人王に輝いた。しかし甲子園のヒーローは、プロ入り4年目以降、苦難の道を歩むことになる。

2002年、パ・リーグ新人王に選ばれ笑顔の正田(写真=共同通信社) 2002年、パ・リーグ新人王に選ばれ笑顔の正田(写真=共同通信社)

飛躍が期待された翌03年シーズンは左肩痛もあり、5勝15敗、防御率5.78と大きく成績を落とした。腰痛の影響もあり、翌04年シーズン、そして05年シーズンも思うような成績は残せず、06年シーズンはついに一軍での登板もなくなった。そして07年シーズンの開幕直前、阪神にトレードされることになった。

かつて日本全国の高校球児で最も輝いた瞬間を手にした場所、甲子園球場をホームにする阪神で復活を誓った正田。しかし、プロ野球選手としては甲子園のマウンドに上がる機会すら掴めないまま、阪神移籍2年目、26歳で戦力外通告。当時について正田は「与えられた練習はしていましたが、自分の考えがはっきりしていなかった。目的意識が低かった」と振り返る。

■台湾、ドミニカ、アメリカ、日本と流浪の旅

阪神を戦力外になったのち、12球団合同トライアウトに参加したものの、NPB球団から声はかからなかった、そんな中、台湾プロ野球の興農ブルズ(現・富邦ガーディアンズ)から入団テストの誘いを受けた。結果は合格。台湾での09年シーズンは、最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得する活躍で、オフシーズンはメジャーリーグ移籍の道を探るためドミニカ共和国に渡り、同国リーグに所属するヒガンテス・デル・シバオというチームの一員としてウインターリーグに参加した。

「メジャーリーグの道は切り開けませんでした。ただ、アジア圏とはまた違った野球の世界を知れたことは刺激になりましたし、貴重な経験になりました」

翌2010年シーズンも興農ブルズのユニフォームを着た正田は、開幕投手を任された。リリーフ兼任で32試合に登板して11勝5敗、防御率も2.81という活躍でチームの前期優勝に貢献。のちに野球人として大きな影響を受けることになる高津臣吾(現・東京ヤクルト監督)とは、このときチームメイトとして知り合っている。高津から学んだことなどついては後編で詳しく紹介したい。

世界を舞台に波乱万丈の野球人生を歩んできた正田 世界を舞台に波乱万丈の野球人生を歩んできた正田

興農ブルズを前期優勝に導いた正田だったが、チームの財政難を理由に、同年シーズン限りで契約解除されてしまう。再びメジャーリーグ入りの可能性を探るため、翌2011年2月、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結び、スプリングキャンプに招待選手として参加した。当時のレッドソックスには松坂大輔、田澤純一、岡島秀樹が在籍。メジャー契約を勝ち取れば、レッドソックス4人目の日本人メジャー選手誕生だったが、オープン戦の出場もできないまま、3月29日に解雇された。

野球を続けられる環境を求めて、4月、ルートインBCリーグの新潟アルビレックスBCに入団し、3年ぶりに日本で野球をすることになった。声をかけてくれたのは同じタイミングで興農ブルズを離れた高津だ。シーズン途中の入団ながら、先発に救援にとフル稼働し、23試合に登板して3勝5敗1セーブ、防御率3.00という成績で、新潟の後期優勝、地区優勝に貢献した。そんな独立リーグでの活躍がヤクルトのスカウトからも評価され、正田は4年ぶりのNPB復帰を果たしたのだった。

ヤクルトでの1年目、2012年シーズンは7年ぶりに一軍のマウンドに上がるなど、中継ぎで24試合に登板。翌2013年シーズンは8年ぶりに勝利投手にもなった。登板数は前年の24から15と減ったものの、防御率は2.87とまずまずの成績を残したが、同年シーズン限りでヤクルトを戦力外になった。

当時32歳──。困難といわれるNPB復帰を果たし、2シーズンで戦力外通告されたとはいえ、一軍のマウンドにも上がり、勝利投手にもなった。プロ野球選手としてのキャリアで考えれば、ある程度は納得して引退できるタイミングだったろう。むしろ、このタイミングを逃せば、次はいつ納得できる機会を得られるかわからないとも思えた。

正田は、それでも現役生活に区切りをつけることはなかった。再び海を渡り、今度は4年ぶりに台湾プロ野球に復帰した。しかし、前述したように開幕してまもなく解雇され、加藤博人からの誘いで愛媛MPに入団したのだった。

「自信なんてありませんけど、野球をやりたいかどうかというところで、『やめる』という選択肢がないまま、結果的に現役を続けているという感じでしょうかね」

最後は愛媛でマウンドに立ち続けた(写真=愛媛MP) 最後は愛媛でマウンドに立ち続けた(写真=愛媛MP)

野球は指導者ではなく、あくまで選手としてするもの。そう考えてきた正田がNPB入りを夢見る若い選手に伝えたいこと。次回はNPBという華やかな舞台ではなく、独立リーグで、41歳になるまで現役を続けてきた理由についてもう少し深掘りしたい。

(第11回につづく)

■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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