布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第14回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
1990年代半ばの格闘技界をひとことで表現すると、″トーナメントの時代″と定義づけることができる。93年4月30日、K-1が「ワンデートーナメント」という新しい試合形式で成功を収めると、その影響は海外にも飛び火する。同年11月12日に米国でスタートしたUFCも、黎明期はトーナメントを売りにしていた。
日本で初めてバーリトゥード(のちのMMA)を行ない、"400戦無敗の男"ヒクソン・グレイシーを初めて招聘した94年7月29日の『バーリトゥード・ジャパン・オープン1994』もトーナメントだった。
国内の立ち技系格闘技でK-1に続いてワンデートーナメントに打って出たのは、キックボクシングに投げを加えたシュートボクシング(以下SB)だった。95年1月31日、大阪府立体育会館(現エディオンアリーナ大阪)で『BATTLE RAVE Vol.1 S-cup95 SHOOTBOXING WORLD TOURNAMENT IN OSAKA』(以下S-cup)を開催したのだ。
トーナメントをやるという話を耳にしたとき、優勝候補のひとり吉鷹弘は大会が成功するとは思えなかった。理由はハッキリしていた。
「トーナメントは極真のように顔面なしだからこそできるのであって、顔面ありでは到底できるとは思えなかったからです」
極真は裸拳でド突き合うが、顔面殴打は禁止されている。すでにK-1はトーナメント路線を突き進んでいたが、吉鷹は「ヘビー級路線だからこそ成功している」と捉えていた。重量級なら一発で決着がつくので、脳へのダメージは少ない。対照的に連打で勝負が決まりがちな軽・中量級では脳へのダメージが深刻になりかねないと考えたのだ。
「ヘビー級では成功しても、それより下の階級では無理だと思いました」
契約体重は70kgで行なわれたが、最初からそう設定されていたわけではない。当初SBの創始者シーザー武志は75㎏でやろうと動いていたというのだ。現役時代、自身も75㎏で闘っていたシーザーは吉鷹を説得にかかった。
「SBは75㎏だよ。70㎏ではないんだよ」
当時、75kgにはすでにSBで活躍していたマンソン・ギブソン(アメリカ)、オーストラリアで旋風を巻き起こしていたポール・ブリッグスらがいた。全員集まれば、充実した顔触れになるはずだった。とはいえ当時ウェルター級からスーパーウェルター級で闘っていた吉鷹にとって、75㎏級はいくらなんでも重すぎる体重設定だった。
「そんな連中と1日3試合もやったら、絶対潰されると思いました」
結局、吉鷹の「70㎏級でなければ、俺は出ない」という主張が通り、第1回S-cupは契約体重70㎏で行なわれることになった。のちに魔裟斗をエースとするK-1WORLD MAXで70㎏級は世間に認知されるが、その先鞭をつけたのはS-cupだった。
8人制トーナメントの出場メンバーは「打倒・吉鷹弘」を目標に掲げる選手を中心に集められた。まず、前年の94年に吉鷹に敗れたISKA世界王者の大江慎、同年やはり吉鷹に敗れていたムエタイ戦士ボーウィー・チョーワイクン(両者とも当時はUWFインターナショナル所属)、第2回S-cupで優勝を果たすライアン・シムソン(スリナム)ら4名の選手がエントリーしてきた。さらに吉鷹と過去1勝1敗の″アメリカの狂犬″ロニー・ルイスの出場も決定した。こうなると、吉鷹が勝ち続ければ、いやがうえにもドラマは展開していく。
しかし、大会2週間前、阪神・淡路大震災が発生し、6434人もの犠牲者を出す大惨事となった。大阪郊外の高槻市に住んでいた吉鷹は無傷だったが、部屋に飾ってあった勝利者賞のトロフィーは全部割れてしまった。余震が続く中、交通網も麻痺したままだったので、ジムにも行けなくなってしまった。
「練習は自宅裏の公園に人を呼び、ミットを持ってもらったりしてやっていました」
愚痴や弱音を吐いている暇はなかった。
「とにかく今置かれた状況を乗り越えないといけない。そっちのほうが必死でしたね」
大会直前になってもアクシデントは続く。吉鷹の対抗馬と目されていた大江がケガで欠場。リザーバーとして来日する予定だったハッサン・カスリオイ(モロッコ)の姿もなかった。
したがって大江と初戦(準々決勝)で闘う予定だったオランダの選手は不戦勝で難なく準決勝へ。それだけではない。初戦でシムソンを破ったボーウィーは試合中に左足首を負傷し、準決勝進出を断念せざるをえなかった。そこで準決勝でこのタイ人と闘う予定だった吉鷹も労することなく決勝に進出した。
もう一方のブロックを勝ち上がってきたのは大江と並ぶ対抗馬と目されていたルイスだった。短気で過去の試合では吉鷹に噛みついたり、スリップダウンした吉鷹の頭部にサッカーボールキックを見舞う暴挙に出た前科を持つ男だけにラフな攻防が予想されたが、案の定、吉鷹とのラバーマッチは荒れに荒れた。
試合は吉鷹のローキックとリーチを活かしたルイスのパンチが激しく交錯する展開に。本戦3分3ラウンドでは決着が付かず延長戦へ。吉鷹はここぞとばかりに投げによるシュートポイントを狙うが、そのたびにルイスは片ヒザをつき相手のスローイングを封じた。結局延長戦でも決着はつかず、勝負は決勝だけに許された再延長戦に突入した。
このあたりからルイスの様子がおかしくなっていく。セコンドに「俺の勝ちじゃないか。もう試合を続けるのはイヤだ。俺はやらないぞ」とゴネ始めたのだ。
それでもセコンドがなだめる形で試合は続行されたが、判定は1-0で引き分け(吉鷹に一票)。ルールによって勝負は体重判定に持ち込まれる予定だった。しかし、体重判定になると自分が不利と判断したのだろう。ルイスは再びわめきちらし、セコンドもそれに助太刀する形で再々延長を要求し始めた。
格闘技がスポーツ化した現在なら絶対認められまい。しかし舞台は1995年。格闘技界にはまだ昭和の匂いが漂っていた。場内からは「延長」コールが起こり、吉鷹も「もう1ラウンド闘いたい」と同調したので、関係者協議の末、特例として再々延長戦が実施されることになった。
ここで吉鷹は本領を発揮し、首投げを決めるや、右アッパーをヒットさせ、さらに左ローでルイスをグラつかせた。文句なしの判定勝ち。あれから28年、改めてトーナメント優勝の要因を聞くと、吉鷹は作戦がハマったと打ち明けた。
「極真のトーナメントには多少なりとも出ていたので、S-cupでも試合ごとにダメージは残るだろうと覚悟していました。その一方で試合ごとに闘い方を変えていかないといけないとも思っていました。ローキックでずっと攻めていたら自分の足が潰れる。だから初戦は蹴り、次は投げ、最後はアッパーと心に決めていました」
優勝を決めた瞬間はどんな思いに?
「なんとかやり遂げたという感じ。今だから言えるけど、当時トーナメントはすでにK-1がやっていたので、僕らもやらないといけないという空気もありましたからね」
トーナメントでKO決着はひとつもなかったが、終わりよければ全てよし。実をいうと初戦で吉鷹は右足首を捻挫していたが、弱気な素振りは一度たりとも見せていない。準決勝で対戦予定だったボーウィーの棄権が判明すると、「やれっていうのに。せっかく来てくれたお客さんに申し訳が立たんわ!」と声を荒らげていた。普通ならば1試合なくなったことを喜んでもいいはずなのに。震災で心がすさみがちな関西にもっと勇気を――。吉鷹のプロとしての自覚がトーナメントに立ち込めていた暗雲を払拭した大会だった。
その後もS-cupは2、3年に一度の割合で定期開催されている。吉鷹は「こんなに長く続く大会になるとは思わなかった」と驚く。「その第1回大会優勝者として名前を残してもらえたことはうれしい」
スウェーデン出身のハードロックバンドEuropeが歌う『ファイナル・カウントダウン』を入場テーマ曲に、ガウンを羽織ることなく長い赤のハチマキを頭に巻いただけで入場してくる吉鷹の雄姿は今もファンの心に刻まれている。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。