九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。
つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。第一回は高校~大学時代の野球との出会いについて聞いた。
■野球との出会い~九州学院~明治入学
阪急ブレーブスで5度、近鉄バファローズを率いて2度のリーグ優勝を果たした名将・西本幸雄はかつてこう言っていた。
「俺が立教大学野球部におる頃、プロ野球に進んだ先輩たちはよくは言われなかった。『金のためか』と思われたようやな。そんな時代が長く続いたね」
野球の主役は東京六大学でプロ野球は亜流、あるいは邪道という見られ方をしていたという。その評価が一変したのは、西本の大学の16年後輩である長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団した1958(昭和33)年以降のことだ。
王貞治とのON(王・長嶋)コンビがジャイアンツを牽引し、リーグ9連覇・9年連続日本一の偉業を達成したのが1965~1973年。試合は連日テレビで放映され、日本中にファンを増やしていった。ONというスーパースター、ジャイアンツというチームによって、プロ野球の隆盛の基礎が築かれたことに異論のある人はいないだろう。
しかし、ジャイアンツだけで野球はできない。セ・リーグに星野仙一(中日ドラゴンズ)、江夏豊(阪神タイガース)、山本浩二(広島東洋カープ)、パ・リーグには野村克也(南海ホークス)、山田久志(阪急ブレーブス)らがいて、打倒ジャイアンツに燃えていた。幾多の名勝負が繰り広げられたことによって、プロ野球は多くのファンから支持を受けた。
歴史は勝者によってつくられる。しかし、各球団に所属する看板選手のほかにも個性派選手やいぶし銀の職人がいて、彼らがプロ野球人気を支えていたのだ。
大洋ホエールズでの実働11年(1967~77)。その後もプロアマ球界の境なく50年近くの長きに渡り、現場に立ち続けている。写真は大洋ホエールズのカードセットより
松岡功祐――1943年、熊本県生まれ。九州学院、明治大学、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で1位指名を受けて大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)に入団。
このプロフィールを見て、「あの選手か!」と思い出す野球ファンは多くないだろう。11年間プレーしたプロ野球で800試合に出場し、放ったヒットは358本、本塁打は3本だけだ。レギュラーとしてショートを任されたプロ1年目だけ、規定打席に届いた。
しかし、ユニフォームを脱いでからも、松岡は野球の世界にいた。1977年に現役引退後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたのち、スカウトに転身して多くの名選手を発掘している。2007年の横浜退団後には中国の天津ライオンズ、明治大学でコーチを続け、中日ドラゴンズでは選手寮「昇竜館」の館長もつとめた。
アマチュア野球のみならずプロ野球の表も裏も知り尽くす〝野球界の生き字引〟とも言える松岡功祐――裏方として野球界を長く支えてきた男に日本野球の60年を語ってもらおう。これまで野球ファンが信じていた定説が覆ることになるかもしれない。
■甲子園の夢破れ、目指したのは東京六大学
松岡が高校時代を過ごした九州学院(熊本)は春夏合わせて15度の甲子園出場を誇る強豪校だ。現在、令和初の三冠王・村上宗隆(東京ヤクルトスワローズ)をはじめ、島田海吏(阪神タイガース)、伊勢大夢(横浜DeNAベイスターズ)など多くのOBがプロ野球で活躍している。
松岡は言う。
「高校時代に甲子園には行けませんでしたが、熊本選抜のメンバーとして沖縄遠征に行きました。のちにジャイアンツで活躍する末次民夫(利光、鎮西→中央大学)と一緒にプレーしました。
当時、沖縄に行くのにはパスポートが必要で、鹿児島から28時間かけて船で行きました。なぜだか僕だけ船酔いしなくて『あほじゃないか』と言われたことを覚えています(笑)。1ドル=360円でしたけど、1ドルでぶ厚いステーキが食えましたよ」
甲子園出場を果たせなかった松岡が次に目指したのは東京六大学。明治大学野球部のセレクションを受けることになった。
「実家の隣に住んでいた永松栄吉さんは、1952年ヘルシンキオリンピックでボクシング日本代表に選ばれた方。明治大学のボクシング部の監督をされていた関係で、10歳上の兄貴が明治大学でお世話になりました。その縁もあって『おまえも明治に来るか?』と言われたので、『お願いします』と即答しました」
明治大学野球部総監督の島岡吉郎氏(1911~89)。同じ明大ラグビー部の北島忠治監督とともに名物監督として有名だった。愛称は「御大」(写真:共同通信)
当時、明治大学野球部の監督は"御大"の呼び名で親しまれ、かつ、恐れられた島岡吉郎がつとめていた。合宿所に足を踏み入れた瞬間、松岡はそれまで感じたことのない感触に驚いた。
「合宿所の玄関に入った時に、滑りそうになったんです。廊下がピカピカに磨きあげられていて。合宿所自体は古かったんですけどね。当時の島岡さんは身長160センチくらいで体重が100キロ以上あって、迫力がすごかった」
セレクションには全国から150人が参加していた。バッティングとノックをしたあとに紅白戦を行った。のちに聞かされたところによると、松岡は上位から5番目で選ばれたという。
「僕は政治経済に行きたかったけど、卒業するのが難しいからと言われて、農学部に入りました。校舎は生田にあったので、駿河台には一度も行ったことがありません。九州学院の2学年先輩が同じ農学部にいて、テストの時に助けてくれました。僕が4年の時に入ってきた高田繁(元読売ジャイアンツ)も農学部でしたね」
次回は12/23(土)に配信予定です。
■松岡功祐(まつおか・こうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている