会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第12回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章・第12回は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎が、プロ入り後に体験した昭和末期の豪快なパ・リーグの世界を明かす。(文中敬称略)
取材2日目、夜──。
松山の繁華街、大街道にある弓岡行きつけの割烹店でインタビューすることにした。店の名前は『割烹鶏 一八(かっぽうどり いっぱち)』。愛媛の野球関係者御用達の店で、カウンターメインで決して広くはないが、地元でも有名な人気店だ。
店名は高校野球の名門、松山商業OBである大将の名前、一八(かずや)が所以(ゆえん)。大将は、地元ケーブルテレビ局で野球中継の実況を担当したり、草野球チーム『割烹鶏 一八 野球クラブ』の代表として早朝野球をしたりする熱狂的な野球好き。東京の料亭や有名割烹で修業を重ねた料理の腕前と、お笑いタレント顔負けのトークで店を明るく盛り上げる。弓岡は県外から来客があれば、必ずこの店を紹介しているそうだ。
カウンターの一番奥に用意してもらった席に座り、まずは生ビールで乾杯。店自慢の鶏もも足の塩焼きにかぶりついた。
昼間の練習、弓岡は開始1時間前に来て、エアコンもないグラウンド脇のトレーニング室で、ひとり黙々とウェイトトレーニングをしていた。現場で指導する体力を維持するためだ。60代半ばの監督が、それこそ孫のような年齢の選手たちと同じようにトレーニングしている姿は強く印象に残った。
「筋トレは(オリックスで)コーチになってからずっと続けてる。膝と股関節が痛なかったらもっと動いとる。愛媛の監督になった2年目、姫路の自宅近くの河原でランニングしとった時、石につまずいて倒れて、それからおかしくなった。もう最悪(笑)」
膝と股関節を痛めてからは以前のように走ったり、名遊撃手と呼ばれた守備の技術を見せたりすることはできなくなった。それでも、今も自らノックをし、練習の準備や後片付けも他のコーチや選手と一緒にこなす。
朝早くから陽が沈む頃まで、焼けるような暑さのグラウンドで野球を続ける日々はキツくないのか、と訊いた。弓岡は「選手のほうが、よほどしんどい」と言って笑い飛ばし、冷えた生ビールを美味そうに飲み干した。
「現役時代、よく飲みに連れて行っていただいた先輩は、福本(豊)さんと山田(久志)さん。福本さんとは新人の頃、高知のキャンプで同じ部屋になった。福本さんの高知の行きつけのスナックは、いつもビールの山が準備されていた。帰ってくるのは遅いから『ユミ、先帰って寝とけよ』って。豪快な人やったな。体調管理なんて全然(笑)。でもスパイクのこだわりはほんと凄かった。
山田さんは近寄りがたい存在だった。偉大な先輩なので、僕からは挨拶以外なかなか話しかけられなかった。そやけど自分とおんなじ新日鉄出身(山田は新日鉄釜石硬式野球部)ということもあって、『ユミ、ユミ』と呼んで可愛がっていただいた。男前やから、どこの店でも女性にようモテてましたよ」
店のカウンターは、高校野球の監督、元高校球児の地元テレビ局営業マンなどで満席になった。弓岡のインタビューは時々、隣のお客さんや店の大将も加わって脱線し、野球談義に花が咲きつつ進んだ。
「当時は関東遠征に行ったら、夜は銀座の高級クラブで飲むのが楽しみやった。上田(利治)さんは出歩かずに、宿泊ホテルのバーでひとりで飲んでた。『なんで若いの、飯も食わんと酒飲みに出てくんや、門で見張っとけ!』って、マネージャーに指令を出してね。若い選手が明け方まで飲んで戻ってきたことが上田さんにバレて、次の日、『おまえら何しとんや!』ってカミナリ落とされた。
でも福本さん、山田さんクラスになれば、どれだけ遅く戻っても何も言われない(笑)。僕も朝まで飲んで......みたいなことは、たまにありましたよ。翌日ナイターの時は、ですけど。あれをせんかったら選手寿命も延びとったかもわからん」
当時、テレビ放送は滅多になかったパ・リーグの選手は、全国中継が当たり前だった人気の巨人戦を抱えるセ・リーグに対抗意識を燃やしていた。
弓岡が活躍した1980年代のパ・リーグには、投手で言えば、江夏豊、東尾修、村田兆治。打者では、門田博光、福本豊、そして落合博満と個性の際立った名選手、異端児を挙げればキリがない。野武士のような猛者が大勢いて、試合は意地と意地がぶつかり合い、乱闘騒ぎも厭わない。今のようにライバルチームの選手と仲良く食事に出かけたり、オフに合同自主トレをしたりするなど到底あり得ない時代だった。
当時は、選手のファッションもいろいろな意味で独特だった。原色の派手な柄のシャツに着替えて、足元は白いエナメル靴でキメる。腕には金のロレックスを巻き、首からは、やはり金のネックレスをぶら下げ、髪型はパンチパーマが定番。そんな出立ちで若手を引き連れて夜の街に繰り出す。それが高年俸を稼ぐ一流選手の証(あかし)だった。
弓岡も、若手の頃はそんな諸先輩方に憧れを抱いていたそうだ。ちなみにこの日、カウンターの隣に座る弓岡の右腕をチラリと見ると、時計はシックなタイプのロレックスだった。
「遠征先で『明日は雨で中止や。街に出るぞ!』とみんなで飲みに出かけて、でも次の日、晴れてデーゲームで大変なことになった時もあった(笑)。今の選手は、あんま飲まへん。遠征先でもホテルで飯食べたら終わり。あとは部屋にいる。飲んで遊んで云々ゆう選手は少なくなったな」
インターネットで瞬時に情報が拡散する現在は、何か事を起こせば世間から叩かれ、場合によっては選手生命も絶たれる。弓岡が選手として活躍した80年代とは違い、現在はパフォーマンスがどれだけ優れていても、一般常識に欠けた選手は社会からは認められない。「野球も私生活も豪放磊落(ごうほうらいらく)」と呼ばれるような破天荒なスター選手は、今後は生まれてこないかもしれない。
弓岡が引退したのは33歳、1991年だった。故障の影響もあり、出場機会は1988年シーズン後、親会社が阪急からオリックスに変わった時期を境にして減り始めた。88年シーズンの102試合に対し、翌89年シーズンは69試合。1970年代の名ショート、大橋穣(ゆたか)から引き継いで長年守り続けてきたショートのポジションには、88年のドラフト会議で2位指名されてプリンスホテルから入団した小川博文が定着した。
ただ33歳という年齢を考えれば、スタメン出場は厳しくても、代打や守備要員ならば現役自体は続けることも可能だった。実際、最終年は打数こそわずか18だったが、打率.333を記録していた。しかし、球団からは早い段階で「来季は一軍の内野守備・走塁コーチとしてチームを支えてほしい」と要請された。11年間、十分やり切ったという気持ちもあり、弓岡はコーチ転身を受け入れた。
「シーズン途中の9月、西武戦で遠征していた時、監督の土井(正三)さんからいきなりホテルの部屋に呼ばれて、『ユミ、来年はコーチせえ』と言われた。その時は、ちょっと考えさせてくださいとお答えして、家に戻ってから女房にも相談した。
そしたら『期待されとるうちがええん違うの? 現役は続けられても、あと1、2年。コーチ就任の話がある今が一番、受け入れ時違うの?』と言われ、まあ確かにそやなと思った。現役1、2年続けてもレギュラーは厳しい。肘を痛めて2度手術していたし、今が潮時かなと。仕事の依頼があるうちに受けたほうがええんかなと思ってね」
名将・上田利治監督のもとで、阪急ブレーブスの最後の選手として80年代のパ・リーグを生きた弓岡の現役生活は、余力を残しつつ終止符を打ち、33歳という若さで指導者に転身した。そして、弓岡のコーチ就任と時を同じくして、オリックスにはのち、メジャーリーグでも活躍する金の卵がふたり同時に入団した。
田口壮、そして、イチローである。
(第13回につづく)
■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。