布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第15回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
人は彼を"ヒットマン"(狙撃手)と呼んだ。一撃必殺という表現がピタリと当てはまるほど、彼が放つ右ストレートは想像を絶するほどの破壊力を秘めていたからだ。その一撃をまともに食らえば、まるで糸の切れた操り人形のように対戦相手の身体は無力化するしかなかった。筆者は実際にそんな場面を彼が出場した大会で何度も目撃している。
彼の名は長田賢一(おさだ・けんいち)。打撃系総合武道「空道」を創った大道塾に所属し、空道の全日本選手権──北斗旗(ほくとき)の無差別、あるいは体重別(重量級)で計7回も優勝している。
長田が全盛期を迎えていた80年代後期から90年代初頭、まだ世に地上波で放送されるような格闘技のビッグイベントは存在していなかった。その代わり、極真空手をルーツとするフルコンタクト空手は大きな夢とロマンに満ち溢れていた。
フルコンの道を極めれば、「世界一強い男」を名乗れる。そう思われていた時代だった。ときには熊や牛とも闘う空手家の常軌を逸した闘争本能に、強さを渇望する人々の心は大きく揺さぶられていたのだ。
長田が身を置く大道塾は、1981年に極真空手の全日本王者だった東孝(あずま・たかし)が創設した総合武道だ。翌82年、東は『はみだし空手』という自伝を上梓しているが、その発想はまさに従来のフルコンタクト空手の枠からはみ出したものだった。
フルコンタクト空手をやっていれば誰もが一度はぶち当たる疑問。それは上段蹴りによる顔面攻撃は認められていたが、裸拳によるそれは禁止されていることだった。ゆえに「なぜ急所が集中している顔面を拳で攻撃したらいけないのか?」という疑問を感じる者は少なくなかった。
フルコンが直面する問題点を払拭するために、東は顔面プロテクターを着用したうえでの顔面殴打を解禁。さらに瞬間的な投げや、体格差があれば金的攻撃も認めるという斬新なルールを作り上げた。のちには制限時間を設けたとはいえ、寝技や極め技もOKにしたのだから、"総合武道"という括りは決してオーバーではなかった。
1964年生まれの長田の格闘技歴は、小学生のときに始めた伝統派の松濤館空手までさかのぼる。
「ブルース・リーの映画が流行ったら、(松濤館の)先輩が『あんなのは......』と批判していたことを覚えています。松濤館をやっている頃は極真の『きょ』の字も出てこなかったですね」
我が流派こそ最高で最強――空手は無数にある流派ごとに閉じられた世界として、それぞれ存在するケースが多かった。
極真との最初の出会いは『ケンカ空手』という本を書店で見かけたことがきっかけだった。文章の中にあった「(大山倍達談)」という表記が気になったので、友達に聞くと、『長田は極真空手も知らないのか?』と不思議がられた。
「そのとき、初めて『空手バカ一代』の存在を教えてもらったわけです」
『空手バカ一代』は極真空手の創始者・大山倍達の半生を劇作家の梶原一騎が脚色したうえで世に出した格闘技劇画だった。ナレーションというべき梶原の「この男は実在する」という台詞に、空手の神秘的な強さに興味を抱く少年たちの胸は高鳴った。
長田もそのひとりだった。そして、中学時代に東孝率いる極真会館宮城支部へ入門する。
「大山館長が『君、二本指で逆立ちができれば、地上最強の男になれる』とおっしゃっていたので、わたしも稽古を重ねそれができるようになりました。振り返ってみれば、異常な世界ですよね」
高校の進路希望には、第1希望を東京池袋にあった極真会館総本部の寮として知られていた若獅子寮、第2希望を東の内弟子と書き、周囲を困らせた。空手で強くなること以外は興味がなかった。
「当時は誰よりも稽古をしようという気持ちになっていました」
辛うじて地元宮城県仙台市の高校に進学しても、空手熱は高まるばかり。実家近くの公園での自主トレを欠かすことはなかった。今のように格闘技ショップもない時代だったので、長田は自ら袋に土を詰めたお手製のサンドバックを作り、それを自宅近くの公園の鉄棒に吊るした。
寒い冬のある日、サンドバックが凍っていることを知らずに、正突を叩き込んで拳を痛めたこともあった。その後、お手製のサンドバックは警察に注意され、撤去せざるをえなかったという。
また極真空手は「ケンカ空手」と呼ばれていた時代もあり、『空手バカ一代』にも大山が大立ち回りを演じるシーンがある。劇中に登場する極真の猛者たちは芦原英幸の"ケンカ十段"を筆頭に、現実世界でもケンカのエピソードに事欠かなかった。長田も先輩たちにならい、必死にケンカをするように努めた。
高校時代には仙台駅前で不良5人に絡まれ人気のないところに連れ込まれたが、ほどなくして長田はひとり何食わぬ顔で戻ってきたという逸話が広まっている。事実確認をすると、長田は「その話はわたしのwikiにも載っているみたいですね。消してほしいなぁ」とぼやきつつ、話し始めた。
「確かにひとりでvs集団をやったことがあります。あとは仙台駅前でわたしが直立不動で何回も頭を下げているシーンを知人に目撃されています」
謝っていた?
「いいえ、それはわたしがケンカをお願いしている姿だったんですよ」
さも自分が強いように虚勢を張ったり、すごむのではなく、自ら頭を下げてまでケンカを買ってもらう。ここに他の者のケンカとは一味も二味も違う長田ならではの狂気が見え隠れしている。
路上での実戦は、実に「147回」に及んだ。「今思うと申し訳ないことをしたと思います。頭がちょっとリーゼントだったり、学生服がちょっと長いという理由だけで、『ケンカしてくれませんか?』とお願いして、こっちからパチーンとやるわけですからね」
勝負はほとんどローキック一発で決まったという。長田の名誉のためにひとこと付け加えておくと、その目的はケンカに強くなりたいためではなかった。
「ただ、純粋に強くなりたい一心でやっていました」
今同じことをやれば、すぐ警察のご厄介になることは間違いない。ましてや駅前だと四六時中無数の監視カメラが道行く人々を観察している。長田はケンカに寛容な時代に多感な時期を送っていた。
「ケンカに強いだけが強さではもちろんないけど、わけのわからない正義感を持ってやっていたんだと思います。何かしら強さを追求せざるをえなかったし、そうしないとやっていけなかった。それだけエネルギーが余っていたのでしょう。空いている時間があれば何かをしていたかった」
そのときの自分に何かアドバイスを送るとしたら?
「『ケンカしている暇があったら稽古しろ』と言いたいですね(微笑)」
その後、長田は大道塾のエースとして活躍する。大きく流れが変わったのは87年4月。のちに日本で初めて"400戦無敗の男"ヒクソン・グレイシーと闘う先輩の西良典とともにムエタイの本場タイに練習に行ったことをきっかけに、長田の目の前には大道塾とはまた違った世界が広がり始めた。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。