布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第13回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
「一緒にやらへん?」
シュートボクシングのエース、吉鷹弘(よしたか・ひろむ)は正道会館に出稽古に行くようになると、練習後、石井和義館長に呼び出され、よく口説かれた。つまり出稽古レベルではなく、中に入ってやらないかということだ。吉鷹は即座に答えた。
「絶対にやりません」
格闘技界の台風の目になりつつあった正道会館に魅力を感じなかったわけではない。ただ、自由にやりたかっただけだった。ファイトマネーだけで生活していこうという気持ちもなかった。当然、石井は金額の提示までしたが、吉鷹が首を縦に振ることはなかった。
「館長は自分がお金で動かないことは知っていたと思います」
それでも石井は諦めなかった。「これはマル秘ビデオや」と言って、当時タイ中量級を席巻していたディーゼルノーイの世に出回っていない試合映像を見せたりもした。一緒にいると、石井は決まって最後に同じ言葉を投げかけた。
「どや? 気持ちは変わったか?」
結局、吉鷹が正道会館入りすることはなかった。それでも、一度だけK-1に出場したことがある。94年4月30日、国立代々木第一体育館で行なわれた2回目のK-1GPで特別試合(ワンマッチ)として、以前から対戦を熱望していたイワン・ヒポリット(オランダ)と拳を交えるチャンスに恵まれたのだ。
ヒポリットはオランダのボスジムでアーネスト・ホーストの先生として知られる、まだ見ぬ強豪のひとりだった。吉鷹は「当時ヒジ打ちありのルールでは彼が世界で一番強いといわれていた」と振り返る。
「僕と闘う数週間前にはのちに僕ともやるシテサックというタイ人と闘い、ボディ一発で勝っている。『この人に勝てば、世界一』と思いました」
試合のオファーがきたのは3月24日、ホームであるシュートボクシングのリングで当時UWFインターナショナル所属のボーウィー・チョーワイクン(タイ)と対戦した直後だった。控室を訪れた『格闘技通信』の谷川貞治編集長に「4月30日、ヒポリットとやる?」と持ちかけられたのだ。
当時はまだインターネットは普及しておらず、格闘技の情報は専門誌や一部スポーツ紙に頼らざるをえなかった。その中でもK-1の情報量は隔週で発行されていた『格闘技通信』が抜きん出ていた。谷川はK-1普及のための労を惜しまなかった。
吉鷹は即答した。
「もちろんやりますよ。試合まで1ヵ月くらいしかないけど、関係ない。明日でもやります」
シュートボクシングの創始者であるシーザー武志(ワールドシュートボクシング協会会長)は試合の1週間ほど前に、「練習では重量級のホーストさえもボコボコにしている」というヒポリットの強さを耳にし、吉鷹に慌てて連絡した。
「お前、そんなに強い奴とやるんだったら、なぜ相談しなかったんだ?」
シーザー会長を納得させるため、決戦直前だというのに吉鷹は大阪から上京した。
「会長、絶対大丈夫です。ヒポリットにやられない自信があります」
「吉鷹、その自信はどこから出てくるんだ?」
吉鷹の並々ならぬ覚悟にシーザー会長も納得せざるをえなかった。ただ、決戦2日前まで吉鷹は契約書にサインをしなかった。ルールでなかなか合意に至らなかったからだ。
「当初の契約体重は70㎏だったけど、途中でヒポリットサイドは『そこまで落ちない』と言ってきた。しかも、(試合)2日前の計量を主張してきた。なめているのかなと思いました」
その一方で、吉鷹は「ヒジ打ちあり」を主張したので、K-1側と意見が対立した。
「石井館長とフジテレビの方に『格闘技を潰す気か? ヒジ打ちをなくした上で流行らせないといけないんだ。途中で流血したらどうするんだ?』とめっちゃ怒られました」
グローブは吉鷹が8オンス、ヒポリットが10オンスを希望したため、ここでもぶつかり合った。話し合いの末、計量は他の選手は2日前だったにもかかわらず吉鷹とヒポリットだけは前日計量にセッティングされた。
試合はヒジ打ちなしの70㎏契約のK-1ルール3分5ラウンドに落ち着く(今やK-1といえば本戦3分3R延長1Rが定番ながら、黎明期にはワンマッチに限り5R戦も組まれていた)。グローブはヒポリットサイドの希望が受け入れられ、10オンスのものを使用することになった。
試合開始のゴングが鳴ると、ヒポリットは"初来日の強豪"という触れ込み通り、得意の右のミドルキックやローキックで襲いかかる。左のボディアッパーやヒザ蹴りも強烈だった。明らかに試合の流れはヒポリットのほうに傾いていた。1Rが終わったとき、観客の誰もが世界との壁を感じた。
2Rになっても、その流れが変わることはなかった。インターバル、吉鷹のセコンドに就いた正道会館の湊谷秀文コーチは「日本代表やからな。底力を見せてくれや」というゲキを飛ばした。リングサイド最前列にいたシーザー会長は「アッパーだ!」と叫んだ。吉鷹が活動の拠点とするシュートボクシングでは、伝統としてストレートの軌道でアッパーを打ち込むアッパーストレートというテクニックが受け継がれていた。
3R、そんな周囲の期待に吉鷹は応えた。右フックをきっかけに攻勢に出たのだ。中でも独特のフォームから繰り出す右アッパーは完全にヒポリットを捉えていた。
4R、明らかに疲れの色が見え始めたヒポリットに吉鷹がローキックを打ち込む度に超満員の場内から歓声が湧き起こる。5Rになると、あとがないヒポリットは首相撲からのヒザ蹴りに勝負をかける。この作戦変更が吉と出た。吉鷹の猛攻はピタリと止んでしまった。判定は3-0でヒポリットに挙がったが、吉鷹の健闘が光った一戦だった。
あれから29年、55歳になった吉鷹はヒポリット戦の秘話を明かす。
「確か3Rだったと思います。試合中、自分の左ヒジがヒポリットの右の拳に当たって粉砕骨折しているんですよ。急に顔色が変わったので、ヨッシャ~ッと思いました。もし彼を取材することがあったら、彼の右の拳を見てください。いまだ変形しているはずです」
その後、吉鷹のもとにはK-1から7度もオファーがあったが、いずれも話がまとまることはなかった。今でも石井との親交は続いているが、ファイターとしての吉鷹は最後まで"K-1からハミ出した生き方"を貫いた。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。