現在、愛媛マンダリンパイレーツの球団広報兼チームマネージャーを務める萩原拓光。元投手で、2020年には9勝を挙げて最多勝に輝いた(写真=愛媛MP) 現在、愛媛マンダリンパイレーツの球団広報兼チームマネージャーを務める萩原拓光。元投手で、2020年には9勝を挙げて最多勝に輝いた(写真=愛媛MP)

【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第15回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎に密着。今回は、その弓岡たちを支える球団スタッフの思いを伝えたい。(文中敬称略)

■高校時代は弱小野球部の控え投手

「ユニフォームを脱いだ今でも、イベント開催時や食事に出かけた先で『頑張ってね』と声をかけてくださる方が大勢います。ありがたいなと思いますし、貴重な経験をさせていただいたなと感謝しています」

球団広報として監督の弓岡をサポートし、今回の取材セッティングにも尽力してくれた萩原拓光(たくみ)はそう話した。

2019年シーズンから3年間、愛媛MP投手としてマウンドに上がり、2020年シーズンには最多勝を記録するなど活躍した萩原。引退後はチームマネージャーに転身し、3年目の現在は営業や運営、広報など幅広く活動している。

現役生活3年間で55試合に登板し、17勝20敗1セーブ、防御率3.15という成績を残した萩原だが、学生時代は注目されるような選手ではなかった。NPBはもちろん、独立リーグでも「プロ」と呼ばれるような選手になれるとは本人さえ思っていなかった。

高校は群馬県内の進学校として知られる渋川高校。旧制中学時代からの歴史ある名門校だが、野球に関しては、在籍期間中は県予選3年連続初戦敗退で、しかも萩原は控え投手だった。卒業後はスポーツトレーナーを志して順天堂大学に一般受験で進学し、野球部に入部したものの、選手ではなく「トレーナー志望」だった。

「順天堂の野球部は、1年生は全員寮に入る決まりで、たまたま同部屋に推薦で入った選手と一緒になりました。彼はキャッチャーで、入学前から野球部の練習に参加していたのですが、『君も選手だったんでしょ、キャッチボールしようよ』と誘われ、キャッチボールをしたら『いい球投げるじゃん、現役続けたほうがいいよ』と言われました。

自分は、トレーナーになるつもりだからと話しましたが、彼は監督(同校は専任監督を置かずに毎年4年生から選出された学生監督が指揮)に『貴重な左投手で、戦力になりそうな子がいます』と伝えたようで、野球部の説明会の時、『君は左だろ。投手で入部したほうがいい』と言われました。トレーナー志望なのでとお断りしましたが、副部長の先生を紹介され、『トレーナー関係のことは後々、自分が面倒を見るから』と諭されて、結局、選手として入部することになりました」

広報のみならず、営業、運営など多岐にわたる活動でチームを支え、弓岡監督や選手たちから厚い信頼を寄せられている 広報のみならず、営業、運営など多岐にわたる活動でチームを支え、弓岡監督や選手たちから厚い信頼を寄せられている

■河原純一、正田樹に学んだ投球術

大学でも選手を続けることになった萩原。しかし、あくまでも「トレーナーになるための勉強」として捉え、レギュラーになることよりも、自分自身を実験台にしてどれだけパフォーマンスが上がるか試してみようと考えていた。すると、同部屋の友人や監督の見込んだ通り、初めて本格的なトレーニングや技術指導を受けたことで飛躍的に成長し、チームに欠かせない主力投手になった。

球速は131キロから144キロまで上がり、最終学年だった2018年の春季リーグでは東都3部の最優秀投手にも選ばれた。萩原は、子供の頃に描いた「プロ野球選手になりたい」という夢をもう一度見始める。大学院進学や就職で着実に人生をステップアップする友人たちとは別の道を歩むことを決意し、NPB入りを目指し、愛媛MPとつながりのある大学OBの紹介でオレンジのユニフォームに袖を通したのだった。

「手術明けの入団で、1年目は球速も140キロに届きませんでしたが、なんとか試合に出られるように頑張りました。たまたま運よく勝ちが付いて、前期はチームトップの勝ち数でした。でも、後期に肩をケガしてしまい療養しつつ出場を続けました。それでも四国アイランドリーグ選抜に選ばれるなど、高校や大学時代では考えられないような貴重な経験、学びの場を与えていただきました。

最多勝を獲得した2年目は、球速を上げると同時に、打者との間や駆け引きを意識しました。最多勝は毎回試合をつくることだけを意識して投げ続けたら、たまたま味方が援護してくれて、気づいたら、最多勝獲れるかも、という位置にいた感じです(笑)」

伸び代が大きかった分、当時監督だった河原純一(元・巨人投手、現・愛媛MP事業推進部)や、NPBや海外でもプレーした当時現役の正田樹から投球術を学んだことは、着実に血となり肉となった。そしてNPB入りを懸けた最終年と決めて挑んだ3年目、「24時間野球のことを考え続けた」と本人が振り返るように、かつてないほど追い込むような練習の日々を自らに課した。しかし、思うような成績は残せず、同年(2021年シーズン)限りで現役引退を決めた。

「まわりからはどう思われているかわかりませんが、自分の中では限界まで必死に取り組めたので、悔いは残さず満足できる現役生活を過ごすことができました」

■すべての選手が完全燃焼できる野球界づくり

真面目で地道に努力を積み重ねる姿を評価された萩原は、引退と同時に球団からチームマネージャー就任を要請され、現在に至っている。運営側になって初めて、選手時代は気づかなかった景色が見えるようになった。

「四国アイランドリーグplusは、どの球団も選手の給料は10万円程度です。現役時代は『なんでなん? もう少し上げてくれよ』みたいに思ったこともありました(笑)。でもマネージャーになって初めて、試合運営の大変さ、スポンサー獲得や営業の苦労を身をもって知り、『独立リーグの選手がお給料をいただけるだけでも、ものすごくありがたいこと』と理解できるようになりました。選手時代は自分のパフォーマンスを上げることは一生懸命考えても、自分たちの給料がどこから出ているのかさえよくわかっていませんでした(笑)」

萩原はいま、選手出身だからこそできる、現場と運営の相互理解や橋渡しができるようなマネージャーを目指して日々奮闘している。互いに感謝の気持ちが持てる組織になれば自然と成績も向上し、「愛媛マンダリンパイレーツ」という球団が地域になくてはならない存在になるはずだ。と同時に、自チームに限らず、「すべての選手が完全燃焼できる野球界づくりに貢献したい」という新たな夢も描いていた。

野球界全体に貢献できるような大きな夢を描いている萩原広報 野球界全体に貢献できるような大きな夢を描いている萩原広報
「最終的には、日本球界に指導者資格制度が採用され、首脳陣にも組織運営やコーチングを学んでもらえるような環境が作れたらいいなと考えています。知識と経験がしっかり認められたトレーナーや指導者がどのチームにも配置されて、どこのチームに所属しても、選手は質の高いトレーニングやコーチングを受けられる。そのための指導者派遣や育成をするような会社が作れたらいいですね。

自分自身、高校時代は弱小野球部の控え投手だったのに、大学や愛媛で素晴らしいトレーナーや指導者と巡り会えたことでパフォーマンスを飛躍的に向上させ、充分やり切ったと思えて引退できたことが大きかった。そういう経験をより多くの選手にしてもらいたい。四国アイランドリーグplusで実績を作り、日本の野球界全体に広めることに貢献できたらうれしいですね」

子供の頃に憧れたNPB入りの夢は叶わなかったものの、萩原は、独立リーグで新たな夢を見つけた。チームマネージャーとして選手のため、そして野球界全体に貢献できることを模索している。

(第16回につづく)

■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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